田畑一也 単語

タバタカズヤ

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田畑一也たばた かずや)とは、元プロ野球選手である。

概要

1969年2月27日生まれ。富山県高岡市出身。小学生時代から野球を始めている。

高岡第一高等学校に進学。2年時から本格的に投手としてプレーするようになり、県内屈の好投手として名を馳せたが、甲子園大会には手が届かなかった。

卒業後、北陸銀行に入行。ただ、当時のチームにはトレーナードクターがおらず、や肩を壊してまともにプレーできなくなってしまったため退社。その後、自動車メーカーで3ヶほど働いた後、実家に戻り業である大工として働いていた。

2年程が経ち、怪が癒えてきたところで、遊び感覚で福岡ダイエーホークスの入団テスト受験テストの様子を見ていた関係者から「球速はないがキレがある」と評価され、200人の受験者の中で一の合格者となった。

1991年ドラフト会議にて、福岡ダイエーホークスから10位名を受け入団。同期入団には若田部健一浜名千広三井浩二らがいた。

1993年、一軍デビューを果たし、13試合登板プロ勝利も挙げている。

その後はリリーフとして毎年10試合以上に登板したが、今ひとつ結果を残せないでいた。

1995年シーズンオフ佐藤真一とともにトレードでヤクルトスワローズへ移籍。

1996年、開幕ローテーション入りを果たすと、石井一久岡林洋一エース格の離脱したを埋める活躍を見せ、オールスターゲームにも初出場を果たした。12勝12敗1セーブ防御率3.51という成績を残している。

1997年吉井理人や故障から復帰した石井一久らとともにローテーションの軸として活躍し、2年連続でオールスターゲームにも出場。田畑シーズン通して最多勝争いを繰り広げ、15勝5敗、防御率2.96と好成績を残し、セ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献した。

1998年、右肩の故障が再発、以降この故障に苦しまされ、低迷が続く。

1999年大阪近鉄バファローズへトレード移籍。近鉄では10試合先発登板して3勝を挙げたが、防御率6点台と精を欠いた。

2000年三澤興一らとのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。初年度の2001年リリーフとして29試合登板。翌2002年、肩が限界に達し、同年限りで現役を引退

引退後、巨人スコアラーを務めた後、2012年コーチに就任。以降は、ヤクルト富山GRNサンダーバーズ、テイ・エス テックでコーチを務めた。

2023年からは、サムスンライオンズコーチを務めている。

人物・エピソード

140km/h台の直球と、大きく曲がるカーブ武器に活躍した右腕。

ヤクルト移籍後に才が開したことから、『野村再生工場の最高傑作』との呼びも高い選手である。

ドラフト名時、田畑の担当スカウトであった池ノ上格の計らいで、所属チームは元北陸銀行ではなく、プレー歴のない業の『田畑建工』で読み上げられた。また、パンチ伊東ドラフト会議で最後に読み上げた選手でもある(パンチョ氏は同年のドラフト会議パ・リーグを退職。読み上げも同年が最後)。

通算成績

投手成績

通算:9年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 166 11 6 37 36 1 --- .507 632.1 225 376 315 291 4.14

獲得タイトル・表彰

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