近江屋事件単語

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近江屋事件とは、慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日)、土佐脱浪士・坂本龍馬中岡慎太郎及び、坂本の付き人山田吉が殺された事件である。

概要

事件当日から明治3年まで

当日午後8時9時頃、京都河原町通り薬師にあった醤油商・近江屋に来客があり、吉が応対した。来客は「十津川郷の者」と名乗り、「才先生(坂本龍馬)に面会したい」と伝えた。

吉が取り次ごうと階段を上ると後ろからられて重傷を負った。物音に気づいた坂本が「ほたえな(騒ぐな)」と注意した。刺客達は2階の部屋に乗り込み、坂本の額をりつけ、坂本は応戦しようと立てかけてあったを取ろうとしたが背中られた。刺客が更にを振った所をで防いだがそのまま頭をられて倒。一緒にいた中岡短刀で応戦したが敵わず、頭部や体に10数箇所の傷を受け、右手は切断しかけるほどの重傷を負った。刺客の一人が「もうよい、もうよい」と言い、刺客達は立ち去った。

その後坂本が意識を取り戻し、「慎太、慎太、どうした手は利くか」と問いかけ、中岡が「手は利く」と返した。坂本は階下の人に医者を呼ぶよう言ったが、「をやられたからもう駄だ」と言い絶命した。中岡は物干しに這い出て人を呼ぶが返事がなく、隣屋根まで這ってから気絶した。

人の近江屋新助は土佐邸に通報しようとしたが表口に見りがいたため裏口から出て土佐邸に救援をめ、下横嶋田作が駆けつけ、軍鶏を買いに行った菊屋峰吉も戻ってきた。二人で近江屋2階に上がると坂本中岡吉が倒れており、中岡を隣屋根から部屋に運んだ。

その後、土佐士・や土佐脱浪士の田中顕、土佐医の川村進(えいしん)が駆けつけ、襲撃時の模様を中岡から伝え聞いた。

事件現場の近江屋には犯人のものと思われると「瓢亭(ひさごてい)」と書かれた下駄が置いてあり、新助が瓢亭に行って聞くと「昨日新選組のものに貸した」と言し、についても御陵衛士が「新選組原田左之助のものだ」と言した。また中岡から聞いたという刺客の発した「コナクソ」という言葉が伊予松山方言にある事から、伊予出身の原田が疑われた。襲撃時の模様を言した中岡は事件から2日後の17日、吉は16日に死亡した。


以上が岩崎英重『坂本龍馬関係文書』(大正15年)による事件発生時の状況で、発生直後には新選組原田左之助っ先に疑われていた。土佐から抗議を受けた幕臣の永井尚志は新選組近藤勇に事情聴取したが、近藤は自分達ではないと回答した。

援隊・陸援隊関係者は収まりがつかず、いろは丸事件で賠償金支払いに応じた紀州新選組に殺させたのだと思い込んで紀州士の三浦太郎を襲撃した。(天満屋事件)

慶応4年(1868年)4月流山で捕らえられた新選組局長近藤勇は土佐士のらから厳しい追及を受け、1月25日刑法事務局による暗殺禁止令exitで同日以前の暗殺を含む務については不問とされたにも関わらず切腹も許されずに斬首された後に首という極刑に処された。これは表向き反乱軍の首謀者としての処罰だったが、坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられていたための極刑とも言われており、実際は死ぬまで犯人新選組とみなしていた。

ところがその後新選組隊士が捕縛され、その自供によって容疑の対が変わりだした。同隊士の大石鍬次郎は捕縛された当初拷問に耐えかねて新選組がやったと供述したが、その後あれは京都見廻組がやったことで新選組は関わっていないと言を翻した。

且つ同年十月、土州坂本龍馬石川清之助(中岡慎太郎)両人を暗殺之儀、私共の所業には之、是は見り組海野某、高橋某、今井信郎人にて暗殺致由、勇(近藤勇)より慥(たしか)に承知仕先達加納伊豆太郎に被召捕節、私共暗殺に及び段申立得共、是は全く彼の拷問を逃れ為にて、実は前に申上通に御座候

戦争榎本軍として戦い降した元新選組隊士の相馬肇も、兵部省での尋問で新選組関係であり、実行したのは京都見廻組であると自供した。

坂本龍馬儀は私は一向存知不申得共、隊中へ文を以て右之暗殺致嫌疑相趣全組にて暗殺致由之趣初承知仕

これらの言によって坂本中岡の暗殺実行犯の内の一人と名しされた今井信郎に容疑がかけられた。兵部省において今井に尋問がなされ、以下の自供を行った。

坂本龍馬を殺の義は見組与頭佐々木唯三郎より図にて、事不軌(謀反)を謀りに付、先達て(寺田屋にて)召捕に懸り所取り逃がしに付、度は屹度召捕申すべく、万一手に余節は打果し申すべく旨達し有之。

私義は上京々の事故、委細の義は承知仕らず得共、佐々木唯三郎先立、渡辺吉太郎高橋安次郎之助・土肥仲蔵桜井大三郎・私共都合七名にて瓦町(河原町)三条下ル旅館(近江屋)へ参り同人留守にて、其五ツ(8時頃)再び参り処在宅に付、佐々木唯三郎先へ参り跡より直に之助・渡辺吉太郎高橋安次郎弐楷へ上り、土肥仲蔵桜井大三郎は下に扣(ひかえ)居候処、弐楷の様子は存知申さず得共、二楷より下り申し聞かせには、召捕申すべく之処、両三人居合わせ間、拠(よんどこ)ろく打果し旨申聞、直に立退けと申事故、一同右場所立退、二条通りにて高橋渡辺両人は見組屋敷へ帰り、佐々木は帰り、外私共は旅宿に居り間、旅宿へ帰り申

明治3年(1870年)2月21日今井相馬大石らと共に刑部省に身柄を移送され、更に以下のように自供した。

(前略)十月ごろ与頭佐々木唯三郎、旅宿へ呼び寄せに付き、私並びに見渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助土肥仲蔵桜井大三郎、六人罷り越しところ、三郎申し聞けには、土州坂本龍馬儀、不審の筋これあり、先年伏見において捕縛の節短筒を放じ、捕り手のうち伏見奉行所同心二人打ち倒し、その機に乗じ逃げ去りところ、当節河原三条下ル町、土州邸向かい町に旅宿罷り在りに付き、このたびは取り逃さぬよう捕縛致すべく、万一手に余りえば、討ち取りよう御差図これあるに付き、一召し連れ出張致すべく、もっとも儀、旅宿二階に罷り在り、同宿の者もこれありよしに付き、渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助二階へ踏み込み、私並びに土肥仲蔵桜井大三郎は台所辺りに見り居り、助力致し者これありわば差図に応じ、あい防ぐべき旨にて手あい定め、同日八ツ時ごろ一旅宿へ立越節、桂早之助儀は三郎より申し付けを請け、一足先へ立ち越し偽言を以て在宅有あい探りところ、留守中の趣に付き、一同東山辺り逍し、同五ツ時ごろ再び罷り越し、佐々木唯三郎先へ立ち入り、とか認めあるの偽名の手札差し出し、先生に面会あい願いたく申し入れところ、取り次ぎの者二階へ上がり跡より引き続き、かねての手のとおり、渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助付け入り、佐々木唯三郎二階上り口罷り在り、私並びに土肥仲蔵桜井大三郎はその辺りに見りおりところ、の間に罷り在り内の者騒ぎ立てに付き取り鎮め、右二階上り口へ立ち返りところ、吉太郎、安次郎之助下り来たり、その他両人ばかり合宿の者これあり、手に余りに付きは討ち留め、ほか二人の者切り付け疵は負わせえども生死は見留めぬ旨申し聞きに付き、左えば致し方これなきに付き、引き取りよう三郎差図に付き立ち出で、銘々旅宿に引き取り、その後の始末は一切存ぜず、もちろん儀旧幕にていかようの不審これある者にや、全件の通り新役の儀に付き、更に承らず、かつ旧幕にては閣老等住職の命を御差図とあい唱えに付き、その辺りよりの差図か、または見組は京都守護職附属に付き、肥後よりの差図にやこれまた承知仕らず、その後旅宿引き払い二条へ引き移る。(下略)

要約すると以下の通り。

という内容で、この供述により真犯人京都見廻組である事が判明し今井は禁錮刑に処されたが、明治5年(1872年)に特赦によって解放された。判決内容については何故か表されず、世間では暗殺犯は新選組という説が流布し、通説となった。

関係者の証言

事件から30年以上が経過した明治33年(1900年)、今井信郎友人自称新選組結城二三の子息である礼一郎が今井と面会した際、二三から「この人が坂本龍馬った人だ。参考までに話を聞いておきなさい」と言われた。今井は「話すほどのことではない」と言ったが、礼一郎の要に応じて聞き取りが行われた。その内容が『甲斐新聞』に掲載されてから京都で発行されていた『近畿評論』という雑誌に載った。『甲斐新聞』元編集長の岩田という人物が退職して京都に戻った際に結城断で転載したのである。

今井信郎証言一

この中で今井明治3年(1870年)の供述調書とは異なる言をしている。

  • 実行犯は自分の他、桑名渡辺吉太郎京都の与力桂早之助、他一人
  • 10時頃に近江屋に着き、の者だと名乗った
  • 2階に上がると六間と八間があり、前者に3人の書生が、後者坂本中岡が居た
  • 最初どちらかわからなかったので「坂本さんお久しぶりです」とをかけた
  • 「どなたでしたねえ」と言った方をりつけた
  • はじめ横鬢(もみあげの辺り)、次に左右のった
  • 続いて中岡を3回ほどった
  • 渡辺は六間の書生とり合い、書生は屋根伝いに逃げ
  • を置き忘れたのは渡辺
  • もう1人実行犯の生き残りがいるが、その者から「が死ぬまで言うな」と言われたので回答できない

上記の言と共に近江屋2階の図面を書いており、火鉢と誤認するなど細かい間違いがあるものの、近江屋2階の間取りに近似したものだった。今井明治3年(1870年)の供述では渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助の3人が2階に上がり、自分は見りだったと言っていたが、この言では自分が実行犯という事になっていた。また、以前は自分以外全員戦死したと言っていたのが「もう1人生き残りがいる」とも言した。これがに通知され、憤慨した明治37年(1904年)から明治39年(1906年)にかけて、雑誌の講演会などで次のように語った。

谷干城証言

  • 刺客は十津川の者と名乗ったのであり、の者とは名乗っていない
  • 1人で坂本中岡の2人を殺するなど出来るわけがない
  • 中岡は「刺客は2人」で、「コナクソと言ってりつけてきた」と言った
  • 書生が3人居たと言うがそんな者は居なかった、居たのは坂本の従(山田吉)である

なお自身は兵部省・刑部省で取られた供述や判決文については全く知らなかったと思われる。

田中光顕証言

と共に現場に立ち会った田中顕も後年いくつかの言を残している。

  • 中岡は「2人の男が2階に駆け上がってきてりかかってきた」と言った
  • 現場に蝋色のが残っていた
  • 伊東甲子太郎を見せたところ新選組のものだと言った

田中は晩年「今井信郎言は信用できない」としながら「最近の調では小太刀名人早川之助(桂早之助)、渡辺太郎(渡辺吉太郎)が有力」という談話を残している事から、京都見廻組が怪しいという考えであったと思われる。

井口新助証言

近江屋新助こと井口新助も明治33年に子息による口述筆記で反論している。

  • 2階の小座敷に当小僧が3人いて、吉が雑談していた
  • 吉が玄関に出ると刺客は十津川郷士の名刺を出した
  • 2階に登った刺客は3人
  • 坂本は頭をられたが綿の胴着を着ていたため体には負傷がなかった
  • トドメに坂本の喉を二刺しした
  • 事件後、犯人が残したと思われると瓢亭の印の入った下駄が残っていた
  • 下駄を瓢亭に持っていったところ「新選組に貸した」と言われた

そして「々」「書生が3人々」は全く間違いであるとした。

菊屋峰吉証言

坂本に頼まれて軍鶏を買いに行ったという菊屋峰吉も何度か言している。

  • 軍鶏を買って近江屋に戻ると土佐士の嶋田作が居り、「2人が賊に襲われた」と言われた
  • 2階に上がると血が滴っており、坂本死亡中岡は隣屋根に居たため、嶋田と一緒に運んだ
  • 自分がに乗って陸援隊に知らせに行った
  • その後新選組が疑わしいというので屋に変装して屯所に行き、援隊士達の討ち入りを手引きした

今井信郎証言二

今井の反論については特に何も談話を残していないが、その後もいくつかの言が確認されている。

明治42年(1909年)2月今井は『大坂時事通信』の取材に答え再度言を行い、「隠れたる今井信郎近世史上の一疑問 坂本龍馬始末」と題して掲載された。以下がその要約である。

同年、和歌山県の木史談会を催した内村から事件に関する問い合わせがあり、同年2月28日付で以下のように回答している。

史学会雑誌記事については、旧知己並びに大槻君等より一矢報うべしと勧告これありとえども、素より名誉または自慢のためになしたることにこれなく、万やむをえず手を下したる次第なれば、そのままになしたり。しかし、静岡士の要路にありし者は皆よく熟知しおることにて、小生の途中などは充分の警衛官を選抜し、復讐に備えたるほどなれば、のちの史には必ず分明に相成るべしといえども、小生は敢えて願うところにこれなく。」

同書簡の仲で今井から示を受けたのかについても伝聞推定ではあるが見解を述べている。

静岡へ照合の結果、元見組小(小笠原)河内守、のちに弥八郎よりは、かねて手に余りたる者は殺するも、取り逃がすべからざるよう、厳重申し付けたる旨なりしより

今井自身が静岡に照合したところ、元京都役の小笠原弥八郎示していたと回答している。だが小笠原自身は明治3年(1870年)の時点で関与を否定している。

坂本龍馬召し捕りの儀に限らず、京都見廻組勤め向きの義は、佐々木唯三郎全権にて事委任取り扱い儀ゆえ、御尋ねの次第更に心付け申さず申し立て・・・

(岩崎坂本龍馬関係文書』)

また同年12月17日大坂新報社の記者和田の問い合わせにも以下のように回答した。

要するに幕府は攘夷因循兵力の微弱なるを曝露し、所謂志士なる火事盗賊に苦るしめられ、土崩瓦解せるも、勤王愛国の念慮は毫も衰弱したるもに是れなくは事実の上に顕然たり。近藤勇新見錦芹沢鴨の如、立場に依て其名を異に致す者と信じ。実に玉石混交の時世、是か非か後世の史論に譲り左に御回答仕り
一、暗殺に非ず、幕府の命に依り職務を以、捕縛に向格闘したるなり。
二、新撰組と関係なし。余は当時京都り組与力頭なりし。
三、彼れ曾て伏見て同心三名を撃し、逸走したる問罪の為なり。
四、場所は京都薬師近江屋と醤油店の二階なり。
(明治四十二年)十二月十七日
   遠州初
   今井信
大阪新報社
和田殿

この回答を最後に今井は沈黙し、大正7年(1918年)に死ぬまでには何も語り残さなかった。

手代木直右衛門証言

明治36年(1903年)、元会津重臣の手代木直右衛門は以下の遺言を残して死去した。

坂本龍馬慶応三年十一月十五日に、京都河原薬師醤油屋方にて幕府の壮士の刺殺されたることは史乗に詳なる所なるも、其の下手人の何者たるは今に及ぶまで明かならず。手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて坂本を殺したるは実三郎なり、当時坂本長の連合を謀り、又土佐の論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、三郎組頭として在せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率ゐ、薬師なる坂本の隠を襲ひ之を殺したりと。蓋し某諸侯とは所代桑名したるなり。桑名会津の実なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生事を口にせざりしならん。前年静岡県今井信郎なる人坂本を殺したるは自分なりとて、史談会にて其のを叙し、彼は佐々木只三郎坂本の相談を受け、同人及び渡辺吉太郎なる人と同行したりといへり。是れ正に手代木翁の言に符号せり。余輩は手代木翁の人格を信じて、其の事の真実なるを疑はず」
 (『手代木直右衛門伝』)

手代木によると、自分の実である佐々木只三郎らが実行犯であり、示は某諸侯が出したという事である。この件については「黒幕不在説」で後述する。

渡辺篤証言

大正4年(1915年)、京都にて渡辺篤(旧名渡辺一郎)なる老人が死去する間際「坂本龍馬は自分が殺した」と話した。渡辺幕末京都見廻組に所属していたことが確認されており、族や知人を通じて以下の言を遺した。

  • 自分の他、佐々木只三郎今井信郎、他3名で実行した
  • 坂本の居場所捜索には諜吏の増次郎という者を使った
  • 入り口に1人、2階上り口に1人見りを付けた
  • 1人給仕らしき者が居たが年少のため見逃した
  • を置き忘れたのは世良敏郎という腕のたたぬ者である
  • 世良戦闘奮でを置き忘れ逃げる途中呼吸困難になったので肩を持って撤退した
  • は私のの中に隠し、エエジャナイカに紛れ込んで帰った
  • 坂本の恩賞として十五人扶持を賜った

これは渡辺明治44年(1911年)に書いた『渡辺由緒代系図履書』という文書に書かれており、その内容の一部が大正4年(1915年)8月5日大阪朝日新聞に「坂本龍馬を殺した老客、悔恨の情に責められて逝く」と題して掲載された。この『履書』には原本があり、明治13年(1880年)に書かれたものとされている。原本の内容は以下のとおり。

明治13年の『原本』と明治44年の『履書』では、刺客の人数や当日近江屋に居た人数が異なる箇所がある。また今井信郎言内容とも食い違いが見られる事から、今井言よりも信憑性に劣ると見られる事もある。

疑問点

コナクソ

言によると、中岡は死の間際に刺客が「コナクソ」という言葉を放ったと言う。「コナクソ」というのは伊予方言で、出身者の新選組隊士原田左之助に容疑がかけられる理由の一つとなった。ただし、この言葉について言しているのは実はだけで、他の言者(田中顕、近江屋新助、菊屋峰吉)は話していない。また、別の言葉を聞き間違えたのではないかとも言われており、犯人特定するためにはあまり意味がいと思われる。

下駄

犯行後、現場の近江屋に残されていたもので、『坂本龍馬関係文書』(大正15年発行)では「瓢亭」の印があったとし、瓢亭には新選組隊士が良く出入りしていたためこれも新選組が疑われる原因になったとされる。だがこの話は前述した通り明治後期に井口新助の言を子息が聞き取ったものが初見で信憑性が低い。詳細は「諸史料問題」参照。

刀の鞘

現場に置き忘れてあった有力な物としてが挙げられる。これは確かに現場にあり、後日薩摩に匿われた御陵衛士の言で原田左之助のものであると摘され、新選組に容疑をかける物となった。しかし、ずっと後年になってから、今井信郎は「渡辺吉太郎の物」とし、渡辺篤は「世良敏郎の物」と言した。の物だったのかは未だ確定していない。

声明が無い事について

京都見廻組務で実行したのなら明がないのは何故なのかという疑問がある。これは長土の間を行き交っていた大物浪士である坂本を殺したことを表すれば三者、特に土佐の反発を招くためではないかと思われる。また、時間があれば幕府内部での捜が進んだかも知れないが、1ヶも経たないうちに王政復古の政変があり、更に1ヶ後には鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が壊滅(実行犯とされる者も大半が死亡)し、浪士暗殺事件の捜どころでなくなったのではないかと思われる。

偽証疑惑一 近江屋新助

近江屋新助こと井口新助は今井信郎言に触発されて当時の状況を回想したが、この中には他者の言や史料による裏付けの取れないものが多い。

く、「犯行後瓢亭の下駄が残されており、瓢亭は新選組隊士がよく使っていたことから新選組が疑われた。」「坂本トドメに喉を2度突かれていた。」「体には外傷がなかった。」

「瓢亭の下駄」というのは『坂本龍馬関係文書』にも引用され、新選組犯行説の根拠の一つになったが、これは犯行当時の史料では別の施設の下駄ということになっており、瓢亭という名称もこの時が初出である事から信憑性が低い。

喉を2回突かれていたと言っているが、その後助けをめてを出したとも言っている。普通喉を2度突かれてはなど出ないのではないか?綿の詰まった胴着を着ていたので体に外傷はなかったと言うが、田中顕の言では背中に切り付けられている。井口新助が何故このような疑わしい言をしたのかは不明である。

偽証疑惑二 菊屋峰吉

軍鶏の菊屋峰吉の言にも怪しい箇所がある。

屋に変装して新撰組屯所への討ち入り手引きをした」というのは相当に疑わしい。内容からは天満屋事件の事としか考えられないが、天満屋新選組の屯所などではなく、三浦太郎の泊まっていた旅宿に過ぎない。渡辺篤言では「13、4歳くらいの給仕が居たが年少のため見逃した」とあり、実は菊屋は犯行時近江屋に居たのではないかという説もある。何も出来ずに坂本中岡を見捨てたようなものだったため、軍鶏を買いに行っていたとをつき、更には自分も仇討ちに参加したと自己正当化しようとしたのではないかというわけである。が、確はない。

今井の量刑の軽さについて

今井信郎が受けた罰が禁固刑のみで、しかも1年半ほどで特赦を受けて解放されていることから、何らかの陰謀があったのではないかと言われることがある。

これについては前述したように新政府の発足後旧幕府の務は罪に問われない事になり、今井自身が犯行時見り役をしていただけだと言したためと考えられる。西郷隆盛が個人的に今井を助命したという話があるが、これについては「今井信郎口伝問題」参照。

判決封印

今井に対する判決は広く開されず、長期間人に触れることがなかった。ここに陰謀の臭いを嗅ぎ取ろうとする向きもあるが、後述する各種黒幕説の論考により陰謀性はいものと思われる。

では何が理由かというと、当初新政府では犯人新選組と看做しており、既にその線で一端決着が付いたものと判断していたため、改めて京都見廻組真犯人とした場合、近藤勇に理不尽な極刑をめた事や、個人的に恨みを持つ者達の圧力で刑罰に介入される事を恐れたのではないかと思われる。当時横井小楠大村益次郎政府重鎮が暗殺され、その実行犯に対する量刑で政府内部で分裂が見られたことがその傍となる。しかしこれはあくまでも推測で相は不明。

今井信郎と渡辺篤の証言の食い違い

実行犯と名乗って言を残したのは今井信郎渡辺篤(旧名渡辺一郎)の2人だが、両者の言に食い違いが見られることから信憑性について疑われることがある。

渡辺言にある世良敏郎なる人物が今井言には登場しない事。世良実在が確認出来なかった事。今井言ではを置き忘れたのは渡辺吉太郎としているが、渡辺篤言では世良である事。渡辺篤の残した記録今井記事との間に類似箇所がある事。これらにより、渡辺篤言は単なる功名心に過ぎないとする者も多い。

だが、渡辺が語った世良敏郎という人物の実在は近年になって確認された。慶応2年(1866年)2月京都役・岩田通徳が、世良五郎の養子に世良敏郎を願う幕府宛て書類が確認されており、京都見廻組に所属した実在の人物である事が分かっている。このため渡辺は少なくとも世良実在についてはをついていない事になる。

今井明治33年(1900年)の言で刺客の1人とされる渡辺吉太郎の事を桑名士としていたが、明治42年(1909年)の木史談会からの問い合わせに対しては「渡辺吉太郎江戸出身で桑名士ではない」と回答している。とすると桑名士とは何だったのかという事になるが、渡辺篤京都代から京都見廻組に移っており、当時の所代は桑名松平定敬である。その配下も桑名出身と今井が考えていたとすれば、桑名士の渡辺とは渡辺吉太郎ではなく渡辺篤だったのではないかという推論が出来る。

口書判決文原本の行方

明治3年(1870年)に兵部省・刑部省でとられた口書や判決文は現在東京大学史料編纂所所蔵になっているが、これは大正4年(1915年)に岩崎英重が発見した原本から写本したものであり、現在原本がどこに保存されているのかがよく分かっていない。そのため、この原本が見つかれば何か新しい発見があるのではないかと言われている。

黒幕存在説

上記のようにこの事件には不明な部分があり、実行犯とされる者の言にもあやふやな箇所があるため、それらを根拠とする黒幕が推理されることが多い。以下、巷間に流布される黒幕説について紹介する。

紀州藩黒幕説

いろは丸事件で多額の賠償金を払う羽になった紀州新選組依頼して坂本龍馬を殺させたとする説。これは動機という点においては充分で、援隊士達も当初この線を疑い、慶応3年(1867年)12月7日には天満屋事件を起こした。

しかし、このような重大な事件を起こしたのであれば何らかの形で文書や言が残るはずだが当の紀州側の史料にはそのような形跡が全く見られず、言もい。そのためこの説は現在では説の一つとしてされるだけで具体的な文書や言を挙げて支持する者は事実上存在しない。

土佐藩黒幕説

土佐参政の後藤象二郎、または土佐商会の岩崎弥太郎が仕組んで坂本龍馬を殺したという説。大政奉還の功績を独占するため、もしくはいろは丸の賠償金をせしめるためなどという理由が"根拠"として挙げられる。

一見もっともらしいように聞こえるが、果して後藤象二郎はそのような考えを持っていたのだろうか。後藤坂本龍馬と一緒に活動していた時期は坂本を非常に頼りにしており、土盟約の会見でも坂本中岡慎太郎の2人を同席させている。いろは丸事件でも坂本支援して巨額の賠償金を紀州から引き出しており、少なくとも表面上は関係は良好である。

また、坂本後藤に示したといわれる「船中八策」に基づいて土佐から大政奉還の建が行われたというのが通説であるが、その通説が正しいとしてそれを知っているのは坂本後藤だけではなく「船中八策」を起した長岡謙吉をはじめ、援隊士達は坂本との関係上当然知っていたはずであり、坂本1人を殺して後藤の手柄とするには情報が漏れすぎている。更に、大政奉還の建後藤の他土佐重臣の神山左多衛・寺福岡らと連署で行っており、後藤が「の功績」などと言える状況にはい。そもそも後藤がそのような下衆な考えを持ったというのも単なる憶測に過ぎない。坂本が死んだことで逆に後藤長との周旋に支障を来して王政復古政変後は長に導権を奪われる形になっており、坂本が死んで困ることがあっても得をするようなことは何も無いのである。

いろは丸の賠償金当てで後藤岩崎が共同で殺したという説もある。7万両という巨額の賠償金(実際はもっと少ないと思われる)にくらんだ2人は坂本を亡き者にして横合いから奪い取ったというわけだが、そうするならやはり文献なり言なりが必要なわけであり、後藤岩崎がそのような考えを持っていたとするのも現状ではただの推測で、賠償金や援隊の資産を接収したのも単なる結果論に過ぎないと思われる。それが偽している、それは土佐黒幕であることを隠すためだといった推測に推測を接ぎ木し続けるのはフィクションなら結構だが史実のレベルでは論外である。

長州藩黒幕説

武力討幕を薩摩以上に願っていた長州にとって坂本龍馬は邪魔な存在であり、始末する必要があったとする説。この説をする人物はあまりいないが、ある作家の説によると木戸孝允が神代(こうじろ)直人に命じて殺させたという。神代直人とは明治2年(1869年)に大村益次郎を襲撃して死に至らしめた刺客の1人である。この神代が坂本を殺したというのだが、そのためにはまず神代が慶応3年(1867年)11月15日京都に居る必要がある。その根拠が年不明の11月15日の神代の書状になるが、以下のようなかなり理矢理な解釈である。

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   /  _ノ  ヽ、_  \
  / o゚((●)) ((●))o \  神代直人は11月15に手紙を書いてるんだお…
  |     (__人__)    |  11月15日といえば坂本龍馬暗殺の日だお
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   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \  これは文面から見て慶応3年の11月15日に神代が京都た証拠だお…
  |     (__人__)    |  龍馬暗殺は大村益次郎暗殺とやり方もソックリだお…
  \     ` ⌒´     /

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   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   だから神代が犯人だお!
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バカボンのパパもびっくりするような解釈で、もちろん神代が京都に居たという拠には全然ならない説である。

そして以下本題に入る。

薩摩藩黒幕説

現在ネットテレビで最も強く喧伝されている説で、実行犯・京都見廻組黒幕薩摩というものも含む。

これについては、「大政奉還で徳川慶喜に与し」た坂本龍馬を疎んじる西郷隆盛、または大久保利通京都見廻組坂本の居場所をリークした。もしくは配下の中村次郎示して殺させた、といった間接・直接いずれかの形で関わったであろうとしており、これを支持する一般人はかなり多い。

だがこの説は重大な欠点が多く、検証することが不可能に近いような推理を元に唱えられることも多いため、歴史学者で支持する者は皆無に近い。以下、この説について論する。

大政奉還vs武力討幕問題

徳川慶喜が権力温存のために土佐の建に応じて大政奉還を実施。それによって予てより企図していた長の挙兵計画が頓挫し、討幕の密勅も沙汰止みとなった。大政奉還建を陰で支え幕府に寛容な姿勢を見せた坂本龍馬を看過出来なくなった薩摩坂本を死に至らしめた、というのが薩摩黒幕説の大まかな"根拠"である。

だが薩摩が大政奉還に反対だったかというと、的には反対どころかむしろ賛同しており、現に家老小松帯刀は土佐後藤象二郎や芸州広島将曹と一緒に建運動を行ない、摂政二条斉敬が拒んでいたのを邸に押しかけて強談判までしているのである。

また、坂本龍馬が「武力による変革を否定した平和主義者だった」というのも現代人のから見たある種の偏見ではないだろうか。坂本は大政奉還を実現するに当たり

徳川慶喜が大政奉還を受け入れなければ援隊を率いて路上で慶喜を殺し、自分も死ぬ

と極めて過な内容の書状を後藤に送っており、9月高知に戻った際には土佐の出兵上京を促すため1000挺の小銃を売りつけている。慶喜の去就についても

江戸銀座を奪えば将軍職などそのままでも良い

後藤宛ての書状に書いている。幕府の経済基盤を奪えば慶喜の地位などどうでも良いという考えは小御所会議における大久保利通岩倉具視の辞官納地に通じるものがあり、坂本したものが大久保岩倉とそう変わりない事を示している。更に坂本龍馬直筆とされる「新政府綱領八策」には

議に反対するものは断然征討する

と書いてある。前述のように薩摩は大政奉還には反対しておらず、反対しているのは会津・桑名・幕臣であり、彼らは大政再委任まで画策しているのである。

これらの内容からえるのは幕府や慶喜に対する温情というよりは幕府を止するという強い意志であり、そのためには和戦いずれにしろ対応可坂本龍馬独自の在り方なのである。

坂本龍馬を亡き者にすることで武力討幕が促進された」

という考えはその後の歴史を知っている現代人から見た結果論に過ぎないし、そもそも坂本は土佐の上士階級と連携して動いていたわけで、土佐の佐幕的な動きを止めたいのであれば坂本ではなく後藤象二郎福岡次といった重臣達や、山内容堂を始末しなくてはならないのではないか。坂本龍馬一人を消すことでそれらの動きが潰えるという事は有り得ず、生かしておくことで武力討幕が阻されるというのはそれこそ坂本に対する過大評価、贔屓の引き倒しというものである。

大政奉還について薩摩が苦々しく思っていたというのも語弊がある。薩摩内部では武力を用いようとした西郷隆盛大久保利通小松帯刀らとその動きに反発する佐幕高崎や門閥との間で割れており、決して一枚岩ではなかったのである。更に西郷大久保同志であった伊地知正治吉井幸輔は大政奉還に賛同し、武力を用いる事は得策ではないと言っている。そういった勢力を抱えている状況でもし坂本に刺客を放ったなどという事が発覚すれば内どころか土佐との間でも大問題に発展するのは必至であろう。そんなリスクを犯して刺客を差し向ける事自体が有り得ないのではないか。

大政奉還が武力を用いない平和革命路線で、坂本西郷大久保らと対立していたという話があるが、大政奉還後の政治的立場について両者がどう思っていたかという同時代史料は確認されていないため単なる憶測に過ぎない。それ以前にそもそも大政奉還とは本当に武力を用いない平和路線なのかについて疑問の余地がある。大政奉還について幕府側では賛成と反対に分かれており、徳川慶喜永井尚志などが幕臣、会津、桑名など多数の反対を押し切って実現に踏み切った経緯があり、その後も反対は大政再委任をめる活動をしているのである。その動きに対して坂本は前述したとおり「議に違う者は断然征討す」と『新政府綱領八策』に記している。どこをどう見たら武力を用いない平和路線だというのだろうか。武力を用いることを放棄していないのであれば薩摩長州とさしたる路線の違いはい。Wikipediaの近江屋事件記事にも

「この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるとする摘もある。」

とあるが全くその通りで、対立点ばかりが強調されているが見方を変えれば大政奉還によって弱体化した幕府を名実ともに滅ぼすための政変勃発武力討幕へのが開けたとも取れるのである。坂本龍馬が現代人の考えるような単調な平和主義者でない事は上記の通りである。

居場所リーク説

薩摩から京都見廻組坂本龍馬の居場所をリークしたというものであるが、推測に過ぎず何の拠もない。

そもそもこの説は寺田遭難の際すぐに潜先を見つけた幕府の捜網を甘く見積もりすぎている、もしくは無視している。坂本は居場所を転々としていたとは言え、幕臣の永井尚志の元へ堂々度々訪れており、永井の居た邸のすぐ近くの寺には佐々木只三郎が下宿していた。

この事からも当時坂本が隙だらけの状態であった事が分かる。つまり情報リークの必要性などいのである。必要性の有に関わらず情報リークされたというのなら推理ではなく示書なり何なり拠を示すのが筋であろう。更に言えば、情報リーク京都見廻組からバラされる可性についても説明の必要がある。「薩摩と見組との間で密約がかわされた」などという想話はお世辞にも上手な説明とは言えない。

薩摩藩と京都見廻組との関係

居場所リーク説に関連して、薩摩重臣の高崎佐々木只三郎が歌会で知り合いだった事が取り上げられる事がある。個人的なつながりがあったためこの関係を通じて京都見廻組に居場所がリークされたというのだが、この仮説も矛盾がある。薩摩黒幕説支持者のほぼ一致した論拠は「武力討幕と大政奉還の対立による坂本龍馬暗殺」であるが、高崎薩摩内の佐幕の有力者であり、西郷隆盛大久保利通小松帯刀らと対立していたのである。つまりこの論拠を前提とするのであれば、「幕府を手助けしようとしていた大政奉還」なる坂本を殺に追い込むような判断をするはずがないのである。

刺客差し向け説一.中村半次郎

西郷隆盛、もしくは大久保利通が「人り半次郎」こと中村次郎に命じて殺させたとする説。薬丸自顕流の達人である中村なら坂本龍馬を倒すのは簡単だというわけだが、仕損じた場合顔見知りであるため薩摩の手のものであることがすぐ発覚する事を考慮に入れていない。また、中村は当日日記をつけており、事件への関与について何も書いていない。書いていないから関与していないとは言わないが、この年中村赤松小三郎という人物を暗殺しており、この件について日記に堂々と記述している。赤松の事は書いて坂本の事は書かないというのは不自然ではないかと思うし、そういうあけすけな人物に要人暗殺を依頼する事も考えにくい。少なくとも坂本中岡と顔見知りが実行犯に含まれている事は有り得ない。付け加えると西郷11月15日には京都に居らず、大久保は当日京都に入ったばかりである。

刺客差し向け説二.御陵衛士

伊東甲子太郎率いる御陵衛士に命じて殺させたとする説。彼らは新選組から分離して薩摩護下にあったとされ、その縁で暗殺を命じられたという仮説で、実行させた後に彼らの独走のせいにさせて使い捨てにできるためミステリーの一種としては面い。だが実際には御陵衛士は薩摩とそれ程深い関係を持っていたわけではなく、薩摩から雇用され給与があったという説も信用できる資料からは確認できないとして否定されている。彼らが直接薩摩に接触を持ったのは伊東暗殺直後の事で、それまでは新選組の間者ではないかと疑われていた事は明治後期の元御陵衛士・阿部十郎言から分かっている。そういう連中にそんな重大な仕事を請け負わせるとは考えられない。

近江屋女中証言問題

法学者の蜷新(1873-1959)は著書『維新正観』において次のように述べている。

この日、坂本暗殺の報を聞き、土州人中島信行(援隊士)は現場に駆けつけ、旅館の女中に向かい、その折の様子を尋ねてみた。その女中ひそかに暗殺犯は逃げていく際に二、三の私語をしたが、それは確かに鹿児島弁の節があったと答えたと言われる。この事実は伝記の植村三郎が史料と文献とによる調の上で一時話されたものである。

だが、中島は当時長崎から大阪に向けて出航中であり、大阪着は21日でその日に坂本暗殺を伝え聞いた後に京都に向かったため、直後に現場に駆けつけたわけではない。現場で女中に聞くことはその後でも可だろうが、他に現場に駆けつけたものがそのような話を聞いたという言を残していない事、また蜷が根拠とする植村なる人物の史料も未だ発見されていないため、信憑性は現状いと言っていい。

諸藩史料問題

この事件とは関係の第三者的な記録として、薩摩の関与をうかがわせる記述がいくつかある。

十一月十七日(15日の誤り)河原町土佐屋敷、近江屋新助方に止宿罷り在土州中にて浪士頭の良

諸事何事も承知、名士の良
太郎(坂本龍馬)

右方(近江屋)え何者共分らず九人斗(ばかり)帯人這入、太郎に及び其節残り居候品、一本下駄弐足右下駄焼印之有り、一足は二軒中村屋印、一足は下河原・・・・・堂(噲々堂)印之有る段々承り様処、園町南側永楽方へ遊に罷越者三人の内、一人は土佐の良申立て、二人は佐土原の良申立て居候良にへ共、全くは当時白川に旅宿罷在坂本龍馬(中岡慎太郎の間違い)の徒党の者の良、相聞へ共、聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク。以上。十一月廿日。

(『尾雑記1 慶応三年の四』)

慶応三年十一月廿三日 鳥取記録 坂本龍馬中岡慎太郎の件筆記廿三 一、十一月十六日五ツ時分、河原町通四条上ル弐丁西側土州屋敷前但し同屋敷の横稲荷社の図子より行当りの醤油近江屋新助方に(中略)何者共不分八九人乱入、矢庭に二階へ抜を振て罷上り三人え切て懸り(中略)死骸夫々取片付処、跡に残し置品は下駄弐足印付、右足は中村屋、今一足は河原噲々堂(中略)恐らくは右切人は宮川の徒哉も難計趣にもに相聞由堅く口外を憚り申事。

(『鳥取慶応丁卯筆記』)

『尾雑記』『鳥取慶応丁卯筆記』共にいくつか類似点がある。刺客の人数は89人。刺客が去った後、もしくはが一本、下駄が二足残されており、「中村屋」「噲々(かいかい)堂」の印があった。『坂本龍馬関係文書』では「瓢亭」になっているが、これは後年に近江屋新助が語っているだけのため信憑性が低く、これら複数の史料で確認される「中村屋」「噲々堂」が正しいと思われる。

『尾雑記』では、「永楽方」という場所に遊びに行った人物の中に土佐士1名、佐土原士2名が居たとある。佐土原薩摩の支で、一見土佐と佐土原の者が関与した記述であるかのように見えるが、「確かなことはまだ分からず、なお探索の上巨細申し上げる」と結んでおり、下駄との関連性は特に書かれていない。

鳥取慶応丁卯筆記』では、「恐らくは右切人は宮川の徒哉も難計趣にもに相聞由堅く口外を憚り申事」とある。宮川とは土佐勤王党に所属し、江戸に出府した50人組の頭領を務めたこともある宮川五郎である。宮川は当時京都新選組といざこざを起こして捕らえられており、坂本中岡は事件当日宮川解放させるための話をしていたという説もある。宮川は土佐内では討幕と見られ、陸援隊士の討幕過激派達とつるんでいたため、彼らが坂本中岡を暗殺し、更にその示者が中村次郎だったのではないかとする説もある。

だが宮川は当時新選組に捕らえられており、土佐に身柄を引き渡されたのがちょうど15日で邸に抑留されていたため参加すること自体が不可能である。また陸援隊過激派坂本を暗殺するにしても何故陸援隊長中岡も殺されたのか全く合理的な説明がつかない。

次に、薩摩黒幕説で盛んに引用される『改訂肥後事史料』について見てみる。

土(土佐)後藤(二郎)などは、あくまでも正義尽力の由。つまり二十九日には土・越(越前)・尾(尾)・芸(芸州)は堪りかね、相離れ申すべく、その時は一戦などにては事済み申す間敷、何卒大に出傑いでて、極密のこの議を周旋あらまほし。坂本人なるべく

(『改訂肥後事史料』)

これは慶応3年(1867年)12月9日付の記述で、「薩摩の強硬論に土佐・越前・尾・芸州が辟易して離反しようとしており、戦争になるかも知れない。なにとぞ大の人傑に周旋してもらいたい」とした上で「坂本を殺したのも人である」と書いている。これは当時から薩摩が関与していたのではないかという噂話があった傍にはなるが、ではその噂話をどこのから、どういう経路で得た情報なのかについては何も記されていない。このような伝聞推定でしかない情報をもって薩摩が関与したとするのは困難であり、せいぜいそういう聞が存在した事以外には何一つとして分からないし、これを拠とするのであれば、更に他の史料による裏付けが必要であろう。

佐々木多門"密書"問題

援隊に所属した佐々木多門なる人物がいる。生年、経歴共にほとんど分かっておらず、名前記録に残されているのは『山内史料』の『関係文書』で、慶応4年(1868年)2月の項に

援隊士石田英吉、同長岡謙吉連署して佐渡伊豆鎮撫の命を稟けん事をに請ふ。讃岐小豆島同じ

という文書の署名者五人の内の一人にある。この佐々木という人物が注されたのは、在野史西尾近江屋子孫宅にて発見した書状に薩摩の関与をうかがわせるかのような以下の一文を見つけたためである。

人、姓名まで相分かり、是に付きの処置など種々愉快の義これあり、いずれ後便書取り申上ぐべきと存じ奉

西尾はこれを「薩摩犯人が見つかったための処置をしているのが愉快だと冷笑している」と解釈し、これをもって薩摩が関与した事の拠とした。

かしこの解釈は複数の研究者から反論されている。歴史作家桐野作人は『歴史読本』2006年7月号から9月号にかけてこの文書の全文を開して論考を発表した。それによるとこの文章を書いた佐々木多門なる人物は幕臣の臣筋の者で、当時援隊に属して京阪に居り、手紙の内容は王政復古の政変や自身の安否について身内に書き送ったものであって密書ではないとし、問題の箇所についても「才人、姓名まで相分かり」は当時疑われていた原田左之助の事と考えた方が自然で、「の処置など種々愉快の義これあり」というのも薩摩犯人で土佐に協力している事を愉快と書いたのだと論した。霊山歴史館学芸課長木村古、元・青山文庫名誉館長松岡司もほぼ同意見であり、この文書を薩摩関与の拠とするのは穿ち過ぎた牽強付会な解釈であろう。

今井信郎家口伝問題

巷間伝わる説で、今井信郎が捕縛され尋問を受けていた際の逸話として以下のようなものがある。

坂本龍馬暗殺という重大事件に関与したにも関わらず処刑されるどころか禁錮1年半で解放されたのは、西郷隆盛が個人的に助命運動を行ったためである」

この話の出処は今井信郎の子息である健並びに健の子息である幸が自の口伝として伝承・表したものであり、他にも西郷らしき後ろ姿の人物が中を訪れたとか、政府下野する際に今井を尋ねたとかいう話を遺している。これをもって「西郷今井を助命した」という事が事実であるかのような前提で語られることが多い。

だが、この口伝が事実かどうか史料によって裏付けが取られたことは一度もい。

西郷が実際に行なっていた事は、黒田清隆と共に榎本武揚をはじめとする榎本軍関係者や庄内に対する寛典論をしていた事であって、今井のみを個人的に助命しようとしたという事実は確認されていない。またこの話は今井信郎が存命中に表されたものではなく、禁固刑から解放という較的軽い刑罰で済んだ今井の勘違いか、子孫の拡大解釈に過ぎないのではないかと思われる。

また、今井が何故中に居ながら「西郷が自分を助けてくれた」と思ったのかの経緯も全く不明である。今井の孫、今井は著書の中で次のように書いている。

榎本大鳥ら"函館人"の助命嘆願に一番熱心だったのは周知のとおり薩摩黒田清隆であり、坊主頭にまでなってついに極刑論を沈黙させた話はあまりにも有名な話である。さらに西郷福沢諭吉らもそれを応援した。しかし信郎が伝町のに移されてから、彼一個人のために大層な助命運動に乗り出したのは西郷なのである。これは伝のひとしく告げるところである。ただし西郷と信郎とは、それまで一面識もないはずである。
(今井坂本龍馬った男』)

今井が伝町のに送還されたのは明治3年(1870年)の2月22日で、判決を申し渡されたのが同年9月20日になるわけだが、そもそも西郷明治2年(1869年)の中頃から明治3年(1870年)末まで故郷の鹿児島に滞在しており、大久保利通の説得を受けて東京に向かったのが同年12月28日のため、今井の尋問が行われ判決のあった同年にへ赴くことなど不可能なのだが、吹けば飛ぶような名の一個人が捕縛された情報を遠い鹿児島で知り、助命するよう示したとでも言うのだろうか?当時は鹿児島の参政や大参事に過ぎなかった西郷にそんな事を示する権限はいはずだが、今井は一体いつの話をしているのか?判決前か後なのか?判決前ならまず有り得ず、判決後に助命嘆願をするのは矛盾である。だいいちもし西郷が関与したならっ先に今井を始末するのが筋ではないのか。急に心が出たとか、かをおうとしたとか、取引をしたなどというがあるとしたら、それこそ検証不可能な推理に過ぎないし、説得力のある説には到底なりえないのである。

龍馬の死は不幸中の大幸である@西郷

西郷隆盛慶応3年(1867年)12月5日付けで田伝兵衛という人物に宛てた書状が残されている。そこには次のような一文があり、坂本龍馬の死を喜んでいるとの摘がある。

坂本龍馬石川之助(中岡慎太郎)の両人暗殺に遭い、土州に取りては不幸中の大幸と相成り、下の大慶に御座候

この部分だけ読むと一見「そーなのかー」と思えないこともない。

が、この一文には中略があり、文章の一部分だけ継ぎ接ぎしていかにも西郷が喜んでいるかのごとく喧伝する悪質な捏造解釈である。以下に中略部分を補足する。

坂本龍馬石川之助の両人暗殺に遭い、土邸大いに憤いたし、廿七日の御発は今一つ運漕御人数御繰り出し相成りて、御迎えに乗り戻り時機に御座候

後藤にも俗論よりはみを受け既に危うき場にも陥り次第にて、迚もの上は正義の党と結合申さずはでは致し方なき次第にて、小笠原の徒と相結び有志中とも一体の場合に立ち至り、土州に取りては不幸中の大幸と相成り、下の大慶に御座候

まず坂本中岡両名が暗殺された事で土佐邸が憤していると書いている。そして、後藤が土佐の俗論(佐幕)から批判を受けて危機に陥っているため、退助や小笠原八など土佐正義(討幕)と手を組まざるを得なくなった事は不幸中の大幸であるとしている。つまり「不幸中の大幸」とは後藤内の討幕と近づかなければならなくなった事を言っているのであり、坂本中岡の暗殺の事について言っているのではない。これは文章の一部分のみ抜と継ぎ接ぎをして関係な箇所を関連付けようとするかなり悪質な紹介の仕方であり、こういった紹介をする人々の意が疑われる。

元見廻組隊士が優遇された説

渡辺篤薩摩士の海江田信義と懇意で、維新奈良県警に出仕したと自身の文書に残しており、これが薩摩が関わった傍とする者もいる。

海江田のツテで機関に出仕した事が事実かどうかも不明だが、仮に事実だとしてそれがどうしたというのだろうか?何故それが坂本龍馬の暗殺一件と関連付けられるのか?そもそもその程度の事が特筆されるほどの優遇なのか?殺人どころか反乱という歴史的大事件を起こした榎本武揚大鳥圭介が後に政府顕官となったのはもが知るところである。そして榎本らの助命に一番熱心だったのは黒田清隆西郷隆盛薩摩士である。それらを「薩摩による反乱者への優遇」だとでも言うのだろうか?あるいは元新選組斎藤一は尊攘志士の取締をしていたにも関わらず明治時代には警官として出仕しているのだがこれも優遇なのか?援隊士達も疑った紀州士の三浦太郎は後に東京府知事に就任しているのだがこっちに触れないのは何故か?海江田渡辺の近江屋事件関与(関与したとして)を知っていたという根拠は何なのか?要は何ら関連性のない、どうでもいい瑣末な事を理やり関連付けようとする典的な牽強付会である。

最大の受益者が犯人であるという説

歴史推理小説ではない。

薩摩藩黒幕説について考える

ネットテレビで広まっている「薩摩京都見廻組坂本龍馬の居場所をリークした」という実行犯・京都見廻組黒幕薩摩説を考えてみる。以下が典的な情報リーク説の大意である。

薩摩の手の者が京都見廻組坂本龍馬の潜先の情報をもたらした。そして京都見廻組はその情報を元に坂本の住居(近江屋)に向かい殺した。薩摩京都見廻組の間には密約があり相が漏らされることはかった。実行犯が捕縛されても薩摩がいずれ減刑する事も約束していた。世間では京都見廻組ではなく新選組や紀州が臭いと見ていた。実際明治時代後半まで世間では犯人新選組と思われていた。実行犯の今井信郎が捕まったが西郷隆盛約束通り今井を助命した。このように明治維新とは平和革命した坂本龍馬を裏切った流血革命であった。

上記だけでも既にいくつもの矛盾が生じている。

まず坂本龍馬の居場所リークだが、前述したようにそんな事が必要なのかという疑問である。佐々木只三郎永井尚志の住居のすぐ側に住んでおり、坂本龍馬の居場所など幕府の捜網ですぐに探知できるのではないか。そういった視点がこの説の提唱者には欠けている、というより意図的に無視しているのではないか。

薩摩が見組に対して秘密を守るよう要請し、見組もこれを承諾した」というのも全く意味不明である。見組は会津に近しく、薩摩に対してしい敵意を持っていたであろうにも関わらずそんな約束に何故応じる必要があるのか。

「殺後に犯人が捕まっても薩摩がいずれ減刑してやるという保があった」とする論者もいるがこれも意味不明である。大政奉還後の政局がどうなるかは当時は全く不透明で、わずか23ヶ後には鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が崩壊し導の新政府立するなども想像だにしていない状況なのである。薩摩政治導権を握らない限りこんな約束ができるはずがないのだが、そういう矛盾は何も感じないのだろうか。

新選組や紀州に当時から疑惑が持たれていたのは事実で、天満屋事件の引き金にもなっている。であれば新選組に罪を被せたままであればいいはずだが、現実には明治2年(1869年)から明治3年(1870年)にかけての兵部省と刑部省の取調べによって元新選組隊士の大石鍬次郎相馬肇らが「京都見廻組が実行した」「今井信郎もその中にいた」と言している。何故その供述調書が残されたのか。また何故今井信郎の供述調書と判決文も残されたのか。陰謀論に言えば、そのような不利益な事実が漏洩する前に揉み消されていないのは何故なのか。大石小路事件が務ではなく私闘と判断されたため斬首されているがどうせなら今井もその供述調書も全て闇に葬り去れば済む話ではないか。この説をする者は概ね西郷隆盛腹黒さを強調するのだが、その腹黒さを何故この部分には適用せず、「西郷今井の暗殺の労をねぎらった」などと都合の良い解釈をするのか。暗ダースサイゴーが温情を示して生き人の今井を助命して生活も保してあげた?オマエハ・ナニヲ・イッテルンダ?腹黒ダースサイゴーはどこへフットンジャッタ・ノ・カ?

今井明治政府が取引した結果減刑された」という仮説もよく聞くがますますもって意味不明である。政治取引というのは普通ある程度拮抗する勢力同士や取引に足る材料のある者の間で行われるものだが、明治政府の前に全に力な一個人でしかない今井明治政府が取引などする必要性がい。口封じのためとするのであれば陰謀論者お得意の調子殺すれば済む話だろう。薩摩黒幕とするなら生き人である今井信郎を生かしておく利点、供述調書や判決文を残しておく利点とは一体なんなのか。そのような利点は全く存在せず、よって説明不能かつ意味不明かつ理解不能である。

これらの説の変形として、西郷ではなく大久保利通黒幕だったために西郷大久保うために今井を助命したとか、高知(土佐)の佐々木高行・斎藤利行(刑部大輔)との連携があったなど壮大な陰謀論を構築しようとする者も居るが、上記同様の理由により意味不明、理解不能である。なお坂本龍馬が現代人お好みの反戦平和主義者などではないことは再三述べた。

薩摩藩黒幕説・まとめ

以上により薩摩黒幕説は全に破綻していると結論付けられる。

黒幕不在説

では黒幕なのか?

京都見廻組とはあくまでも幕府の組織であり、示は京都役や京都守護職から出される。この場合通常の揮系統であり黒幕と呼べるような者は居ない事になる。そして以下の推論が導き出される。

幕府方高官の指示説

幕府方の高官から京都見廻組与頭・佐々木只三郎示があり、それに基づいて佐々木らが襲撃、殺したとする説。これは揮系統に矛盾がないため最も常識的な説である。今井信郎は供述の中で「御差図」があって事に及んだと言しており、「御差図」があったなら普通に考えれば疑わしいのは上役である京都役、もしくは京都守護職である。

明治3年(1870年)、今井信郎の供述を受けた刑部省は、元京都役の小笠原弥八郎に事情聴取したところ、小笠原

坂本龍馬召し捕り方差図に及び儀は論、それこれの始末一切相心得申さずに驚き入り次第に御座候

と答えた。これが認められ小笠原には特に咎めはかった。

京都役でないとするなら京都守護職ではないかと思われるが、これについていくつかの傍がある。元会津士・手代木直右衛門は死の直前に

「自分の実である佐々木只三郎坂本龍馬を殺した。示は某諸侯が出した」

と言い遺したのである。これを書き留めた伝記著者は桑名松平定敬ではないかとした。松平定敬は当時京都代で、寺田屋の一件で坂本を取り逃がした経緯があるため示を出した可性も考えられるが、手代木が元会津士である以上より疑わしいのは定敬の実である京都守護職・松平容保である。

また手代木は事件後に松平春嶽と面会しており、その際に大政奉還を批判している記録がある。

「(前略)畢竟肥後守在職然より存込居りは徳の政権は朝廷へ帰され、幕府にては王命を奉じ、順正の御政に相成りはば然るべしと存じ居りところ、度の御一挙にて年来の心も違却仕り、失望の極地に御座候。政権を一途に帰されは、恐れながら御至極の御儀存じ奉り得共、幕府御捨てなされては治り方附き申す間敷、議と申すも如何の運びに相成べき哉、更に見詰これし。議事院と申しても、外の制度通りには中々急に相運ぶべきとも存ぜられず、人材御登用も御美事には得共、如何程の人材出ても、何事も取扱れ申さず今日の御用には立ち申さず。是も旧幕府の御役人ならではとても行き申さず。又朝廷とても恐れながら御人材これなく、中々王政復古など思いもより申さず、彼を思い是を思いても旧幕の御制度より外に治の見込はこれなく(下略)」

(中根江『丁卯日記慶応三年十一月二十八日条)

幕府には坂本龍馬を殺す理由がないとする者も居るが、実際には会津・桑名はじめ幕府方には大政奉還を否定する勢力の方が多かったため、坂本が彼らに狙われたとしても不自然ではないのである。ただ、京都見廻組京都守護職の配下でなかったとする説もあるため、示があったかどうか断定はできない。

他の示者の可性については、勝海舟が旧幕臣の友人である太郎と話し合った際、榎本道章(対馬守)が示したのではないかという話を聞き、日記に残している。

太郎聞く。今井信郎糾問に付き、去る卯の暮、師において坂下暗殺は佐々木唯三郎はじめとして信郎などの輩乱入という。佐々木も上よりの図これあるに付き挙事いは榎本対馬か知るべからずと々。

(『日記明治三年四月十五日)

だが、その後この件について勝の日記には何も書いていない。そのため何を根拠として榎本道章の名が出たのかは不明。

佐々木只三郎の独断説

今井信郎は供述や後年の言において「暗殺ではなく、務による殺である」とも言っている。慶応2年(1866年)1月23日坂本寺田屋で捕り方を数人射殺しており、殺人犯のお尋ね者として殺したというのである。であれば以前から指名手配されていた事になり、上役からの「御差図」ではなく佐々木只三郎の独断で事に及んだという見方も可である。実際この事件について調べている人々の間では幕府方のかが示を出したか、そもそも佐々木への示者は居なかったのではないかというのが流であり、歴史学的には実行犯は京都見廻組であるという事で見解は一致している。「御差図」をしたのがなのかは見解が分かれるものの、その中にいわゆる長土を含めようとする歴史学者は皆無に近い。『尾雑記』『鳥取慶応丁卯筆記』『改訂肥後事史料』など数ある黒幕説の傍とされる聞伝聞の類には裏付けの取れる史料がいからである。

実行犯そして指示者

上記の推論により以下の者達を容疑者として挙げることが出来る。

実行犯

以上、全て京都見廻組所属。

指示者

歴史学から見た近江屋事件

幕末維新史の研究を行っている歴史学者・専門の間では陰謀論的な仮説は全く支持されていない。以下はその一例である。

井上勲(学習院大学教授

京都見廻組佐々木唯三郎とその配下が坂本龍馬の定宿を襲った」『日本の時代史20 開幕末の動乱』(吉川文館 2004年)

「幕府首部が政体の創設を望むならばそれほどに、この二人、とりわけ坂本龍馬を襲撃してはならなかった。けれども、佐々木唯三郎はこの二人を襲撃した。近江屋を襲ったのであるから、その対中岡よりも坂本であった。政治社会の両極分解が、この襲撃事件を生んだのである。幕府首部は、雄と協調して政体を創設することを望んでいた。けれども配下の者は、坂本をも敵とみて襲撃したのだった。ちなみに、佐々木唯三郎は旗本、その実会津手代木直右衛門である」『王政復古』(中新書 1991年)

松浦(元・山学院大学教授

「(暗殺について)見組による暗殺という事実は、もう動かない」『暗殺-明治維新の思想と行動-』(徳間書店1966年)

暗殺では長く新選組が疑われたけれども、明治三年の今井信郎の自供が転換点になって、見組が手を下したということに落ち着いて来た」『新選組』(岩波新書 2003年

青山忠正(佛教大学教授

坂本を暗殺する側にしても、彼が長土に結び付けようとした武力集団の力を警し、その媒介者として彼を危険視したのではなかったか」『佛教大学総合研究所紀要』8号(2001年

芳即正(鹿児島歴史資料センター明館史料編纂顧問)

坂本龍馬中岡慎太郎が幕府見組のに倒れた」(『島津久光明治維新』(新人物往来社 2002年

木村古(霊山歴史館学芸課長)

(今井信郎供述について)「たしかに口述書は、内容が理路整然としていて説得力があり、揮系統、襲撃時間、暗殺的については、刺客に加わったものでしか知りえないものであった。暗殺からわずか二年余りの経過にすぎず、信憑性がある。この口述書は暗殺に関し、見組説を有力なものにした」『暗殺の』(PHP新書 2007年)

松岡司(元・青山文庫名誉館長)

(坂本龍馬関係文書について)「「御図」はその言葉の意味から、老中か若年寄、あるいは見組という立場を考えて京都守護職あたりではないかというわけだ。 会津士である手代木直右衛門君の命をまたずに勝手なことをするとは考えにくく、その直右衛門は晩年、暗殺のことを知りながらこの話をひどくさけたという。 京都守護職はその直右衛門君、会津松平容保だった。結論らしきものがおのずと見えよう。」

暗殺についてはこのほか、土佐へ身柄をうつされた宮川五郎の一味といった内紛がらみの見方や、あるいは薩摩のしわざだろうといった情報がないでもない。しかしいずれも第三者的聞報告にすぎず、とてもそのまま採用はできない。」『定本坂本龍馬伝』(新人物往来社 2003年

以上のように、薩摩黒幕説をはじめとする各種陰謀論歴史学的には全く相手にされていないである。

その他の説

フリーメイソン説

坂本龍馬フリーメイソンである。これは"真実"である。

坂本のような一介の浪士が殿様である松平春嶽に謁見したり、雄の有力者達と渡りをつける事ができたのは不自然で、現代で言えば平社員が会社重役と対等に話し合っているようなものである。このような事は坂本背景に巨大な組織が存在する事を前提にしないと有り得ない。

坂本武器調達のために交渉を持った相手にトーマスブレーク・グラバーが居る。この男は長に武器を売りさばいた死の商人で、フリーメイソンである。その拠に現在ある長崎のグラバー邸にはフリーメイソンのシンボルである石柱が置かれている。これはグラバーフリーメイソンである事の決定的な拠である。

メイソンの力を存分に活用した坂本は、長同盟を締結させ討幕路線を決定づけたが、いつからかメイソンに反逆を試みるようになった。それが革命路線の大政奉還である。

坂本の裏切りを知ったメイソンは怒り、配下である薩摩と土佐に坂本殺を命じた。その刺客として差し向けられたのが中岡慎太郎である。

作家説

加治ショウイチ「という内容の小説を書いたら10万部売れた。笑いが止まりませんなハハッ

半分カズトシ「先の坂本龍馬暗殺特番exitにおいて、坂本がグラバーフリーメイソンの手先に過ぎぬと大衆に印付けることに成功した」

なかむー「『薩摩京都見廻組坂本龍馬の居場所をリークした』これが最近の有力説となりつつある」

三度狂気「あ、それボク大河ドラマ『新徴組!!』で採用しますた」

Mr.YEN経済学的に見ても討幕坂本龍馬を暗殺しようと思ったことは確実」

小林⑨三「薩摩の背後には更なる黒幕、グラバーフリーメイソンがいたという"真実"。このシナリオを遂行せねばなるまいが、Wikipediaのグラバーの記事には『石柱は昭和42年に寄贈された』とあるようだ」

加治ショウイチメイソンが黙っちゃいませんな」

リョウイチあそこにはが配下がいる。いずれ削除しよう。」

なかむー京都見廻組今井信郎?そのようなどこの馬の骨とも分からぬ名の輩にあっけなく殺されてしまった、などという退屈な"事実"は不要」

半分カズトシ「さよう。歴史の"真実"は作家(われら)が創る」

 

ガラッ

 

?「見つけたぞ!ジュラル星人!」

全員「だ、誰だ!?

泉研説

泉研チャージングGO!!

ジュラル星人1「お、お前は!」

ジュラル星人2「チャージマン研!

ジュラル星人め!今度という今度は許さないぞ!」

「うわーーーーーーっ!!!」


泉研坂本龍馬、あなたは殺されたんです!その頭の中に爆弾を仕掛けられて、今のあなたは人間ロボットなんだ!」

泉研坂本龍馬!お許しください!!」

カーーーーーン


泉研「可哀想な坂本龍馬・・・でもこうして明治維新が立に達成しました」

吉阪博士「きっとの向こうから見ていてくださっているよ」

泉研「ええ・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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近江屋事件

16 ななしのよっしん
2014/08/24(日) 00:15:40 ID: Tgmx0RVo0J
>>8
この事件においてはどうかと思うけど、示現流(特に薬丸自顕流)に関しては死体の様子で分かる事もある
この辺はWikipediaが詳しいよ
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17 ななしのよっしん
2015/11/08(日) 21:01:31 ID: zyjL/7jLaz
すまん幕末純情伝の映画思い出してワロタww
薩摩士が暗殺に来て、一斉に蜻蛉の構えでりかかろうとして鴨居を一斉に引っ掛けたシーン
まぁ、アレ映画の話で、薩摩黒幕説はありえへんと思うけど。
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18 ななしのよっしん
2017/01/10(火) 10:39:30 ID: 1h8D2RqVh/
途中までに読んでいたのに最後の最後でなんだこれは!
きっと真実うやむやにしようというジュラル星人の仕業に違いない!
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19 ななしのよっしん
2018/04/22(日) 22:44:25 ID: 6GGGZz8W7Z
要するに会津とかいう極右タカ国会議員が強硬論唱えた末に
「大政奉還に関わってるを見つけたら即ブチ殺せ」って
京都府警の上層部に圧力掛けてたというオチやろ
で、結局その強硬論唱えてた連中は錦の御旗を相手に武力衝突して壊滅と

慶喜がさっさと江戸に帰ったのも江戸城が即無血開城したのも、
タカパージする方針で既に大勢が決してたからと考えれば当然の流れやし
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20 ななしのよっしん
2018/05/28(月) 00:26:31 ID: uxHaKPCAhf
作家説は流石
作家説に名前が挙がった作家達は、売名の為に徒に地域対立を煽るのを
やめようね!(め)
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21 ななしのよっしん
2018/09/12(水) 13:36:45 ID: uxHaKPCAhf
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22 ななしのよっしん
2018/10/22(月) 19:18:10 ID: pwkO3MHS3x
人気なんてミーハー!と馬鹿にしつつもっ正面から敵に回したくないから気に入らない勢力に押し付けちまえというセコさを感じる
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23 ななしのよっしん
2020/12/23(水) 23:14:59 ID: PjfiHqXd+E
とっくに決着がついているのに
マスコミ作家話題作りのためにしつこく引っっていただけだし。
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24 ななしのよっしん
2021/11/24(水) 20:38:05 ID: 1lcIPcEkY6
結局はかが黒幕と言うよりは大政奉還反対京都守護職などの上役で、寺田遭難で隊員が殉職した見組双方にを殺する動機があり、見組という組織が暗殺を決めて佐々木只三郎揮し実行。松平容保等の上役は示こそしていないが実質黙認みたいな感じではないか。

間もなく見組はを追われは正式に脱浪士から新政府側の人間として法の護化に置かれるため、形式として脱浪士のままだったを暗殺するにはあのタイミングしかなかった。はまだ脱浪士であることを理由に土佐邸に匿ってもらうことを断り、その上で土佐面子を立てるため薩摩邸に入ることも断っている。なまじ故郷との縁が再びつながったがために命取りになってしまったのかもしれない。
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25 ななしのよっしん
2022/11/03(木) 23:54:23 ID: PjfiHqXd+E
本能寺の変陰謀論や東写楽の正体と同じで
歴史だといってさんざん引っってきたせいで
マスコミも通俗歴史ももう引っ込みがつかなくなっているだけ。
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