皇極(復位して斉明)天皇とは飛鳥時代の女性天皇である。大化の改新前後を統治した君主であり、息子の中大兄と共に律令制国家建設に貢献した女帝であった。
蘇我馬子┬蝦夷─入鹿
└蘇我法提郎女
|──古人大兄
29欽明─30敏達─押坂彦人大兄─────34舒明 ┌大海人(40天武)
| |──────┼中大兄(38天智)─ 39弘文
└茅渟王┬─35皇極 (37斉明) └ 間人
| |
└──────────36孝徳
「皇極」や「斉明」という名前(漢風諡号)は奈良時代につけられたもので、『日本書紀』では宝皇女、あるいは天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と呼ばれている。舒明天皇の大后(皇后)であると同時に天智天皇や天武天皇、間人皇女(孝徳皇后)の母親にあたる人物で現在の皇統譜[1]では推古天皇に続いて二人目の女性天皇となる。また史上初めて[2]生前譲位を行った天皇としても知られる。さらに上の系譜にあるように彼女は敏達の曾孫である。現在までの126代のうち曾孫以上血が離れたところから即位した人物はわずか5人に過ぎない。さらに史上初めて重祚(一度退位した人物が再び天皇になること)した人物であり、また光仁天皇と並び史上最年長[3]で即位した天皇でもある。
元は単なる傍系皇族にすぎなかった宝皇女だが、舒明の大后という地位が彼女を皇位継承に近づけ、夫の死後に王座に座ることとなった。書紀によれば女帝の治世は「古の道に基づいて政治を行った」とあり、雨乞いによって旱魃で苦しむ民衆を救い「この上もない徳をお持ちの天皇である」と称えられている。とはいえ当時の王権はまだまだ弱く、皇極朝では蘇我蝦夷・入鹿の親子が専横を奮っていた。皇極の即位も蘇我氏の意向が強かったものと思われる。特に息子の入鹿は王権を犯し、聖徳太子の息子を殺害するなどその振る舞いは横暴であった。
645年、皇極の息子の中大兄皇子が中臣鎌足と共に入鹿、続いて蝦夷を討伐した。乙巳の変と呼ばれるこの事件は一般には大化の改新で知られるだろうか(大化の改新は正確にはその後の政治改革を指す)。皇極の目の前で行われた入鹿暗殺という惨劇を機に皇極は息子へ皇位を譲ろうとするが、当時19歳と若すぎた中大兄は異母兄の古人大兄や叔父の軽皇子(孝徳)に皇位を譲り渡した。結局このときは皇極の同母弟の孝徳が50歳で即位し、中大兄は皇太子となった。蘇我氏の後ろ盾を失った古人大兄は身の危険を感じて出家するが、中大兄によって殺された。
退位した皇極は皇祖母尊(すめみおやのみこと)という尊称を得て天皇家の女性長老的な存在となった。しばらくは孝徳と中大兄の指揮の下、律令国家を目指して中央集権化政策が進められていたが、やがて二人はそりが合わなくなり中大兄、皇極、間人皇女は朝臣を引き連れて孝徳を見捨ててしまった。その後、孝徳が死んだので皇極が斉明として再び天皇となった。この時、中大兄は30歳になっていたが即位は見送られた。重祚した女帝は62歳という高齢ということもあり政治の多くを息子に委任しつつ、自らも大規模工事を主導して民衆を疲弊させたことが書記に記されている。彼女が作った水路は「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」、つまり「狂った運河」とあだ名され、それを原因に反乱計画まで発生していた。
斉明の晩年の日本は大陸との軍事的緊張がピークに達し、朝廷は百済救援のために大唐帝国と戦う意志を固めていた。斉明は67歳の老体に鞭打ち九州まで天皇親征し、そこで遠征軍を鼓舞しながら崩御した。白村江の決戦の二年前のことである。陣中にあった中大兄は母の死を深く嘆き悲しんだという。斉明が死んだ後も中大兄はなかなか即位せず七年もの間天皇位は空位にあった。ここまで長期の空白は歴代でも異例であり、何らかの原因があったことは確実であるが史書はその詳細を記していない。
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最終更新:2025/12/16(火) 07:00
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