ムガル帝国とは、1526年から1858年にかけてインドに存在した国家である。
概要
かつて西アジアに広がっていたティムール帝国は内紛と分裂の末、ウズベク人王朝のシャイバーニー朝によって滅亡する。ティムール帝国の王子バーブルはアフガニスタンのカブールを占拠し、ティムール帝国の再建を目指してシャイバーニー朝と激突するも古都サマルカンドを維持できず、1517年以降はインドへの進出を試みるようになる。1519年にカイバル峠を越え、1526年4月にデリーを占拠してここにムガル帝国が開かれた。
次代のフマーユーンでデリーが落ちて帝国は一度滅亡したものの、暫くのちにデリーを奪還した。第三代アクバルの軍事的成功によって、領土は大幅に拡大し、北インド全域にわたる支配を確立した。第五代フッラムはシャー・ジャハーンと名乗り、この時代帝国は最盛期を迎える。更に、シャー・ジャハーンの後継者争いを制した第三子アウラングゼーブの時代に、帝国の領土はデカン高原を越え、インド南端を除くインド亜大陸の全域にまで至る。然し、アウラングゼーブ時代から既に各方面での軍事的衝突が限界に達しており、更に、アウラングゼーブ死去後は帝国各地で反乱が頻発し続けた。これに加えて帝国は代替わりごとに後継者争いを起こし、遂にはズルフィカール・ハーンやサイイド兄弟といった臣下によって帝位が決定されるようになる。
1724年には宰相であったカマルッディーン・ハーンが、デカン高原で独立しニザーム王国を建国。以後、帝国の地方長官が事実上独立し、皇帝はその形式的な上位者にすぎなくなっていく。最早、帝国は分裂状態となっていたが、更に、南からはアウラングゼーブ時代には抑えられていたマラーター王国が伸長してくる。王国は各地の領主とマラーター同盟を形成し、北インドはおろか首都デリーを窺う程に勢力を伸ばした。西からはナーディル・シャーがサファヴィー朝に代わってアフシャール朝を建てて、ムガル帝国領に侵攻し、帝国はインダス川以西の割譲を強いられた。これ以後、帝国の動向は北インドの有力者の動向に左右され続ける。
同時代、インドには欧州列強が各地に貿易の為の土地を確保していたが、特にイギリスはプラッシーの戦い、カーナティック戦争で他の欧州勢力よりも優越していた。さらに、アフシャール朝に代わってアフガンを抑えたドゥッラーニー朝とマラーター同盟が1761年パーニーパットで激突し、この戦いで敗北したマラーター同盟は結束を崩してインドの覇権を失った。一方のドゥッラーニー朝も、本国で反乱が起きたため帰還し、北インドの安定支配にまでは至らなかった。このインド亜大陸の覇権に空白ができたことでベンガル地方やインド南部に限定されていたイギリスの勢力が亜大陸全土に浸透することとなった。
ミールザー・ナジャフ・ハーンやマハーダージー・シンディアといった臣下の下で存続をし続けた帝国も、19世紀には完全に崩壊してデリーを支配する地方勢力と化して、イギリスの保護下となった。イギリスは着々とインドにおける植民地を築き1849年にはシク戦争を制して、インド北西部を植民地に組み込んでインドの植民地化を完成させた。こうした中で、インド人のイギリス支配に対する不満が鬱積し、ついに1857年にはインド大反乱を招くこととなる。この中で、名目上とはいえ皇帝位を保っていた皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍の首魁として担ぎ出される。然し、インド大反乱は最終的に失敗となり皇帝は廃位。ここにティムールから数えて500年以上にわたった帝国は滅亡した。
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