高崎(運送艦)とは、英貨物船ローズリーを日露戦争中の1905年1月12日に大日本帝國海軍が鹵獲したものである。貨物輸送、洋上救難、水上機母艦、戦利艦曳航、警備艦艇への補給、標的艦など八面六臂の活躍を見せ、海軍除籍後は陸軍所管となって大東亜戦争末期の1944年12月まで運用された。
日露戦争時は石炭の運送艦として活躍。第一次世界大戦期には水上機母艦に改装され、若宮丸ともども最古の水上機母艦となった。
排水量5987トン、全長114.3m、全幅14.61m、出力1850馬力、最大速力10ノット、石炭搭載量806トン、乗員114名。兵装は安式40口径8cm単装砲2門のみ。
ロバート・ダンカン社所属の貨物船として、1902年4月5日にローズリー(Roseley)は竣工。船籍港をベルファストとする。
1904年11月10日、貨物を積載してウェールズ州を出港。サウスオール(エジプト)やバレッタ(マルタ)を経由し、12月24日に英植民地シンガポールへ到着。石炭を積載して当日中に出港し、1905年1月4日に租借地の香港まで辿り着いた。現地で石炭を積み込んで翌5日に出港、次の目的地であるウラジオストクを目指していたのだが…。
1905年1月11日、対馬海峡付近を航行中に日本海軍の装甲巡洋艦常磐に発見され、臨検を受けたところロシア向けの戦時禁制品を運んでいた事が発覚。時は日露戦争真っただ中、如何に日本がイギリスと同盟を結んでいるとは言っても、禁制品の密輸を見逃すわけにはいかない。ローズリーは伴走者のレキントンともども常磐に拿捕され、1月13日に佐世保まで連行。2月14日発令の内令第119号により高崎丸と仮称。艦隊用運送船として佐世保鎮守府所管となる。3月6日には川崎造船社長・松方幸次郎の代理人である四本萬二と運転請負契約を締結して根回しを行った。3月25日、佐世保を出港して竹敷へ回航。
4月10日、佐世保捕獲審検所が「没収」判定を出してローズリーは日本政府に接収される。ウィリアム・ロバート・リー船長が抗議したものの、8月8日に高等捕獲審検所が訴えを退けた事で正式に「没収」となり、積み荷の石炭6462トンもろとも鹵獲。9月1日、正式に高崎丸と命名。佐世保鎮守府港務部所属の艦隊用運送船に生まれ変わった。
日露戦争終結後の1907年(明治40年)3月31日、日本郵船に貸与して運航を委任。海軍指定の航路を通りつつ貨物の一部を海軍向けとした。5月11日に船主が海軍省、船籍地を呉に変更される。運航自体は引き続き日本郵船の社員が担った。貸与から4年が経過した1911年5月9日、横須賀鎮守府所属の運送船に指定され、5月16日には返船されて再び海軍の管理下に置かれる。
しばらく日本郵船の社員が高崎丸を運用していたが、1911年5月9日に横須賀鎮守府所属の運送船となり、続く5月16日、返船されて再び海軍の管理下に置かれる。9月18日より横須賀を始発店とした旅順船と台湾線を交互に運航して物資輸送に励む。1912年2月には川崎造船所で建造中の防護巡洋艦平戸の兵装並び乗組員を呉から輸送している。4月9日、標的船の公称第1995号を曳航して呉を出港。ところが4月11日、豊後水道外島沖で強風により曳航索が切断・流失してしまい、そのまま行方不明になった。
1911年、アメリカ軍が実用水上機カーチスA-1を制式採用し、イギリス海軍が母艦からの発艦試験に成功したとの情報が駆け巡ると、列強各国は水上機を扱える未知なる艦種――水上機母艦の開発に着手。1912年にフランス海軍が世界初の水上機母艦フードル(水雷母艦からの改造)を完成させ、1914年にはイギリス海軍がアーク・ロイヤルを就役させる。日本もまた水上機母艦開発に乗り出した。
若宮丸(ローズリーと一緒に拿捕された元レシントン)に遅れる事2年、1915年4月に飛行機搭載設備を仮設して仮初の水上機母艦となり、飛行機2機を載せた状態で大演習に参加。帝國海軍における2番目の水上機母艦となった。8月23日に高崎へと改名。そして若宮丸の後に続く形で水上機母艦への本格的な改装工事を受ける。前後の船倉上の上甲板に鉄骨帆布張りの格納庫を設け、ここに組み立て済みの水上機1機ずつ収容。前部には小型機を、後部には大型機を載せてこの2機を常用機とする。前部の船倉には弾火薬庫と飛行機格納庫を設け、格納所には分解状態の小型機3機(補用機)、予備発動機、その他部品などを収容。搭載機の揚げ降ろし用として前後マストを小改造。船体内部には前後に2個、後部に3個のガソリンタンクを新設し、小規模な修理工場も設置した。搭載はファルマン水上機4機。1918年7月23日より横須賀工廠で更なる大規模改装を受け、甲板やフレームの補強工事、ウインチの移動、蒸気及び排出管の導設方を改正、邪魔になる支柱の取り外し等を行った。
1920年4月に特務艦(運送艦)に類別変更されたが、若宮と違って運送艦として運用される事が多かったため若宮と同じ二等海防艦にはなれず、とうとう最後まで軍艦籍に入れなかった。1924年12月24日、能登呂の水上機母艦化に伴ってお役目御免となった高崎には航空機搭載設備やデリックの撤去訓令が出され、12月29日に横須賀へ回航。今まで搭載していた航空機搭載設備を撤去して運送艦に戻る。1926年11月29日、内令第239号により書類上の処理も運送艦に戻された。
1930年、徳山港へ入港した際に機関が損傷してしまい4月1日に除籍。このまま解体されるかに思われたが、1933年2月27日に陸軍省へ移管されて今度は陸軍船として運用される事に。皮肉な事に若宮が1932年に解体売却されたのと対照的に高崎は長生きし続け、最期は1944年12月に特攻艇の標的艦となって爆破処分。最期の時まで奉公し続けた高崎であった。
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最終更新:2024/05/04(土) 17:00
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