尼子氏(あまごし)とは、出雲国を中心に勢力を張った戦国大名である。
概要
尼子氏は宇多源氏の流れを組む家柄であり、京極高秀の三男・尼子高久が近江の尼子郷という土地に居を構えたことから尼子姓を名乗った。
高久の子供たちの代で近江尼子氏と出雲尼子氏に分かれ、長男・尼子詮久の流れをもつ近江尼子氏には浅井亮政の側室となる尼子馨庵を輩出している。一方次男・尼子持久は京極氏の分家という有力一門として出雲守護代として活動することとなり、これをよく補佐した。
………が、時は戦乱の世となり、持久の子・尼子清定は戦功をあげながら徐々に独立の動きを見せていくようになる。
当時の尼子氏は月山富田城を中心に勢力をもつ東出雲の一に過ぎず、西出雲には塩冶氏が京極氏の下で存在感を示していた。
4代・尼子経久が家督継承をすると、次第に室町幕府の命令を無視するようになり、これが原因で周囲と孤立してしまい出雲守護代の職を剥奪されている。だが、10数年後に出雲守護代の職に復帰すると、京極宗家の内紛により出雲・隠岐まで力が及ばないことを目に付けると、京極政経の死後に塩冶氏を圧迫して出雲第一の勢力となった。
このころには近隣の大内義興が足利義尹を擁して上洛した際はこれに従い京極氏から離れるが、勢力拡大にも余念はなかった。数年京に滞在した後は出雲に帰国して勢力拡大に努め、安芸国や備後国、石見国にも影響力を広げ、大内義興に匹敵する勢力に変貌した。
経久の孫・尼子晴久の代に全盛期を迎え、経久の代に手足となっていた新宮党を危険視してこれを討伐して滅ぼした。新宮党討伐と同時期に大内氏でクーデターが起きて大内義隆は自害。毛利元就が勢力拡大を始めた。そしてものの6年で大内領を併呑した毛利元就と対決するようになり、山陰の門番として元就の前に立ちはだかった。
しかし、晴久の子・尼子義久の代で本格的に毛利氏の侵攻が激しくなり、晴久の死後わずか6年で戦国大名・尼子氏は滅亡してしまった。当主・義久をはじめとした三兄弟は幽閉され、中国地方西部は毛利氏のものになるかと思われた。
だが、そこはそう簡単に黙ってはない。その後、尼子誠久の五男・尼子勝久を還俗させて再興軍として10年近く奮闘するも、上月城にてその野望は潰えてしまった。
=尼子氏略系図=
尼子高久 | ||||||||||||||||||
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尼子詮久 | 尼子持久 | |||||||||||||||||
(近江系) | (出雲系) | |||||||||||||||||
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尼子清定 | 山中幸久 | |||||||||||||||||
│ | (山中氏) | |||||||||||||||||
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尼子経久 | 尼子久幸 | |||||||||||||||||
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┌ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | + | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ─ | ┐ |
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尼子政久 | 尼子国久 | 塩冶興久 | ||||||||||||||||
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尼子晴久 | 尼子誠久 | 尼子豊久 | 尼子敬久 | 尼子清久 | ||||||||||||||
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├ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ├ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | │ | ||
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尼子義久 | 尼子倫久 | 尼子秀久 | 尼子氏久 | 尼子吉久 | 尼子季久 | 尼子常久 | 尼子勝久 | 尼子通久 | 加藤政貞 | |||||||||
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尼子智久 | 尼子元知 | 佐古秀高 |
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関連項目
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