- プロ野球選手一覧 > 濃人渉
濃人渉(のうにん わたる)とは、元プロ野球選手・監督のことである。故人。
概要
| OB | |
|---|---|
| 濃人渉 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県広島市 |
| 生年月日 | 1915年3月22日 |
| 没年月日 | 1990年10月10日 |
| 身長 体重 |
167cm 56kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1936年 |
| 引退 | 1948年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1915年3月22日生まれ。広島県広島市出身。父はアメリカ・ハワイ島で自動車の修理店や商店を営んでいたが、母は姑の世話のために広島に戻り、この地で渉を生み育てていった。11歳の頃に地元の広陵中学校(現:広陵高等学校)が春の甲子園大会を制覇。このときのエース投手が近所に住んでいたことから強い憧れを抱き、真剣に野球に取り組み始めた。
広陵中学校に進学。1929年には父の招待もあり、ハワイ遠征を経験している。1932年、ショートのレギュラーとして春の甲子園大会に出場したが、藤村富美男擁する大正中学に敗れている。
1933年、ハワイへと渡ったものの、現地の暑さに適応できず帰国。広島専売局(現:JT)に入社。
1936年、岡田源一郎に誘われ、名古屋金鯱軍の契約第1号選手として入団。球団創設メンバーのひとりとして活躍し強肩のショートとして鳴らしていた。
1937年シーズン途中、陸軍に招集され砲兵隊の一員として活動。中国・広東での戦いの際には、大砲の爆発に巻き込まれてしまい、7人いた部隊員は濃人を除いて死亡、濃人自身も左半身に破片を浴び負傷したという。
1939年、金鯱軍に復帰。1940年には100試合に出場し、キャリアハイとなる89安打、4本塁打を記録している。1941年には大洋軍(西鉄軍)へ移籍している。
1943年、西鉄軍解散に伴い、広島県に帰郷。ハワイから帰国していた父が営む製材店で働いていたが、1945年8月6日、原爆投下により被爆。爆心地からわずか2キロほどの場所であったが、崩れたトタン屋根の下敷きになり、奇跡的にも大きな怪我はなかった。
終戦後1946年に社会人野球チーム・広島鯉城園でプレー。その後、国民リーグのグリーンバーグ(結城ブレーブス)でのプレーを経て、1948年に金星スターズに入団。ただ、人員過剰であったため、同年限りで現役を退いている。
引退後、指導者に転身。社会人野球の日鉄二瀬の選手兼任監督に就任[1]し、スパルタ指導で全国屈指の強豪にチームを鍛え上げていき多くのプロ選手や指導者を輩出、その指導力から「濃人学校」と呼ばれた。育てた選手の中には、江藤慎一や古葉竹識、吉田勝豊らがいた。1959年に退任。
1960年、中日ドラゴンズの二軍監督に就任し、1961年に一軍監督に昇格。社会人野球時代と同様にスパルタ指導で挑み、1年目には首位に1ゲーム差の2位と結果を残した。ただ、社会人野球時代同様の根性論ともいえるスパルタ指導は主力選手やフロントとの対立を招き、井上登や森徹、吉沢岳夫らと衝突。対立していった選手たちをトレードで放出し、新人の権藤博や教え子の江藤を重用して戦ったもの、2年目は前年より順位を落とした3位に終わり、同年限りで解任となってしまった。
その後、権藤に頼り切った投手起用を反省点とし、指導者として勉強するためにアメリカへ渡り、投球技術やメジャーリーグで確立された先発ローテーションの文化、投手分業制の考えを学んでいった。
1964年、東京オリオンズ(ロッテオリオンズ)のヘッドコーチに就任し、1967年シーズン途中から監督に就任。1970年には、投では成田文男、木樽正明、小山正明ら先発ローテ陣ら、打では榎本喜八、ジョージ・アルトマン、山崎裕之らにシーズン途中加入の江藤慎一、新人の有藤通世らの活躍もあり、パ・リーグを独走状態で制覇した。しかし、1971年、阪急ブレーブス戦にてハーフスイングの判定を巡り猛抗議をし、この試合を没収試合としてしまったことからシーズン途中に二軍監督に降格。同年限りで退任となってしまった。
監督退任後はロッテでスカウトを務めた後、地元広島県で解説者として活動。1975年に広島カープが初めて地元で優勝を決めた際には、解説席で鼻をすすりながらコメントするなど戦争からの復興の象徴として希望を与えたチームに感涙していたようである。ちなみにこのときの広島の監督は教え子の古葉竹識であった。
人物・エピソード
指導者としては中日の監督時代までは「選手全員に根性を植え付けたい」と語り、「人が100やるなら200、すべての練習を倍やれ」肩の痛みを訴える投手に「たるんどる、命までは取られやせん」根性を強いるスパルタ式の指導法であった。中日退団後はアメリカで最先端の野球理論を学び直し、根性論の押しつけのような指導は少なくなり、粗さの目立つ新人の有藤通世を辛抱強く起用し、ミスした選手を励ましたりするなど多少の厳しさを残しつつも選手に寄り添うような姿勢に変わっていったという。木樽正明からは「物静かで穏やかな人」と語られている。
また、中日監督時代には先発完投主義という考えであったことから、ルーキーの権藤博を酷使。全130試合中なんと69試合で権藤を登板させ、うち44試合で先発させ32完投ととにかく投げさせまくり、雨の日以外は毎日権藤が投げてると「権藤・権藤・雨・権藤」とまで呼ばれてしまう起用を行い、結果として権藤の選手生命は短命に終わってしまった。権藤は自身の経験を活かし、「投手の肩は消耗品」という考えのもと、過度な投げ込みや連投を禁じていた。
出身は広島県だが、ハワイで暮らしていた父親が渉の誕生を知った父がハワイで出生届を出したため、日米両国の国籍を有していた。
晩年はファストフードにハマったが一人で店に入るのは恥ずかしいと孫を誘って度々チェーン店を訪れていたという。
通算成績
打撃成績
| 通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 571 | 2472 | 2059 | 212 | 436 | 11 | 163 | 73 | 67 | 4 | 335 | 7 | 173 | --- | .212 | .324 |
監督成績
| 通算:7年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 813 | 442 | 343 | 28 | .563 | Aクラス6回、Bクラス1回 |
関連項目
脚注
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