| OB | |
|---|---|
| 田畑一也 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 富山県高岡市 |
| 生年月日 | 1970年3月10日 |
| 身長 体重 |
178cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1991年 ドラフト10位 |
| 引退 | 2002年 |
| 経歴 | |
選手歴
|
|
| プロ野球選手テンプレート | |
1969年2月27日生まれ。富山県高岡市出身。小学生時代から野球を始めている。
高岡第一高等学校に進学。2年時から本格的に投手としてプレーするようになり、県内屈指の好投手として名を馳せたが、甲子園大会には手が届かなかった。
卒業後、北陸銀行に入行。ただ、当時のチームにはトレーナーやドクターがおらず、腰や肩を壊してまともにプレーできなくなってしまったため退社。その後、自動車メーカーで3ヶ月ほど働いた後、実家に戻り家業である大工として働いていた。
2年程が経ち、怪我が癒えてきたところで、遊び感覚で福岡ダイエーホークスの入団テストを受験。テストの様子を見ていた関係者から「球速はないがキレがある」と評価され、200人の受験者の中で唯一の合格者となった。
1991年ドラフト会議にて、福岡ダイエーホークスから10位指名を受け入団。同期入団には若田部健一・浜名千広・三井浩二らがいた。
1993年、一軍デビューを果たし、13試合に登板。プロ初勝利も挙げている。
その後はリリーフとして毎年10試合以上に登板したが、今ひとつ結果を残せないでいた。
1995年シーズンオフ、佐藤真一とともにトレードでヤクルトスワローズへ移籍。
1996年、開幕ローテーション入りを果たすと、石井一久や岡林洋一らエース格の離脱した穴を埋める活躍を見せ、オールスターゲームにも初出場を果たした。12勝12敗1セーブ、防御率3.51という成績を残している。
1997年、吉井理人や故障から復帰した石井一久らとともにローテーションの軸として活躍し、2年連続でオールスターゲームにも出場。田畑はシーズン通して最多勝争いを繰り広げ、15勝5敗、防御率2.96と好成績を残し、セ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献した。
1998年、右肩の故障が再発、以降この故障に苦しまされ、低迷が続く。
1999年、大阪近鉄バファローズへトレード移籍。近鉄では10試合に先発登板して3勝を挙げたが、防御率6点台と精彩を欠いた。
2000年、三澤興一らとのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。初年度の2001年はリリーフとして29試合に登板。翌2002年、肩が限界に達し、同年限りで現役を引退。
引退後、巨人でスコアラーを務めた後、2012年にコーチに就任。以降は、ヤクルト、富山GRNサンダーバーズ、テイ・エス テックでコーチを務めた。
2023年からは、サムスン・ライオンズでコーチを務めている。
140km/h台の直球と、大きく曲がるカーブを武器に活躍した右腕。
ヤクルト移籍後に才能が開花したことから、『野村再生工場の最高傑作』との呼び声も高い選手である。
ドラフト指名時、田畑の担当スカウトであった池ノ上格の計らいで、所属チームは元北陸銀行ではなく、プレー歴のない家業の『田畑建工』で読み上げられた。また、パンチョ伊東がドラフト会議で最後に読み上げた選手でもある(パンチョ氏は同年のドラフト会議をパ・リーグを退職。読み上げも同年が最後)。
| 通算:9年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 166 | 11 | 6 | 37 | 36 | 1 | --- | .507 | 632.1 | 225 | 376 | 315 | 291 | 4.14 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/12(金) 16:00
最終更新:2025/12/12(金) 16:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。