概要
天保11年(1840年)、伊予松山藩の中間の家に生まれる。諱は忠一。
20歳頃に出奔し、文久2年(1862年)末頃に試衛館の近藤勇と知り合う。
文久3年(1863年)に浪士組の一員として近藤らと上京。京都に残り壬生浪士組に加わった。同年9月、芹沢鴨暗殺に参加。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では第二陣として参戦。
慶応3年(1867年)11月15日の坂本龍馬暗殺事件(近江屋事件)にて、刺客の放った言葉や残された刀の鞘から実行犯と疑われたが現在では関与は否定されている。3日後の伊東甲子太郎暗殺事件(油小路事件)に出動。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いから敗走後、甲州勝沼の戦いに参戦したが、永倉新八と共に脱退。その後彰義隊に加わり、5月15日の上野戦争に参戦したが重傷を負い、17日に死亡したとされる。享年29。
気短でせっかちな気質だったいう逸話から、新選組を題材とした作品では豪放磊落、粗野、頭が少し足りない人物として描かれることが多い。
関連項目
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