アルバート・プホルスとは、セントルイス・カージナルスに所属するメジャーリーガー(内野手)である。背番号は5。
MLB最高の打者との呼び声高く、デビュー以来2010年まで打率.300・30本塁打・100打点を10年連続で継続中である。
メディアによっては「プーホールス」などと表記されることがある。
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12人兄弟の末っ子として誕生し、兄や姉がコーチをするなど幼少期から野球に親しんでいた。16歳でアメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティに家族で移住。フォート・オーセージ高校時代に相手監督が年齢詐称を訴え、88打席で55回敬遠された。
1998年に高校を卒業し、メープルウッズ・コミュニティーカレッジに小学生として進学し1999年にはカージナルスからドラフト13巡目(全体402位)で指名を受ける。しかし入団交渉でカージナルスが提示した契約金の額10,000ドルを不服としたプホルスは、その後の大学での試合で活躍し、提示額を60,000ドルまで引き上げさせた。8月17日に入団契約を交わしてプロ入りした。
プロ入り1年目の2000年はマイナーリーグA級ピオリアで開幕を迎え、AAA級メンフィスまで一気に昇格。球団からマイナー最優秀選手として表彰される。
2001年のスプリングトレーニングでプホルスを観たマーク・マグワイアが才能を見出し、トニー・ラルーサ監督にロースター入りを進言。開幕メジャーを掴みとった。開幕戦に6番・左翼で出場しメジャーデビュー。その後、三塁のレギュラーのボビー・ボニーヤが故障したため三塁にも入り、さらに右翼・一塁と様々なポジションにつく。1試合に欠場したのみで、打率.329・37本塁打・130打点という新人離れした成績を挙げた。シーズン終了には満票で新人王を受賞。MVP投票でも4位に入った。三塁手部門でシルバースラッガー賞も受賞した。
2002年は主に左翼手として出場。打率.314・34本塁打・127打点を記録。メジャー史上初のデビュー年から2年連続で3割・30本塁打・100打点を達成。MVP投票ではバリー・ボンズに次ぐ2位となる。
2003年には打率.354、212安打を記録し、首位打者と最多安打を獲得。本塁打は自己最多の43本を放ち、球団史上2人目の40本塁打・200安打を達成したMVPではまたしてもボンズに次ぐ2位だったが、の活躍を受けて球団は翌2004年のシーズン開幕前に、7年1億ドルの契約を結んでいる。
その2004年からは本格的に一塁手へ転向。打撃では史上12人・15回しか達成していないシーズン100長打にあと1本まで迫り、46本塁打(リーグ2位)・123打点(同3位)を記録した。またチームメイトのスコット・ローレンとジム・エドモンズもシーズン30本塁打を達成し、"MV3" と呼ばれる球団史上屈指の強力打線を形成した。
2005年はプホルスの後を打つ4番打者のローレンが故障で離脱し、ラリー・ウォーカーやレジー・サンダースがその代わりを務めることに。しかし彼らは4番打者として力不足であったため、プホルスが勝負を避けられるケースが増え、結果としてプホルスの四球は自己最多の97を記録した。踵を痛め1試合欠場しただけで、打撃3部門では打率.330・41本塁打・117打点を記録。プホルスのデビュー年以来4年連続でMVPを受賞していたボンズがこの年は故障でシーズンを棒に振っていたこともあり、プホルスは本塁打王のアンドリュー・ジョーンズや首位打者のデレク・リーを抑え、初のMVPを受賞した。
2006年には、MLBレギュラーシーズン開幕前の3月に開催された国際大会・第1回ワールド・ベースボール・クラシックにドミニカ共和国代表の 一員として出場。その後開幕したシーズンでは序盤から例を見ない勢いで本塁打・打点を量産し、5月終了時点で打率.315・25本塁打・65打点という成 績を残す。これは年間75本塁打・200打点のペースで、ボンズのシーズン本塁打記録73をプホルスが上回るのではとの声も上がった。ステロイド疑惑と無縁のプホルスの本塁打量産は好意的に受け入れられていた。しかしその後、シーズン開幕前から抱えていた腰痛が悪化。6月4日に故障者リスト入りし22日まで休養したため、記録更新はお預けとなった。しかしこのシーズンは打率.331・本塁打49・打点137という成績を残し、本塁打と打点は自己最高を記録した。また、カージナルスがワールドシリーズに勝利したため、プホルス自身初の世界一を経験した。
2007年はシーズン序盤の打撃不振やシーズン終盤の左ふくらはぎ痛がたたり、打率.327・32本塁打・103打点といずれも自身の平均を下回る成績となった。2008年は、一時戦列を離れたこともあったものの、リーグ2位となる打率.357に加え、37本塁打・116打点を記録。カージナルスは地区4位に終わったが、プホルスは本塁打・打点の二冠王のライアン・ハワードを抑え、2005年以来2度目のMVPを受賞している。
右肘を手術したため、2009年春開催のワールド・ベースボール・クラシック出場を辞退。しかし、レギュラーシーズンでは序盤から本塁打を量産。6月を終了した時点で打率.332・30本塁打・77打点を記録し、6月終了時点で30本塁打はMLB史上10人目の快挙。しかし、6月30日の試合後の会見でプホルスは「傲慢に聞こえるのを承知で言うけど、2006年の最初の2か月の方が凄かった。30本塁打だか何だか知らないけど、あの当時みたいな凄さはまだないんだ」と語っている。地元セントルイス開催となったオールスターのファン投票では、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで歴代2位となる5,397,374票を集めた。オールスター試合前、バラク・オバマ米大統領が始球式を務め、プホルスは捕手を務めた。試合では3打数無安打に終わった。
後半はややペースダウンしたが、自身初となる本塁打王を獲得。本塁打以外にも得点(124)、出塁率(.443)、長打率(.658)、塁打数 (374)、敬遠数(44、歴代5位)と数多くの項目でリーグトップに立った。デビュー以来続けている打率.300・30本塁打・100打点も9年連続ま で伸ばし、ルー・ゲーリッグと並ぶメジャータイ記録となった。シーズン終了後には2年連続、通算3度目となるMVPも獲得。1位票を全て集める満票での受賞で、これは2002年のバリー・ボンズ以来7年ぶり、歴代15人目の快挙だった。また通算3度の受賞はボンズに次いで歴代2位タイとなった。
メジャーリーグ10年目となる2010年は、開幕戦(シンシナティ・レッズ戦)で5打数4安打2本塁打3打点という最高の滑り出しを見せると、2003年以来続けているオールスターメンバー選出も果たした(結果は2打数ノーヒット)。その後、8月15日のシカゴ・カブス戦でシーズン30号本塁打を放ち、メジャーデビューから10年連続でのシーズン30本塁打以上を達成。その11日後、8月26日のワシントン・ナショナルズ戦で放ったシーズン34号本塁打は、ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス三塁手、2010年シーズン途中でシアトル・マリナーズで引退したケン・グリフィー外野手に次ぐメジャーリーグ史上3番目のスピードでの通算400号本塁打であった。更には9月11日のアトランタ・ブレーブス戦で3打点をマークした事により、シーズン100打点以上も10年連続での達成となった。
2010年、地区シーズンを打率.312で終了した為、10年連続での3割30本100打点以上の記録達成となった。同時に42本、118打点で本塁打、打点の二冠を獲得。115得点、38敬遠は両リーグ1位を記録した。
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最終更新:2024/05/05(日) 22:00
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