第112号海防艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した丁型海防艦の1隻である。1944年10月24日竣工。1945年7月18日、樺太南方で米潜水艦バーブの雷撃を受けた際、宗谷丸をかばって沈没。
1944年5月10日、第2756号艦の仮称で川崎重工泉州分工場にて起工、8月7日に第112号海防艦と命名されるとともに種別を海防艦、艦型を第2号型(丁型)に制定され、9月5日に進水式を迎える。9月25日、工場内に艤装員事務所を開設して事務を開始、9月30日に石渡俊一郎大尉が艤装員長に着任。そして10月24日に竣工を果たす。艤装員事務所を撤去するとともに石渡大尉が艦長に就任し、戦時編制により呉鎮守府部隊呉防備戦隊へ編入、慣熟訓練に従事する。就役から間もない11月1日に石渡艦長が少佐に昇進した。
12月10日に海上護衛隊総司令部第1海上護衛隊へ転属。いよいよ実戦投入の時が来た。12月19日13時30分、練習巡洋艦香椎、海防艦大東、鵜来、第23号、第27号、第51号とともにヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出港。米潜水艦の襲撃を避けるため浅瀬が多い大陸沿岸に沿って南下する。敵襲を受ける事無く12月25日14時40分に台湾南西の高雄に入港。ここで第112号はシンガポール行きのヒ85船団と別れ、高雄発マニラ行きのタマ38船団の護衛に転じて12月26日に高雄を出発。12月29日19時にマニラ北方のルソン島サンフェルナンドへ到着し、陸軍特種船吉備津丸、神州丸、日向丸、青葉山丸がフィリピン防衛のための兵力を強行揚陸させる。揚陸自体は成功したが、翌30日早朝に米機動部隊搭載機による空襲に巻き込まれ青葉山丸が沈没、第138号海防艦も爆弾の直撃を受けて損傷を負った。
1945年1月1日午前3時45分、生き残った日向丸、神州丸、吉備津丸を護衛してサンフェルナンドを出発。1月3日午前11時5分、高雄西方で米第38任務部隊の敵艦上機50機が襲来し、神州丸が数発の直撃弾を受けて炎上落伍(同日夜に米潜アスプロの雷撃で撃沈)、船首に命中弾2発を喰らって吉備津丸が大破、日向丸が中破する大損害を受け、第112号も軽度の損傷をこうむった。空襲を凌いだ船団は1月6日に高雄へ寄港して応急修理。損傷が軽い第112号はタキ05船団を護衛して出発、翌7日に台湾北東の基隆へと入港したのち、1月9日に高雄へ舞い戻っている。1月10日から馬公海軍工作部高雄出張部にて主タービン機械の開放検査を実施。その間にも高雄は激しい空襲に曝されたが1月18日に無事完了した。
1月19日午前6時、海防艦生名、第26号、第39号とともにタモ38船団を護衛して高雄を出港。極力大陸に沿いながら門司を目指す。1月22日16時、三門湾南関で避泊中にモタ32船団が退避してきて合流。しかし入ってきたのは味方の船団だけではなかった。翌23日午前4時2分、湾内に侵入していた米潜水艦バーブが残っていた魚雷全てを発射し、大京丸が爆沈。午前6時に船団は慌てて三門湾から脱出した。敵潜水艦の脅威を振り切って1月28日に船団は六連へ帰投。1月30日に呉へと帰投した第112号は2月21日まで呉工廠で主タービンの修理を受ける。それが終わるとすぐに次の護衛任務が待っていた。2月22日に呉を出港し、翌23日に船団が集結する門司へ移動。
2月26日、第17号や第76号海防艦とともにモタ39船団を護衛して門司を出港。前回同様大陸接岸航路を通り、馬路海、泗礁山、舟山列島東方、三門湾、温州湾、インコグ東方を経由して3月9日に基隆へと入港。3月14日、海防艦羽節が護衛するタモ48船団に加わって基隆を出発し、東瓜島北西、三門湾、舟山列島東方、余山南方、珍島、巨済島を経由して3月23日に門司へと戻った。3月24日から30日まで呉工廠で船体や機関の整備を実施。
戦況の悪化に伴って去る3月16日にヒ船団の運航が中止。護衛すべき船団がいなくなった第112号は、4月3日に発令された第1護衛艦隊電令作第20号により第2哨戒部隊第5掃討隊へ転属。朝鮮半島南部の巨文島を中心に対潜掃討を行った。4月14日に舞鶴鎮守府へ異動するとともに海面防備部隊に編入。4月20日には舞鶴鎮守府部隊所属となった。5月4日、千島列島や北海道へ増援部隊を送るにあたって船舶輸送が増大する事から、津軽海峡の防備を固めるべく海上護衛総司令部は横須賀鎮守府に2隻、佐世保鎮守府に2隻、舞鶴鎮守府に1隻の艦艇派遣を要請。舞鶴鎮守府からは第112号が派遣される事になった。5月5日、第150号海防艦を旗艦とした第105戦隊が新設され、新潟市に戦闘指揮所を設置。第112号も第105戦隊に編入された。ただ指揮権は大湊警備府にあったようで、5月8日に富山県伏木を出港、5月10日に大湊へ進出して第105戦隊とは別行動を取っている。そして5月18日より小樽・片岡間で船団護衛に従事。その後は宗谷海峡で対潜掃討に従事。6月14日、第65号海防艦とともに室蘭隊へ編入。6月22日、チキウ岬灯台7海里沖で第23号掃海艇が敵潜の雷撃を受けて沈没、室蘭隊に第一配備が下令された。
1945年7月18日午前8時、北海道稚内へ疎開する女子供600名を乗せた鉄道省所管の宗谷丸が南樺太の大泊を出港。駆潜艇が宗谷丸の前路を先行、第112号が宗谷丸の後方から続航していた。
午前11時10分、宗谷海峡にて米潜水艦バーブが12ノットで南下中の船団を発見し、正午頃に魚雷を発射。このうち2本が白線を引いて宗谷丸へと伸びていく。1本は早爆したが、残り1本は疾走を続けている。宗谷丸に乗船中の女性や子供を確実なる死から守るため、石渡艦長は第112号を前進させて自ら射線に割り込み、宗谷丸をかばった。その数秒後、第112号の艦後部へ魚雷が命中。間もなく大爆発とともに大量の黒煙が吐き出され、約10分間は艦首の一部が水上に浮かんでいたが、やがて力尽きて沈没。石渡艦長と152名の勇敢な乗組員が戦死した。
異常に気付いた宗谷丸は最大速力に上げて逃走。追いすがるバーブは3本の魚雷を発射するが全て命中せず、約3時間後の16時に宗谷丸は稚内港へ到着。第112号の沈没を知った稚内司令部は海防艦占守を遭難海域へ派遣。生存者4名が救助された。1945年9月15日除籍。
1980年9月、元津軽海峡防備隊の人達から寄せられた浄財250万円で、稚内市の旧海軍望楼のすぐ近くに「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」を建立。宗谷丸をかばって壮絶なる死を遂げた第122号の戦死者152名を慰め、起きた悲劇を後世に伝えるべく現在も静かに佇んでいる。
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