「爨習」(サンシュウ ???~???)とは三国時代の武将。字は不明。建寧郡(雲南省曲靖市)の住人。
爨習の爨氏は南中における有力な豪族の一つで、妻の甥には李恢がいる。
「三国志」の時代において現在の雲南省や貴州の西部、四川省の西南部などはひとまとめにして「南中」と呼ばれ、漢民族の支配力があまり及ばず、叟族などの南方異民族がかなりの割合で住んでいたことから「南蛮」と蔑まれる事もあった。
南中の支配は後漢末期は益州刺史が兼ねる事となっており、劉璋が刺史であった頃に爨習は建伶県長に任命されていたが、ここで法を犯すなどやりたい放題の振る舞いをしたために、李恢が連座して免職の危機に立たされたが、太守の董和が「爨習が南中の有力豪族であるから」という事で揉み消し融通を利かせ赦された。(爨習自身がクビになったかどうかは特に記述がない)
劉璋が劉備に追われた後は益州を制した劉備の支配を実質的に受けたが、劉備死後に孫権と通じて蜀の支配を拒んだ雍闓や孟獲と同調して蜀漢と対立するも、諸葛亮率いる南蛮討伐軍にフルボッコにされ、降伏した。
降伏後は諸葛亮の抜粋によって孟獲ら共々蜀将として取り立てられ、諸葛亮の配下となって南中軍を率いて行参軍・偏将軍と歴任し、最終的には領軍に登った。街亭の戦いにも参陣していたという。231年に李厳罷免を上表する文章にも名がある。
『華陽国志』においては孟獲・李恢と並んで建寧郡の人士として称えられている。
・・・と、上記に正史の李恢伝・李厳伝や華陽国志から断片的に得られる情報で経歴を書き連ねたが三国志においては個別の伝も存在せず、爨習自身は大して目立たない存在である。だがこの時に南中の実力者として爨氏が認められ、権力を得たまま存続したことは南中の歴史においてかなり重要である。
蜀が滅んだ後も西晋、成漢、東晋、北魏、梁、北周などの間を目まぐるしい離合集散を繰り返しながら激動の五胡十六国、南北朝時代を生き延び、孟氏・李氏・霍氏など他の南中の名士が舵取りを誤って歴史の波間に消えていった中で爨氏はいつしか南中を代表する一族となり、やがて南中の地方政権そのものが「爨」と呼ばれ、そこに住む人達も「爨族」と呼ばれるようになっていた。
やがて隋唐の時代に爨は盆地で農耕を行う東爨(白蛮)とチベット・ビルマ系異民族で構成され山間に住む西爨(烏蛮)に分裂し、時に唐の侵攻を受けながらもしぶとく南中に残り続けていたが、やがて西爨の異民族達から有力な6つの部族が生まれ(六詔)、その内の一つである蒙舎詔の王である皮羅閤が唐の支援を受けて六詔を統一し、南詔を建国。この南詔に東西爨氏は敗れ去り、南詔が雲南地方を統一した。
こうしてついに爨氏は王座から蹴落とされた訳であるが、南詔の雲南統一が750年頃の事であることを考えれば爨一族の南中支配は実に500年以上続いていた事になる。もう充分すぎるぐらい影響力を残したと言えるのではないだろうか。
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5 ななしのよっしん
2023/06/10(土) 00:50:20 ID: Y7cpEwghFw
光栄三國志にもそろそろ登場して欲しいな
ただでさえ末期は人材不足だし・・・
6 ななしのよっしん
2023/07/19(水) 23:00:07 ID: 6SXwUEFU0p
東西爨が三国志の時代の500年後に滅んだからと言って、爨氏が500年その地を牛耳ったとは言えないのでは?
匈奴なのに漢王朝をあやかって劉氏を名乗ってる人も居るし、『春秋左氏伝』にはそこに昔住んで居た人々の名前を地名のように使ってる箇所もあるし、かつて爨氏が統治した名残でそういう名称が使われただけの可能性が普通にあると思うんだけど
7 ななしのよっしん
2024/12/03(火) 16:28:21 ID: UMztnOrY0F
雲南省に東晋~南朝宋の時代に建てられた「爨宝子碑」「爨龍顔碑」って石碑があるんだけど(書芸史的に有名な石碑)、
この石碑によると爨龍顔は宋の龍驤将軍、護鎮蛮校尉・寧州刺史などを歴任していたとあるので、
少なくともこの時代では爨氏は南中の大豪族だったのだと思う
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最終更新:2025/12/06(土) 10:00
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