吉永幸一郎 単語

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ヨシナガコウイチロウ

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吉永幸一郎(よしなが こういちろう、1969年5月1日-)とは、かつて福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツに所属した元プロ野球選手である。ポジション捕手一塁手城島健司の前のダイエー捕手である。

概要

1969年生まれ。大阪府出身。

東海大学工業高校から1987年ドラフト5位で南海ホークスに入団。南海最後のドラフト組の一人。ドラフト同期は、1位吉田豊彦2位・若井基安、3位・柳田聖人、4位・大道典嘉、6位・村田勝喜と、全員が初期のダイエーを支えた面々である。

1988年1989年は一軍出場なし。1990年に初めて一軍登録され、暫くは一軍と二軍を行ったり来たりだったが、当時ダイエー監督だった田淵幸一から正捕手に抜され、以後、長打力のある捕手として、クリーンナップで起用されることも多くなった。

1994年には初のベストナイン賞(捕手)、また吉田豊彦とのコンビ最優秀バッテリー賞を受賞。1996年捕手ベストナインいたが、同年に膝を故障。翌1997年1994年ドラフト1位で入団した城島健司に正捕手の座を譲り、内野手一塁手)に正式コンバートされた。以降、松中信彦一塁手に定着するまでその守備についていた。

1997年シーズンは自己最高打率.300、自己最多本塁打29本をマークオールスターでは4番も打った。しかし、翌1998年小久保裕紀の出場停止(脱税事件+怪でその後も出場機会減。)で4番を任せられるも、打率.249、本塁打13、打点48と、思った通りに活躍出来なかった。
1999年指名打者として出場し、打率.275本塁打16、38打点ダイエー優勝に貢献した。しかし、日本シリーズ先発出場できなかったことから、FA宣言をほのめかしたが、残留した。
2000年打率本塁打打点ともに前年の成績を下回り、規定打席に達しないものの、スタメンマスクを被ったり、代打として起用されるなどして、ダイエーの連覇に貢献した。

2000年シーズンオフ大野倫、佐藤との交換トレード(実際は大野+金銭だったが、金銭を辞退し、ダイエー償で佐藤を獲得。)で読売ジャイアンツに移籍。代打として起用され、2003年引退した。

ダイエー時代は1991年より背番号『27』を背負っていたが、1998年のみ『3』を背負っていた。

ダイエー時代、福岡ドームに本拠地が変わった際、当時の日本にあっては格段に広い同球場バックスクリーン方面によく飛ばしていたことから、周囲からパワーの凄さを評価されていた。1997年に29本塁打を放っているが、ノーゲームで1本損しているため、この1本があれば、3割30本という数字いていた。

引退後は会社経営をしていたが、会社は倒産。その後、野球教室運営する標のために日々努力していたが、2014年、ついに野球教室FIBベースボールアカデミー」を開設。小林亮寛神内靖とともに導をしつつ、中学野球チーム福岡ボーイ」の監督を務めた。しかし2016年限りで野球教室は閉校、チームも解散してしまう。

その後は福岡で会社勤めをしながら、2019年からは静岡中学野球チーム沼津ヤングベースボールクラブ」で特別コーチを務めている。

細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』で、360°モンキーズパリーグの打者と捕手モノマネをする際、山内崇が『元ダイエー吉永』として、吉永モノマネをする。

通算成績

通算打撃成績

通算:14年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1250 4389 3797 436 1057 153 505 4 16 27 540 9 741 90 .278 .367

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