内談衆とは
のことである。
1の概要
最初のころの室町幕府は、主に足利直義が中心となって鎌倉幕府の訴訟機関などを丸パクリ引き継いでして運営されていた。ただ、それも五番方の引付→三番方の内談→五番方の引付と幕内の綱引きで制度ごと変化していき、そのメンバーも内ゲバと盛大に連動してしまっていた。
一方頭人のもとで実際に作業を行う面々は、当時すでにそういう能力のあった人々、つまり鎌倉幕府や足利氏の下ですでにそういう役職に代々あった人々が担っていた。こうした人々は後に上位が各役職の頭人の家に、下位が右筆方奉行人へと変化していった。
次第に将軍そのものによる御前沙汰へと変わっていったため、将軍とそれを支える右筆方奉行人という構造へと変化していった。
内談衆の頭人一覧
年 | ||||||
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建武3年 | 高師直 | 沙弥 | ||||
建武4年 | 細川和氏 | 二階堂行応 | 上杉朝定 | 高師直 | 二階堂道存 | 沙弥 |
暦応元年 | 上杉朝定 | 散位 | 吉良満義? | 摂津親秀 | 二階堂行珍 | |
暦応2年 | 上杉朝定 | 散位 | 吉良満義? | 摂津親秀 | 二階堂行珍 | |
暦応3年 | 上杉朝定 | 散位 | 吉良満義? | 摂津親秀 | 吉良貞家 | 高重茂 |
暦応4年 | 上杉朝定 | 吉良貞家 | 高重茂 | 石橋和義 | ||
康永元年 | 上杉朝定 | 吉良貞家 | 高重茂 | 石橋和義 | ||
康永2年 | 吉良貞家 | 高重茂 | 石橋和義 | 佐々木導誉 | ||
康永3年引付 | 吉良満義 | 吉良貞家 | 石橋和義 | 上杉朝定 | 高師泰 | |
康永3年内談 | 高師直 | 上杉朝定 | 上杉重能 | ― | ― | |
貞和元年 | 高師直 | 上杉重能 | ||||
貞和2年 | 高師直 | 上杉朝定 | 上杉重能 | |||
貞和3年 | 高師直 | 上杉朝定 | 上杉重能 | |||
貞和4年 | 高師直 | 上杉重能 | 石橋和義 | |||
貞和5年内談 | 上杉重能 | |||||
貞和5年引付 | 斯波家兼 | 石橋和義 | 佐々木道誉 | ほか2名 | ||
観応元年 | 斯波家兼 | 佐々木導誉 | 長井高広 | |||
観応2年 | 石橋和義 | 畠山国清 | 桃井直常 | 石堂頼房 | 細川顕氏 |
主な構成氏族
ア行 | カ行 | サ行 | タ行 |
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ナ行 | ハ行 | マ行 | ヤ行 |
|
|
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ラ行 | ワ行 | ||
該当者なし |
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2の概要
応仁の乱や明応の政変を経て、幕政にほとんど守護が関わることもなくなり、それを引き継いだ側近公家衆、さらに彼らに代わって運営に携わったのが内談衆である。彼らはほとんどこれまでの将軍近臣層出身とはいえ特に大きな政治的基盤を持つことはなく、その選抜も家門などではなくほとんど将軍との個人的な縁故によるものであった。
彼らはさらに下の右筆方奉行衆と将軍の仲介を行い、その間で議論を行う立場であった。
一応厳密な意味で内談衆は足利義晴の時代が基準なのだが、それ以前の足利義尚の評定衆や足利義材の側近衆もやることやメンバー構成などはこれとほとんど同じである。
内談衆の一覧
足利義尚
厳密にいえば内談衆ではなく、近江在陣中に右筆方奉公人の合議に代わった近臣層「評定衆」で、これによって右筆方奉行人の発言力がやや低下することとなった。
足利義材
こちらも厳密な意味では内談衆ではなく、その前身にあたる側近公家衆である。足利義材は明応の政変でほとんど敵側になったことからもわかる通り、もともと新たに迎えられた存在であるため、それまでの将軍近親の人々と関係を結べなかったためこのような側近を作ることとなったのである。これより後は、一応昵近衆の制度などが維持されてはいったのだが、武士の内談衆が代わっていくことになった。
また武士でも父親である足利義視以来の近臣も取り立てられている。
足利義澄
「~衆」というまとまった呼ばれ方もされず、まだはっきりしたことはわかっていないが、足利義澄の時代にも個人的な関係のある側近の公家と武家がこの役割を担っていた。
当初は自分を擁立した細川京兆家や伊勢氏に幕政を任せていたが、成長するにつれてこのような近臣層に代えたそうだ。
足利義晴
下の人々が内談衆として確立されたメンバーで、時期によって変動があるが八人衆とも呼ばれていたが、それ以前のまだ将軍が若いころには飯川国弘、清光院なども同じような仕事をしていた。
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関連項目
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