概要
日本初でありながら、一大学の付属研究機関にすぎない東京大学航空宇宙研究所(駒場にあった付属研究所。のちの文部省宇宙科学研究所、JAXA研究本部へと発展する組織)の予算と人員で打ち上げられた、人工衛星。
諸外国における宇宙開発は「弾道ミサイル」の副産物であり、兵器として、国威を示すために行われていたため、兵器転用を視野に含めない「おおすみ」と打ち上げロケット「L-4S」はまったく異色の存在と言える(後述)。
1970年2月11日13時25分、内之浦から L-4Sロケット5号機にて打ち上げ。
1970年2月12日4時30分、ヨハネスブルク局で観測された微弱な電波を最後に通信途絶、運用終了。
以降33年余り、地上から観測できる「流れ星」でありつづけた彼女(※1)は、2003年8月2日05時45分、大気圏に突入。消滅した。
わずか15時間程度の運用で終わった彼女だが、その遺したデータは後継機開発のために利用された。
「おおすみ」の特徴
L-4Sロケットの最上段(4段目)である直径48cmの球形固体モーター+円錐台状の計器部から構成された。
全長:約1m
質量:4段目(燃焼後質量)14.9kg+計器部8.9kg
と小柄である(世界初の人工衛星スプートニクは質量84kg)。
搭載機器は
など。
これらの機器への電力供給のため、酸化銀 - 亜鉛電池(容量 5AH)を搭載。
30時間の稼働を想定して設計されていたこの電池は、ロケットモーターの断熱が不十分であったため消耗。15~16時間程度の電力供給を行った(正確な時間は判っていない)。
計器部重量の軽減、あるいは日本宇宙開発の伝統
のちのISAS(文部省宇宙科学研究所)も各セクションでグラム単位の割り当て質量争奪戦を繰り広げていたが(質量が多い=自分の機器がいっぱい積める、である ※3)、初代人工衛星の「おおすみ」も搭載計器質量に悩まされた一機である。
当時もミッション達成上,第4段計器部の重量に厳しい制限が加えられた。
マグネシウムを主材料とする軽合金を用い,金属ケースは最小限度にとどめ,わずかに高周波部と電池の気密保持にのみ使用された。テレメータ送信機の既製の筐体にドリルで多数の孔をあけて(1号機と2号機のみ)減量を図るなどポッテイング,コネクタ,ネジ1本に至るまで重量の管理を行う苦労もあった。衛星重量の軽量化はここから始まったと思う
・・・・・・軽量化への圧力は、「おおすみ」時代からの伝統だったわけである。
打ち上げロケット「L-4S(ラムダ4S)」
ラムダロケット(以降Lロケットと略)は、観測用ロケットL-3Hをもとに開発された。
ラムダシリーズ(以降Lシリーズと略)では人工衛星を打ち上げる予定はなかったが、当時のロケット開発研究者によりL-3Hに補助ブースターと4段目を追加すれば、『計算上は』人工衛星になることは分かっていた。この話がどこからか漏れ「Lロケットは人工衛星を打ち上げることができる。」→「Lロケットで人工衛星を打ち上げる。」と話に尾ひれがついてしまったようである。
当時の長期計画では後発機「ミュー(以降Mと略)」シリーズより人工衛星の打ち上げを行うことになっていて、Mシリーズは人工衛星を打ち上げる前提で基本設計がなされていた。しかし上記のような流れできてしまいL-3H改良型(のちのL-4S)で人工衛星打上の模擬実験をすることとなった。
開発現場としては、高高度観測ロケットでしかないLシリーズで無理やり人工衛星を打ち上げることについて、ある程度の失敗は覚悟していたようである。しかし1号機~3号機機連続失敗、テスト機(L-4T)条件付き成功、4号機失敗の途中で糸川英夫博士が世論の批判を受け宇宙研を去っていくこととなる。
L-4S度重なる失敗は同時に進められていた人工衛星打ち上げ用ロケットM-4Sの設計に盛り込まれた。おおすみ打上の7ヶ月後にM-4S 1号機が打ち上げられている。ただし1号機は失敗、2~4号機は成功。
Mシリーズと同様、全段固体モーター(ロケットエンジン)で構成されていた。
そして世界的にも珍しい、誘導制御装置を持たない「無誘導方式」ロケットである。
特筆すべきは、4段目の切り離しまで全シーケンスを導火線で動作させていたことである。
なので冗談抜きで、点火後飛びっぱなしのハイテク巨大ロケット花火なのである
つまり、カウントゼロと同時に全シーケンスの導火線(遅延イグナイタともいう)を同時点火、導火線の長さで動作タイミングを調整して、段間切り離し火工品動作・スピンモータ点火・エンジン点火などを行っていた。それまでただまっすぐ上がるだけのロケットであればそれで十分だった。 さすがに水平方向への加速のタイミングを取らなくてはならない4段目は点火タイミングを地上から送らなくてはならないため後述の方法が取られた。
しかもMシリーズ中盤までこの方式だったらしい・・・・・・。夏・冬の温度差で導火線の燃焼速度が微妙に変わる。そのため夏用遅延イグナイタ・冬用遅延イグナイタと使い分けていた。
こうなった理由は、当時の航空宇宙研に誘導装置の技術がなかったからではない。
社会党(のちの社民党)から「誘導ミサイルへの技術転用ができる」として物言いがついたためである(※2)。
ただロケットをまっすぐ打ち上げても、周回軌道への衛星投入はできない。
人工衛星を打ち上げる為には、どこかで法線方向へのベクトル追加が必要となる。
そのために必要となる、誘導制御装置という要素を封じられたのはつまり、手足を縛られたのも同然の事。
航空宇宙研は、しかし諦めなかった。
「無いナイ尽くしで何とかする」日本技術者の底力は、この時点から発揮されていたのである。
そして採用されたのは、姿勢安定を得る方法として:
- 第1段は尾翼による空力的効果で安定させる(大気が十分に濃いため可能となる)
- 第2段は尾翼+スピンモーター(このモーターによるスピンで安定を保つ)
- 第3段はスピンモーターで姿勢を安定させる
- 第4弾は姿勢変更を行うためのデスピンモーター(いったんスピンを止める)、リスピンモーター(姿勢変更後にスピン再開し安定を得る)を搭載
また軌道投入については、慣性で放物線軌道に乗っている(=上昇を続けている)第4段に対し
- デスピンモーターでスピン停止、姿勢制御可能とする
- 姿勢制御装置で水平姿勢へ変更
(あくまでも『姿勢』の制御であり、『誘導』ではない) - リスピンモーターを作動させ安定させる
- 放物線の頂点(=重力方向への移動は停止)で燃焼開始
するという、非常に手の込んだ方法。これがいわゆる「無誘導重力ターン方式」である。
これほどまでに工夫を凝らし開発されたL-4Sであったが、1~3号機は結合・切り離し機構の不具合や上段ロケットの不点火のため、4号機はまさかの追突事故のため、宇宙に飛び立つ事は出来なかった。
だがLシリーズが実験機である以上、失敗によるデータの積み重ねも重要であったと言えよう。
これらの失敗をもとに、5号機は
等、多くの改良が加えられた。
日本ロケットの独自性と、おおすみ
軍事転用が可能として誘導制御装置の開発に物言いがついたLであったが、日本のロケットはその最初から、武器転用は考慮されていない。
この点については、小惑星探査機「はやぶさ」帰還ブログツイッター(@Hayabusa_JAXA)担当者、dV氏のご発言を引用しておこう。
はやぶさ」を打ち上げたM-Vは、世界最高性能の固体ロケット。世界の殆どのロケットがV-2ミサイルの技術を遠い祖先に持つのに対し、M-Vに連なる宇宙研の固体ロケットの系譜は純粋に学術目的で独自に開発され、科学衛星の打上げに最適化された自慢のロケットです。
つまり、純粋に宇宙を目指すために生まれたロケットであることにご注目いただきたい(※4)。
関連動画
以下はタグが付いておりませんが、「おおすみ」の姿が見られる作品ですので関連動画に加えておきます。
関連コミュニティ
参考資料
ISASニュース・浩三郎の科学衛星秘話【日本初の人工衛星「おおすみ」誕生(前編)】
ISASニュース・浩三郎の科学衛星秘話【日本初の人工衛星「おおすみ」誕生(後編)】
WikiPediaの記事(おおすみ)
注
※1:
慣習で"She"の三人称が用いられることから、ここでは「彼女」の表記を用いた。
※3:
Mシリーズを擁したISASもまた、100gの搭載割り当てが奪い合いの対象となる世界であった。
日本の科学技術者の夢を全て載せて飛ぶためには、航空宇宙研やISASのロケットは小さかったのである。
もうちょっと大きいロケットがあればなあ・・・・・・は「おおすみ」以来、機器開発組に共通する夢であったと言えよう(ここは負け惜しみと言われようとも、不屈の技術者魂にとってこの小ささが開発圧力となり、 より良い機器開発へつながった点に着目すべきであろう)。
※4:
フォン・ブラウンの開発したV-2とその系譜は、のちに宇宙用として発展した事も事実だが、元は対地攻撃用の兵器であった。つまり彼ら本来のターゲットは宇宙ではなく、地べたである。
宇宙研固体ロケットは、最初から宇宙を目指すために作られている点が大きく異なる。
・・・・・とは言われているけど、実のところ高高度の記録をどんどん塗り替えるようにロケットを高性能化していったら、いつの間にか人工衛星を打ち上げられるロケットができちゃいました。(テヘw
関連項目
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