濃人渉単語

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濃人渉(のうにん わたる)とは、元プロ野球選手監督のことである。故人

概要

1915年3月22日生まれ。広島県広島市出身。アメリカハワイ自動車修理店や商店を営んでいたが、の世話のために広島に戻り、この地で渉を生み育てていった。11歳の頃に地元の広陵中学校(現:広陵高等学校)が春の甲子園大会を制覇。このときのエース投手が近所に住んでいたことから強い憧れを抱き、真剣野球に取り組み始めた。

広陵中学校に進学。1929年にはの招待もあり、ハワイ遠征を経験している。1932年ショートレギュラーとして春の甲子園大会に出場したが、藤村富美男擁する大正中学に敗れている。

1933年ハワイへと渡ったものの、現地の暑さに適応できず帰広島専売局(現:JT)に入社。

1936年岡田一郎に誘われ、名古屋金鯱軍の契約1号選手として入団。球団創設メンバーひとりとして活躍し強肩のショートとして鳴らしていた。

1937年シーズン途中、陸軍に招集され砲兵隊の一員として活動。中国・広東での戦いの際には、大砲爆発に巻き込まれてしまい、7人いた部隊員は濃人を除いて死亡、濃人自身も左半身に破片を浴び負傷したという。

1939年金鯱軍に復帰。1940年には100試合に出場し、キャリアハイとなる89安打、4本塁打記録している。1941年には大洋軍(西鉄軍)へ移籍している。

1943年西鉄軍解散に伴い、広島県に帰郷。ハワイから帰していたが営む製材店で働いていたが、1945年8月6日原爆投下により被爆。爆心地からわずか2キロほどの場所であったが、崩れたトタン屋根の下敷きになり、奇跡的にも大きな怪はなかった。

終戦1946年社会人野球チーム広島園でプレー。その後、リーググリーンバーグ(結城ブレーブス)でのプレーを経て、1948年金星スターズに入団。ただ、人員過剰であったため、同年限りで現役を退いている。

引退後、導者に転身。社会人野球の日二瀬の選手兼任監督に就任[1]し、スパルタ導で全の強チームを鍛え上げていき多くのプロ選手や導者を輩出、その導力から「濃人学校」と呼ばれた。育てた選手の中には、江藤慎一古葉竹識吉田勝豊らがいた。1959年に退任。

1960年中日ドラゴンズ二軍監督に就任し、1961年に一軍監督に昇格。社会人野球時代と同様にスパルタ導で挑み、1年には首位に1ゲーム差の2位と結果を残した。ただ、社会人野球時代同様の根性論ともいえるスパルタ導は力選手やフロントとの対立を招き、井上登森徹吉沢岳夫らと衝突。対立していった選手たちをトレードで放出し、新人の権藤博や教え子の江藤を重用して戦ったもの、2年は前年より順位を落とした3位に終わり、同年限りで解任となってしまった。

その後、権藤に頼り切った投手起用を反省点とし、導者として勉強するためにアメリカへ渡り、投球技術やメジャーリーグ確立された先発ローテーションの文化投手分業制の考えを学んでいった。

1964年東京オリオンズロッテオリオンズ)のヘッドコーチに就任し、1967年シーズン途中から監督に就任。1970年には、投では成田文男木樽正明小山正明先発ローら、打では榎本喜八ジョージ・アルトマン山崎裕之らにシーズン途中加入の江藤慎一、新人の有藤通世らの活躍もあり、パ・リーグを独走状態で制覇した。しかし、1971年阪急ブレーブス戦にてハーフスイングの判定を巡り猛抗議をし、この試合試合としてしまったことからシーズン途中に二軍監督に降格。同年限りで退任となってしまった。

監督退任後はロッテスカウトを務めた後、地元広島県解説者として活動。1975年広島カープが初めて地元で優勝を決めた際には、解説席でをすすりながらコメントするなど戦争からの復徴として希望を与えたチームに感していたようである。ちなみにこのときの広島監督は教え子の古葉竹識であった。

199010月10日、結腸がんのため死去。享年75歳

人物・エピソード

選手としては強肩を武器に活躍した堅守のショート

導者としては中日監督時代までは「選手全員に根性を植え付けたい」と語り、「人が100やるなら200、すべての練習を倍やれ」肩の痛みを訴える投手に「たるんどる、命までは取られやせん」根性を強いるスパルタ式の導法であった。中日退団後はアメリカで最先端の野球理論を学び直し、根性論の押しつけのような導は少なくなり、粗さの立つ新人の有藤通世を辛抱強く起用し、ミスした選手を励ましたりするなど多少の厳しさを残しつつも選手に寄り添うような姿勢に変わっていったという。木樽正明からは「物静かで穏やかな人」と語られている。

また、中日監督時代には先発完投義という考えであったことから、ルーキー権藤博を酷使。130試合中なんと69試合権藤登板させ、うち44試合先発させ32完投ととにかく投げさせまくり、の日以外は毎日権藤が投げてると権藤・権藤・雨・権藤とまで呼ばれてしまう起用を行い、結果として権藤の選手生命は短命に終わってしまった。権藤は自身の経験を活かし、投手の肩は消耗品」という考えのもと、過度な投げ込みや連投を禁じていた。

出身は広島県だが、ハワイで暮らしていた父親が渉の誕生を知ったハワイで出生届を出したため、日両国籍を有していた。

晩年はファストフードにハマったが一人で店に入るのは恥ずかしいと孫を誘って度々チェーン店を訪れていたという。

通算成績

打撃成績

通算:8年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 571 2472 2059 212 436 11 163 73 67 4 335 7 173 --- .212 .324

監督成績

通算:7年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 813 442 343 28 .563 Aクラス6回、Bクラス1回

関連項目

脚注

  1. *1954年から監督専任

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濃人渉

1 ななしのよっしん
2025/08/23(土) 07:38:33 ID: Yy7E4NGKWA
権藤を酷使した監督として有名になってしまったせいでプロアマの溝を埋めることに尽力したりオリオンズを優勝に導いた功績が忘れられがちな人
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