伊162とは、大日本帝國海軍が建造・運用した海大四型/伊61型潜水艦2番艦である。1930年4月24日竣工。旧式艦ながら通商破壊で活躍し、連合軍商船5隻(1万6156トン)撃沈と4隻(2万9038トン)撃破の戦果を挙げ、終戦まで生き残った。1946年4月1日に五島列島沖で海没処分。
概要
前級海大三型bのズルザー式ディーゼルが不調だった事を受け、巡潜1型にも採用されたMAN社製ラウシェンバッハ式2号ディーゼルに換装。ズルザー式と比べて出力が低下したものの安定度があり水中速力も0.5ノット向上する効果が得られた。しかし本艦もまた回転数が240~320/分の間に達すると強烈な捻じり振動が起きてしまう欠点に悩まされる。機関の交換に加えて耐圧強度増大のため船体構造を改良して小型化、艦首魚雷発射管室内殻を円形断面に変更した影響で魚雷発射管が6門から4門に減少してしまうが、搭載魚雷を六年式から八九式に換装して攻撃力の減少を最低限に留め、60mまで安全に潜航出来るようになっている。潜望鏡も8m型に変更。帝國海軍にしては珍しく攻撃力の低下を容認していた。ちなみに次級の海大五型は海大四型ではなく三型をベースにしてズルザー式を採用、六型以降は国産の艦本式を採用しているため、四型はラウシェンバッハ式ディーゼルを搭載した唯一の海大型である。
就役当初の艦名は伊62。海大四型は伊61、伊62、伊64の3隻が就役したが、開戦直前の1941年10月2日に伊61が特設砲艦木曾丸と衝突事故を起こして喪失してしまったため、改称の際に伊162型へ変更された。また3番艦の伊64は1942年5月17日に九州南方で米潜水艦トライトンの攻撃で喪失。早くも最後の生き残りとなった伊162はたった1隻で戦争を駆け抜けていく事となる。海大五型以降は全て戦没しているため、終戦時に生存していた海大型の中では伊162が最も新しい艦だった。
要目は排水量1635トン、全長9.7m、全幅7.8m、最大速力20ノット(水上)/8.5ノット(水中)、燃料搭載量230トン、安全潜航深度60m、乗員63名。武装は15式魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷14本、11年式45口径12cm単装砲1門、九二式7.7mm単装機銃1丁。伊61、伊62、伊64の3隻が就役した。
艦歴
いぶし銀の活躍を見せた老兵
1923年度計画において計画番号S28の仮称を与えられて建造が決定。当時の艦名は伊62であった。補助艦艇製造費を投じて1927年4月20日に三菱重工神戸造船所で起工、1928年11月29日に進水し、1930年4月24日に竣工を果たした。佐世保鎮守府に編入されるとともに姉妹艦伊61と第1艦隊第1潜水戦隊第29潜水隊を編制、遅れて8月30日に竣工した伊64も加えて3隻体制となる。
1933年11月15日、第29潜水隊は第2艦隊第2潜水戦隊へ転属。
1934年9月27日、第2潜水戦隊所属の潜水艦8隻とともに旅順を出港、青島沖で訓練航海を行ったのち10月5日に佐世保に帰投した。1935年2月7日、僚艦8隻とともに佐世保を出港して今度は千島列島沖で訓練を行い、2月25日に宿毛湾へ寄港。3月29日から再び青島沖で訓練を実施して4月4日に佐世保へ帰投する。10月21日から翌1936年4月10日まで予備艦となる。
排日運動が激化の一途を辿る1937年7月29日、第2艦隊は北支部隊に編入され、陸軍と協力して中国の沿岸に住む居留民と権益保護のため奔走。しかし8月13日に第二次上海事変が勃発した事で本格的武力衝突に発展、8月17日、第2潜水戦隊は旅順への進出を命じられ、8月20日に佐世保を出港。北支部隊の指揮下に入る。8月23日には青島攻略を企図したA作戦への参加が命じられたが、今作戦を実行すれば中国国民党軍を刺激するとして中止、代わりに裏長山列島を拠点に在住邦人の引き揚げ援護を行い、9月2日に旅順へ帰投。続いて9月4日、旅順から大沽に向かう船団の護衛に協力した。9月24日からは北支部隊第1封鎖部隊に加わって海州湾以北で海上封鎖を実施。中国沿岸部から港に入ろうとする中国船を締め出し、国民党軍を兵糧攻めにする。11月20日、第二次上海事変の勝利で戦線が内陸へ移動したため北支部隊の編制を解かれ、11月23日に第29潜水隊は佐世保に帰投。
1938年12月15日に第29潜水隊は呉へ入港。以降伊62と伊64は1939年11月15日まで訓練艦の役割を務め、1940年3月20日にディーゼルエンジンと魚雷発射管を換装する本格的な近代化改修を行うべく第3予備艦となる。11月15日に第5潜水戦隊へ転属。
戦争の足音が間近に迫ってきた1941年7月1日に工事を終えて再就役。艦長には後にワスプ撃沈で名を轟かせる木梨鷹一少佐が着任した。10月2日にネームシップの伊61が衝突事故で喪ったため第29潜水隊は伊62と伊64の2隻体制となった。11月28日、第5潜水戦隊旗艦由良に率いられて佐世保を出港、その直後に南方部隊電令作第10号により第5潜水戦隊のマレー部隊編入が決まり、陸軍部隊のマレー半島上陸を支援する任務に就く。12月2日に前進拠点の海南島三亜へ寄港。そして12月5日に伊64とともに出撃し、敵戦艦の北上を警戒してマラヤ半島トレンガヌ沖で伊57、伊58、伊64、伊66とともに散開線を形成。ここで運命の開戦を迎える。
開戦時存在した作戦用潜水艦48隻、総計64隻の潜水艦は各々の運命に向かって潜り始めた。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日午前0時45分――真珠湾攻撃よりも早く――、陸軍第18師団第23旅団がイギリス軍の要地コタバルへの上陸を開始。いよいよ大東亜戦争が始まった。だが12月9日15時15分、中央の散開線の最も東側に配備されていた伊65が、シンガポールより出撃してきた敵戦艦2隻を発見したと通報。ここに南方作戦最大の障壁が姿を現した。新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを基幹としたイギリス東洋艦隊の主力Z部隊は南方作戦を狂わせる最大の強敵であり、17時10分にその電報を受け取ったマレー部隊はすぐさま各潜水艦に迎撃命令を飛ばした。伊62が所属する第5潜水戦隊にはZ部隊の追跡が命じられ、21時30分に再度Z部隊との接触を命じられているが、霧を掴むかのように敵戦艦の動向が掴めない。
翌10日午前4時30分、今度は伊58が接触に成功して位置情報を通報するが、続いて生起したマレー沖海戦で2隻の戦艦が航空攻撃で撃沈され、ついに潜水艦部隊に出番は回って来なかった。ともあれ最大の敵が討ち取られた事により一気に制海権を掌握し、第5潜水戦隊はグレート・ナッツ諸島付近、コチ島、アビ水道、ミリ沖にそれぞれ1隻ずつ潜水艦を配備して北ボルネオ作戦の支援に回った。12月26日正午に敵の増援補給路であるインド洋で通商破壊を行う乙潜水部隊が編制され、翌27日に伊62は作戦準備のため一旦カムラン湾へ帰投した。
1942年
1942年1月7日、インド洋で後方撹乱を行うべくカムラン湾を出撃。マラッカ海峡にはイギリス軍が敷設した大規模な機雷原があると報告されており、同時期に出撃した潜水艦はジャワ島南岸まで大きく迂回した上で長駆、狩り場である東経106度以西のインド洋に到着した。1月28日午前2時40分、セイロン島西方で最初の獲物である敵タンカーを発見・攻撃したが失敗に終わる。
1月31日午前7時53分、コロンボ西方44kmの地点で英油槽船ロングウッドを攻撃。大破に追いやったもののコロンボまで逃げ込まれてしまい、異常を察知したイギリス海軍はスループ船ファルマス、補助巡視船オカピ、ギリシャ駆逐艦ヴァシリッサ・オルガを伊62追跡のため派遣したが、無事振り切る事に成功。2月3日、2隻の5000トン級貨物船を狙って雷撃を実施するも命中せず。同日22時54分、コロンボ南西沖で英武装タンカースポンディラスを攻撃し、魚雷1本と砲弾5発を命中させて大傾斜させる。しかし間もなく敵哨戒艇2隻が現れ、敵機から対潜制圧を受けたためトドメは刺せなかった。スポンディラス側も反撃して伊62に損傷を与えたと報告しているが実のところ被害は皆無である。報告を受けたファルマスとオカピが再度伊62を捜索したが今回も空振りだった。2月10日にペナン基地へ帰投して整備を受ける。
2月28日にペナンを出撃してインド洋での通商破壊を再開。3月10日、英帆船ラクシュミ・ゴビンダ(235トン)を砲撃で沈めて最初の戦果を得る。この日、第29潜水隊の解隊に伴って所属艦は第28潜水隊へ転属。3月16日23時11分、チラチャップ南方沖で蘭貨物船マーカス(865トン)を砲撃により撃沈。3月21日午前11時32分、コロンボ南方で英モータータンカーサン・シリロを雷撃して撃破するが、サン・シリロは生き延びてコロンボまで逃げ切った。3月22日、パーク海峡の北口東方で正体不明の特設砲艦らしき貨物船に向けて魚雷を発射、概ね撃沈と報告しているが該当船は存在せず。3月25日にペナンへ帰投。
4月2日、内地で本格的な整備を受けるべくペナンを出港して佐世保に向かう。道中で第28潜水隊が解隊されたため第30潜水隊へ転属し、4月12日に佐世保へ入港して入渠整備。4月24日に竣工から12年の誕生日を迎えるが、それは同時に竣工時の性能をそのまま発揮出来るとされる「第1期艦齢」の終了を意味していた。本来であれば退役の選択もあるが潜水艦の不足が表舞台から去る事を許さなかった。重油タンクの漏油部の修理、主機械総分解検査と海水タンクの検査、弾薬庫搭載能力増加、一部補助タンクを真水タンクに改造、燃料応急増載タンク新設、自動懸吊装置と残飯処理装置の積載など徹底的な改装を受けた。5月8日に連合艦隊の第二期兵力部署が発令され、ミッドウェー作戦への参加が決まったが、第3及び第5潜水戦隊には作戦に参加する事自体が伝えられておらず、また伊62は老朽艦のため修理が遅れ、管制盤の故障も手伝って5月16日14時の出港時間にも間に合わず、したがってマーシャル諸島クェゼリンへの進出も遅れていた。一足先に準備を済ませた伊64が佐世保を出発したが、5月17日に九州南方で米潜水艦トライトンの雷撃を受けて沈没。海大四型は伊62だけとなってしまった。
5月18日、クェゼリンに向かうべく佐世保を出港。航海の途上にあった5月20日に艦名を伊162に変更、艦型も伊61型から伊162型に変わってネームシップとなる。5月27日午前8時にマーシャル諸島の潜水艦基地クェゼリンへ入港して第5潜水戦隊の僚艦5隻(伊156、伊157、伊158、伊159、伊165、伊166)と合流。現地で初めてミッドウェー作戦の参加と全容が明かされた他、第6根拠地隊や航空隊と十分な打ち合わせを行って潜水艦の行動予定を伝えた。
そして5月28日15時に出撃してミッドウェー方面に向かい、6月3日午後に乙散開線を形成して哨戒任務を開始。ところが先鋒を務めた南雲機動部隊が壊滅してしまったため、第6艦隊司令部は近海に展開中の15隻の潜水艦に西進を命令、伊162も散開線を維持しながら徐々に西側へと向かう。6月6日午前11時20分、第3並びに第5潜水戦隊は丙散開線に就くよう指示が下り、北から伊166、伊165、伊162、伊157、伊156、伊158、伊159の順に各々配備点へ移動。時置かずして14時30分に散開線を西方へ400海里移動させる命令が下った。翌7日、重巡三隈の被攻撃状況を鑑み、連合艦隊司令山本五十六大将は追撃してきた米機動部隊に反撃を考え、ミッドウェー西方に潜水艦部隊を移動させるよう指示を出し、14時50分に第6艦隊司令部より第5潜水戦隊はミッドウェー北方への移動及びR散開線の形成が命じられた。目まぐるしく変わる配備点に翻弄されながらも伊162は舳先を北北西に向け、日中は水中で3ノット、夜は水上で14ノットを出して索敵に従事。6月9日17時40分、米駆逐艦2隻から対潜制圧を受けて約4時間半の潜航を強いられ、夜になってからR散開線に到達した。6月13日、敵空母の大部分がミッドウェー東方に所在するとの情報を受け、今度は東側に向けて移動。翌14日午前9時13分に敵駆逐艦発見の報を打った。やがて長期の作戦行動により各潜水艦の燃料事情が厳しくなり、燃料が余っている艦は内地に向かったが、伊162は特に厳しい状況だったため6月21日午前10時にクェゼリンへ帰投。6月23日午前11時に伊159とクェゼリンを発つ。本土回航の途上だった6月25日、本州南方にて遭難した第二図南丸の救難が命じられるも、燃料が心もとなかったため取り止めとなり、7月1日午前11時に佐世保へ入港。
7月14日、ミッドウェー海戦の敗北に伴う艦隊の再編成が行われ、第5潜水戦隊が解隊されるとともに伊162、伊8、伊165、伊166、特設潜水母艦りおでじゃねいろ丸で南西方面艦隊指揮下に第30潜水隊を新編。インド洋での通商破壊任務に従事するべく7月22日に佐世保を出港、カムラン湾を経由し、8月6日にペナン基地へと進出した。ところがアメリカ軍のガダルカナル島来襲に伴ってメルギーに集結していた水上艦や潜水艦は次々に抽出され、インド洋方面で作戦に従事するのは第30潜水隊と第14潜水隊だけとなってしまった。第14潜水隊(伊27、伊29)は新鋭の巡潜乙型で編成されていたためアラビア海及びアデン湾まで長駆、一方の第30潜水隊は旧式の海大型しかいない(伊8はインド洋に進出せず)のでペナンに近いベンガル湾で海上交通の破壊を行った。
8月23日に伊162はペナンを出撃。マドラス・トリンコマリー間の沿岸部を重点的に哨戒したが、敵の警戒厳しく成果を出せず、手ぶらで9月12日にペナンへ帰投した。休養と整備を経て9月28日にペナンを出撃する。
10月3日14時52分、ヴィシャカパトナム東方のベンガル湾にて、一般貨物を積んでカルカッタからカラチに向かっていたソ連の武装木材船ミコヤン(2332トン)を雷撃。右舷側の第一船倉と第二船倉の間に魚雷1本が炸裂して瞬く間に浸水被害が増大、排水ポンプも故障して手の施しようが無い事から乗組員はSOS信号を放った上で退船し、船を放棄。15時9分、ミコヤンは海中に没した。10月7日16時24分、マスリパタム南東740km地点で、伊162は石炭7100トンを積載してコロンボに向かっている英貨物船マノン(5597トン)を雷撃して撃沈。被雷時に乗員8名が死亡し、残りの生存者はバンガラ・パラウルに上陸した。10月13日16時20分、セイロンのドンドラヘッド東方のベンガル湾で英汽船マルタバンを雷撃し、魚雷1本が船首に命中して撃破。大火災を引き起こして乗組員を一度は退避させたものの、命中した箇所が船首だったため一向に沈まず、船はコロンボまで曳航されてしまった。またオーストラリア空軍のカタリナ飛行艇数機がマルタバンの救援と伊162の捜索に現れたためトドメを刺す事も叶わず、何とか警戒網を掻い潜って10月18日にペナンへ帰投。
休養を終えた伊162は11月初旬にペナンを出撃したが、エンジントラブルに見舞われてすぐにペナンへ引き返す。11月中旬に入ると連合軍はポートダーウィンに多数の艦艇と航空機を集結させ、バンダ海やティモール海に重圧をかけてきたため、南西方面艦隊は重巡足柄、第16戦隊、第30潜水隊、第23航空隊を同方面に派遣してポートダーウィンの敵戦力に対抗する構えを見せた。11月15日、伊162はペナンを出発して11月21日にスラバヤへ回航。そして11月24日に出撃し、130度線以東のアラフラ海、スンダス海峡北方海域の監視任務に就く。12月上旬からは伊165と伊166も参加した。12月17日にスラバヤに帰港。
1943年
1943年1月7日にスラバヤを出撃。再びアラフラ海とカーペンタリア湾を哨戒していたところ、1月10日に連合艦隊司令部からガダルカナル島撤退作戦実施に並行してオーストラリア方面で牽制を行うよう命じられ、豪州北西部岸や北岸、フリーマントル沖で通商破壊を行う。1月13日に一度スラバヤへ帰投し、1月26日に出撃してオーストラリア北西部沖にて陽動を行った後、1月下旬にココス島の偵察を実施した。
2月14日午前11時、小スンダ列島のスワートウェイ島東方で米潜水艦スレッシャーから2本の魚雷攻撃を受ける。片方の魚雷は早爆、もう1本は命中するも不発で済んだ。攻撃に気付いた伊162は甲板砲による反撃でスレッシャーを威嚇しつつ北上退避を行って何とか振り切る。魚雷の不調で伊162を仕留めそこなったウィリアム・J・モークミリカン艦長は帰投後に厳しい非難を浴び、渦中の彼をラルフ・ウォルド・クリスティ提督が庇う一幕があった。2月16日にスラバヤへ帰投。
2月下旬にスラバヤを出発、3月1日に第30潜水隊は第8潜水戦隊所属となり、3月10日に佐世保へ入港して入渠整備を受ける。第30潜水隊の後退によりインド洋で作戦中なのは第14潜水隊の2隻のみとなってしまった。
9月4日、インド洋方面から引き揚げた伊29と交代する形で呉を出港。9月12日第30潜水隊と第8潜水戦隊を統合した南西方面部隊が新編され、9月16日にペナンへ進出。僚艦2隻も続々とペナンに到着した。伊162が内地で整備を受けている間に伊8、伊10、伊37が戦列に加わり、インド洋で活動する潜水艦は計8隻にまで増加。9月27日から10月3日、10月6日から11月9日にかけてインド洋で遊弋しているが、第30潜水隊の行動記録が残っていないので仔細は不明である。ちなみに10月9日、第30潜水隊は南西方面部隊から除かれて第8潜水戦隊に編入、これにより指揮系統が一本化されて円滑なものになった。更に伊34、呂110、呂111がペナン方面に投入されて総兵力は11隻となる。
整備のため11月12日にペナンを出港、マラッカ海峡を通ってシンガポールへ回航する。12月1日にシンガポールを出港してペナンに戻り、12月14日に出撃してインド洋を遊弋。連合軍の対潜兵装は1943年半ばを境に大幅強化されていったが、インド洋だけは対潜装備が貧弱なままであり、旧式の海大型でも何とか太刀打ちする事が出来た。
1944年
1944年1月22日にシンガポールへと帰投。休養と整備を経て2月22日にペナンを出撃する。
3月4日13時50分、セイロン南南西560kmにて、2000トンの銅と1000トンの軍需品を積載した英武装貨物船フォート・マクラウド(7127トン)を砲雷撃で撃沈。フォート・マククラウドの喪失を受けて英商船ナンシー・モラーはセイロン南西300~350海里を避けて東側に迂回したが、これが仇となって伊165に捕捉されて撃沈の憂き目を見ている。3月18日にはインド洋西部で輸送船撃沈の報告を行った(該当船無し)。3月25日にペナンへ帰投。第30潜水隊は解隊となり、新たな配属先である呉防備戦隊に向かうべくペナンを出港、4月15日に呉へ到着して瀬戸内海西部で戦闘訓練。
12月15日、呉防備戦隊第19潜水隊に編入。第一線を退いて後方での訓練任務に従事するはずだったが…。
1945年
戦況が挽回不能にまで悪化した1945年4月1日、伊162は第6艦隊第34潜水隊へ転属。整備が終わり次第佐世保近海で約10日間の単独訓練を命じられ、それが終わると4月19日に佐世保を出港、翌20日16時に光基地へ回航して回天と10日間の連合訓練を実施し、4月30日にリハビリの訓練が完了。伊156と呉へ移動した。
第34潜水隊は元々呂号潜水艦のみで編成された部隊であったが、度重なる喪失により所属艦が呂50ただ1隻のみとなってしまったので、大本営は前線での任務から外し、回天輸送に従事させるべく練習用となっていた旧式潜水艦を補充。伊162以外にも伊156と伊165が編入され、4月20日には伊157、伊158、伊159の3隻が増派された。沖縄戦が始まったとき攻撃用潜水艦は12隻にまで減少。このうち伊165は回天特別攻撃隊轟隊に参加して未帰還となり、残った伊162、伊156、伊157、伊158、伊159の5隻は九州南東岸、四国南岸、伊豆半島から房総半島の沿岸に設置された回天基地へ回天を輸送。加えて行動に必要な燃料を確保する目的で伊156とともに大連へ赴き、燃料を輸送する任務も付随した。
6月26日、大連に向かう途上の朝鮮半島南岸で座礁して軽度の被害を負う。7月10日午前4時36分、足摺岬沖で哨戒中の米潜水艦ライオンフィッシュがスクリュー音を探知し、1分後に浮上してみると伊168型潜水艦(大連から燃料を持ち帰る途上の伊162)が14ノットの速力で艦尾側を横切るのを発見。午前4時43分、ライオンフィッシュは艦首発射管から5本のMk18魚雷を発射。続いてSTレーダーを使用して平均約960mから魚雷を連続発射し、2回の爆発音と破裂音が聴き取れた事から撃沈と判断したが、伊162は損害を受ける事無く当日中に呉へ入港している。7月中旬からは本土決戦を見越して伊162も伊156、伊157、伊158、伊159とともに回天射出訓練に従事。
第15潜水隊に編入された8月15日、無傷の状態で終戦を迎える。生き残った潜水艦は59隻、このうち連合艦隊に所属していた一線級の潜水艦は43隻であったが、その大半は小型艦で占められていて、戦力は書類上の数字より著しく低かった。
終戦後
1945年9月2日、呉へ進駐してきた連合軍に投降。伊162の戦いは終わった。アメリカ軍は24隻の潜水艦を調査するべく10月に佐世保へ回航させたが、ソ連も潜水艦を調査するため査察団を送り込んでいるとの情報が入り、情報が奪われるのを阻止するべく潜水艦を一斉処分するローズエンド作戦の実行を決定。11月30日に除籍された伊162は使用可能な兵装や資材を剥ぎ取られる。
そして米潜水母艦ネレウスに曳航されて佐世保を出発、1946年4月1日のローズエンド作戦にて五島列島沖で砲撃処分された。
関連項目
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