- プロ野球選手一覧 > 毒島章一
毒島章一(ぶすじま しょういち)とは、元プロ野球選手である。
概要
| OB | |
|---|---|
| 毒島章一 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 群馬県桐生市 |
| 生年月日 | 1936年1月14日 |
| 没年月日 | 2023年5月14日 |
| 身長 体重 |
179cm 72kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投左打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1954年 |
| 引退 | 1971年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
桐生高等学校に進学。ここで左打ちに転向している。1年時には控えの投手として夏の甲子園大会に出場、3年春には関東大会優勝、3年夏には県大会でノーヒットノーランも達成しているが、同時に右肘を負傷している。
卒業後の進路として立教大進学や地元の先輩が多く所属していた社会人チーム富士重工に入社を検討していたが、桐生高校の監督が東急フライヤーズの代表と知人であったこともあり、東急に入団することが決まった。入団直後に外野手に転向している。
入団初年度の1954年、開幕5試合目に故障者が出たことからサードとしてプロ初出場。ただ、ほとんど経験のなかったサードということもありミスが続き、以降は外野手で起用される。このチャンスをものにして外野のレギュラーに定着すると、ルーキーながら103試合に出場、打率.264をマーク。4番打者として起用されることもあった。
1955年、規定打席に到達し打率は.298をマークと前年より上回った。また、毒島の代名詞とも言える三塁打も12本記録している。
1957年、6月の近鉄パールス戦でサイクル安打を達成するなど打撃好調。打率.307(パ・リーグ3位)、ベストナインにも選出された。この他、15捕殺を記録するなど守備面でも高い貢献度を見せ、リーグ最多の13三塁打を記録。以後、1961年、1962年、1966年にも最多三塁打を記録している。
1958年、中西太とシーズン通して首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.306をマークし、2年連続でベストナインに選出。
1962年、主に3番打者として起用され、打率.288、12本塁打、77打点、27盗塁をマークするなど活躍し、チームの優勝に貢献。日本シリーズではチームは日本一に輝いたが、毒島自身は阪神投手陣の攻めに苦しんだ。
1963年からは故障などもありやや低調なパフォーマンスのシーズンが続いたが、1966年には打率.298、44打点、リーグ最多の9三塁打をマークするなど復調し、3度目のベストナインにも選出された。
1971年、肩の故障が悪化し4試合の出場にとどまり、同シーズン限りで現役を引退。2000本安打まであと23安打を残しての引退であった。
引退後は東映・日拓、西武ライオンズでコーチを務めた後、西武のスカウトに就任。「寝業師」と呼ばれた根本陸夫の腹心として活動し、巨人に入団が決まりかけていた松沼博久・松沼雅之の兄弟と交渉し獲得するなど手腕を発揮した。この他、解説者として活動していた時期もあった。
人物・エピソード
卓越した打撃センスと高い走力、瞬時の判断能力で三塁打を量産した「ミスターフライヤーズ」。走攻守三拍子を高いレベルで持ち合わせていた。
連続打席無併殺打・通算三塁打はともにNPB歴代2位の記録である。
気性の荒い選手が多く『駒沢の暴れん坊』と呼ばれていた東映のメンバーの中でも温厚な人柄であり、長らく主将を務めていた。
通算成績
打撃成績
| 通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 2056 | 7945 | 7148 | 865 | 1977 | 122 | 688 | 191 | 80 | 47 | 635 | 30 | 683 | 64 | .277 | .338 |
獲得タイトル・記録
関連項目
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