MIKAMIとは、かつてDDTプロレスリングに所属していたフリーのプロレスラーである。ニックネームは「スーサイドボーイ」。高木三四郎が2010~2011年の間、ユニオンプロレスに移籍していたため、DDT所属のプロレスラーとしては旗揚げ以来の最古参だった。
本名は三上恭平。出身は島根県浜田市。中学時代には器械体操に身を投じ、高校時代にはアマレスで国体にも出場した。
高校卒業後はユニバーサル・プロレスリングに練習生として参加。その後ユニバーサル・プロレスリングの運営上のトラブルから選手の大半がザ・グレート・サスケが旗揚げしたみちのくプロレスに参加したのに伴ってMIKAMIもみちのくプロレスに練習生のまま参加するものの、結局デビューできないまま退団。
その後元SWSで、その後継団体であるNOWを離脱した高野拳磁(高野俊二)率いるプロレスリング・クルセイダース(通称PWC)に再び練習生として参加。その後、対野沢一茂(現NOSAWA論外)戦で正式にデビューを果たすものの、その大会を最後にPWCが事実上崩壊してしまう。
そこでMIKAMIは高木三四郎、野沢らとともにDDTプロレスリングを旗揚げする。プレ旗揚げ戦でMIKAMIは「目を覆わんばかりのしょっぱい試合をしてしまった。控え室に戻るなり、木村さん(木村浩一郎)にドヤされ、ボコボコにされ、ピーピー泣くMIKAMI。」by高木三四郎。という有様だったが、その後徐々に成長。2000年にはプエルトリコに遠征したところ、現地でいきなりIWAライトヘビー級のタイトルマッチを組まれ、しかもその試合をスクールボーイで勝っていきなりベルトを巻いてしまう。
その後5回の防衛を経て帰国。「世界を獲ったスク~ルボ~イ」や、会社の備品ではなくMIKAMI個人所有のラダー(脚立)を使った技、WWEでもコピーされた(後述)ミッキーブーメラン180などで一気にDDTのエースへと上り詰める。シングルでは第8代、第14代のKO-D無差別級王座を獲得。また、タッグではタノムサク鳥羽と「スーサイドボーイズ」を結成。DDTタッグ史に残る名チームとして、長期にわたって活躍した。
近年では2011年12月31日の興行でKUDOの持つKO-D無差別級のベルトに挑戦したが、直前の練習で右肩を負傷。試合は行ったものの負傷した状態での挑戦はやはり厳しく敗北。そしてそのまま武道館イヤーは手術からのリハビリで始まってしまう。リハビリは長期にわたったが、武道館前最後の後楽園大会で藤波辰爾とのシングルマッチで復帰。そしてその場で武道館では藤波とのタッグで現KO-Dタッグ王者のKUDO・大石真翔組と対戦することが発表された。当初、藤波は「もうベルトは要らない。」と渋っていたが、2012年の闘うビアガーデン最終日に選手権試合とすることが改めて決定。8月18日の日本武道館大会で、大石真翔をヴォルカニック・ボムで破り第45代KO-Dタッグ王者となる。
2015年6月16日にDDTプロレスリングからの退団を発表。7月19日の後楽園ホールがDDT所属としてのラストマッチとなった。以降、DDT両国大会を初め、いくつものインディー団体の大会にフリーランスとして参加している。
2016年4月29日にニコニコミュニティ「競馬でポン!!」を開設。ニコ生会に進出した。
インディーマット界を代表するハイフライヤーとして、思い切りのいい飛び技をいくつも駆使する。身長をカバーするため、巨大な脚立(ラダー)を持参することも多い(MIKAMIいわく「ラダーは相棒」)。その反面、小さい体でムリをするためケガをすることも多い。また、スクールボーイの名手としても知られているほか、昭和プロレスの代表的な技を使うことも多い(本人曰く「飯伏が平成のプロレスごっこなら、俺は昭和のプロレスごっこだ」とのこと)。
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最終更新:2023/03/21(火) 19:00
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