概要
1942年5月24日、大洋軍対名古屋軍5回戦(後楽園球場)で生まれた世界記録。大洋の野口二郎、名古屋の西沢道夫両投手が粘り強く投げた結果、日没で引き分けとなった。両投手は完投し、野口は344球、西沢は311球を投げた。
現代のプロ野球では投手分業制が確立して、延長戦は12回までと定められており、メジャーリーグは延長無制限とはいえ、おそらくこれを上回る記録は現れないと思われる、プロ野球黎明期に生まれた大記録である。
試合前
戦前のプロ野球(職業野球)は球場も少なく試合時間も短かったため、この日はトリプルヘッダーが組まれ、第一試合は名古屋軍対朝日軍、第二試合は巨人軍対大洋軍、そして第三戦にこの大洋軍対名古屋軍の試合が組まれた。よって、大洋軍と名古屋軍にとっては第三戦はこの日2試合目となり、大洋軍に至っては前の試合の25分後にこの試合が行われるというハードスケジュールであった。
なお、名古屋軍は現在の中日ドラゴンズの前身である。大洋軍は大洋ホエールズとは全く関係なく、翌1943年に親会社が西鉄に移り西鉄軍となる。だが野球連盟が1944年限りで一時活動を休止する前、1943年シーズンオフにチームは解散。その為、戦後に連盟復帰が認められず、西鉄は1950年に新たなプロ野球チーム・西鉄クリッパーズを結成し、現在の埼玉西武ライオンズに至っている。
名古屋軍の先発は西島道夫、21歳。後に打者転向して初代ミスタードラゴンズと称される事になる大選手だが、この頃はそこまで特別目立った成績は残していない。一方の大洋軍の先発は野口二郎、23歳。全員プロ野球選手の野口四兄弟の次男で、この年40勝(うち完封19、これは2022年現在でもNPB記録)を記録するエースで通称は「鉄腕」、かつ4番も務める大選手である(徴兵による選手不足もあり、この年105試合のうち48試合で野口が先発している)。ただ、21日、23日と2試合連続で完封勝利をあげていて、これで「明日は登板しないよね?」と球団マネージャーに確認すると巨人軍の川上哲治としこたま酒を飲んだが、先発オーダーに自分の名前がある事に驚愕、二日酔い気味の中で登板することになる。
当時は太平洋戦争の真っただ中で、野球連盟も軍の圧力を受けており「引き分けがあるなどけしからん」「引き分けでは戦意高揚にならない」等と言われていたそうで、その結果この試合が生まれることになった。また、戦時中の為ボールの質が悪く、投高打低になり易かったという点もある(この1942年シーズンのリーグ通算防御率は1.77で、2022年現在もNPB記録である。対する首位打者の呉昌征の打率はたったの.286で、これもワースト記録であり3割未満なのはこれが唯一である)。
オーダー
名古屋 | ||||
守備 | 名前 | 打数 | 安打 | 打点 |
(二) | 石丸藤吉 | 12 | 0 | 0 |
(遊) | 木村進一 | 11 | 2 | 0 |
(中) | 桝嘉一 | 10 | 2 | 0 |
(右) | 飯塚誠(小鶴誠) | 11 | 1 | 0 |
(捕) | 古川清蔵 | 11 | 2 | 2 |
(左) | 吉田猪佐喜 | 11 | 2 | 0 |
(一) | 野口正明 | 11 | 1 | 0 |
(投) | 西沢道夫 | 11 | 2 | 0 |
(三) | 芳賀直一 | 11 | 1 | 1 |
大洋 | ||||
守備 | 名前 | 打数 | 安打 | 打点 |
(三) | 中村信一 | 11 | 2 | 0 |
(遊) | 濃人渉 | 9 | 1 | 0 |
(右) | 浅岡三郎 | 10 | 2 | 2 |
(投) | 野口二郎 | 12 | 1 | 0 |
(一) | 野口明 | 10 | 1 | 0 |
(左) | 村松長太郎 | 11 | 2 | 0 |
(二) | 山川喜作 | 2 | 0 | 0 |
二 | 苅田久徳 | 11 | 1 | 1 |
(捕) | 佐藤武夫 | 11 | 2 | 1 |
(中) | 織部由三 | 10 | 1 | 0 |
スコアボード
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名古屋 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | |
大洋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | |
チーム | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | |
名古屋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
大洋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
チーム | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | R | H | E |
名古屋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 13 | 5 |
大洋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 15 | 6 |
試合展開
二日酔いの野口は序盤不安定で、名古屋に2点の先制を許してしまう。だが、回を追うごとに本調子へと戻してゆき、それ以上の失点を許さない。6回裏、大洋の浅岡が2点タイムリーヒットを放ち同点。続く7回にも送りバントがエラーになって2点を追加し4-2と大洋がリードする。9回表、野口は粘り強く投げて二死二塁までこぎつけるが、名古屋の古川が起死回生の2ランホームランを放って同点、試合は延長戦に突入する。
その後は両チームともゼロ行進。10回から18回の間で、両チームのヒットは共に3本止まりだった。延長25回で遂にイニングが日本記録に並ぶ。なおその前の記録は1933年夏の甲子園準決勝、明石中対中京商。奇しくもその試合で勝利した中京商のキャッチャーは野口二郎の兄の野口明で、この試合にもファーストとして出場していたため、プロ・アマ両方の延長戦最大記録を経験することになった。
延長26回でメジャーリーグの記録にも並んだこの回、名古屋は二死一塁の状況でピッチャー西沢が長打を放つが、外野からの中継を受けたセカンド苅田久徳の好送球でランナーは本塁憤死に終わる。この苅田はプロ野球黎明期屈指の名セカンドとして有名な人物で、投は沢村栄治、打は景浦将、守は苅田久徳と評されるほどの名選手なので、興味を持っていただければ当該項目を参照していただきたい。
世界記録更新となった延長27回裏、大洋のキャッチャー佐藤が2アウトからツーベースを放ちサヨナラのチャンスが訪れる(普通の打者ならスリーベースの当たりだったらしいが、佐藤が鈍足の為二塁で止まった)。続くラストバッターの織部が左中間へヒット。遂に勝ったと確信した大洋ナインはホームベースで佐藤を迎えようとベンチを飛び出すが、三塁を回ったところで佐藤が転んでしまう。必死で三塁に戻ろうとするがタッチアウト。チェンジとなった。皆疲労困憊だったのだ。
延長28回を終えたところで日没コールドで引き分け、試合終了。この時、主審はまだ数イニング試合をやれると思っていたそうだが、野球連盟から「28回で終わりなさい」というメモを渡された為、試合終了と判断されたという。試合時間は当時としては異例の3時間47分。現代から見るとそれほど長いようには見えず、時代を感じさせる。
名古屋の西沢は311球を投げて被安打15、奪三振6、四死球6、自責点3。大洋の野口は344球を投げて被安打13、奪三振13、四死球6、自責点2であった。
関連項目
- 0
- 0pt