飯島滋弥 単語

イイジマシゲヤ

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飯島滋弥(いいじま しげや)とは、プロ野球選手である。故人

概要

1918年10月11日生まれ。千葉県香取郡(現:匝瑳市)出身。生まれは東京都五反田だが、関東大震災を機に宇都宮へ引っ越し、その後千葉県に移り住んでいる。

小学3年頃から野球を始め、投手としてもプレーしていたが、バッティングのほうが好きだったため野手としてプレーするようになった。

千葉中学に進学。千葉中では中軸を任され、甲子園大会に2度出場、5年時に出場した明治神宮大会では優勝も経験している。

卒業後、慶応義塾大学に進学。レギュラーだった一塁手喧嘩で謹慎処分を受けた際にチャンスを貰い、そこからレギュラーの座を奪取。3年時からは4番打者として活躍した。

卒業後、日立航空に就職。戦争化していった時期ではあったが、視力の悪さや右膝を痛めていたこともあり徴兵されることはなかった。終戦直前、「近々日本が敗戦する」と知り合いに聞かされたことから「これから野球の時代が来る」となまった体を鍛え直し始めたという。

1946年、新設球団のセネタースに入団。初年度から将とクリーンナップを任され、打率.312、12本塁打、57打点と活躍。

しかし翌1947年から打撃不振に陥り、加えて球団のフロントとも対立し、1948年7月解雇解雇直後に金星スターズへ移籍したが、当時は移籍が禁止されていたため同年は出場できなかった。

1949年チーム名が金星から大映に変わり出場可となった飯島軸打者として復活打率.293、25本塁打、84打点記録

1950年打率.327、27本塁打、77打点と前年以上の記録を残す。この年ベストナインに選出され、以降1952年まで3年連続で同賞を獲得した。

1952年打率.336マークし、首位打者を獲得。また、この年記録した78四球は当時のパ・リーグ記録であった。

しかし、以降は成績低迷。

1955年南海ホークスに移籍するも打率.180と結果を残せず、この年限りで現役を引退

引退後は野球解説者を努めた後、古巣の東映の打撃コーチに就任。大杉勝男を大成させた。1968年には、シーズン途中で休養に入った大下弘監督に変わり代理監督を努めた。

東映を退団したわずか1年後の1970年8月9日がんのため死去。享年51歳。

人物・エピソード

快にしゃくりあげるようなスイングで安打本塁打を量産したヒットメーカー。高い技術を持つ選手であったが、一方で好不調が非常にしい選手でもあった。

伸び悩み、こじんまりとした打者になりかけていた大杉勝男に対し、差して「に向かって打て」とアドバイスを贈り大成させたエピソードは有名である。

通算成績

打撃成績

通算:10年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 953 3788 3196 461 901 115 484 48 12 6 527 437 346 68 .282 .391

監督成績

通算:1年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 55 21 33 1 .389 Bクラス1回

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