洞松院(とうしょういん、1460/1461/1463? ~ 没年不詳)とは、戦国時代の女性である。
概要
戦国時代初期に播磨の名門・赤松家の実権を握った。今川家の寿桂尼と並び称される女戦国大名である。約20年に渡り、播磨・備前・美作の三ヶ国を支配した。
生涯
赤松家へ嫁ぐ
応仁の乱の東軍大将で、室町幕府管領であった細川勝元の娘。実名は「めし」。魔法半将軍・細川政元の異母姉である。
だが……女性に対しこれは大変申し上げにくいのだが……容姿が極めて残念だったため(政略結婚の駒にも使えないと思われたのか)早くに出家して尼としての生活を送っていた。
そうして時を過ごして1493年。勝元と同じく応仁の乱で東軍に属していた播磨の赤松政則は妻に先立たれ独り身となっていた。これに政元が目をつけ、姉・洞松院を還俗させ、後妻として嫁入りすることとなった。洞松院はこの時既に30歳を超えており、この時代としては異例の年齢での婚姻である。実はこれには裏があり、この婚姻が成立した僅か2日後、政元は戦国時代のスタート地点と言えるクーデター・明応の政変を起こす。つまり赤松氏を自陣営に引き込むための、あからさまな政略結婚だったのだ。
このとき政則は堺に陣を張っていたのだが、この婚姻に対して「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」という落首(風刺する唄)が京都に貼られたという……。女性に対して鬼瓦という表現が用いられるとは、相当ブサイク(直球)で有名だったのだろうか……。
だが、容姿と能力は全く関係ない。勝元・政元が幕府で多大なる政治能力を発揮したように、彼女にも名門・細川京兆家の遺伝子が流れていたのである。
赤松家中の混乱
赤松政則との間には女子ひとりを儲けた、名を「小めし」という。しかし政則は跡継ぎの男子がないまま1496年に急死してしまった。(庶子はいたが分家の養子にしてしまっていた。赤松村秀である)
この為、「小めし」の婿養子として分家・七条家から赤松義村が迎えられ当主となった。だが、義村はまだ年若く(生年の説にかなり幅があるので詳細な年齢は不明)、後見人が必要であった。
この頃の赤松家中は、かつて一時滅亡から大名復帰へと長く赤松家に尽くしてきた老臣・浦上則宗がおり、政治の実権を握っていた。だがそれに反発した浦上村国が別の後継ぎを担いで挙兵し、赤松家は分裂の危機に立たされる。そこに別の重臣・別所則治が第三勢力として参戦し「義村が成人するまで洞松院が政治を行う」案を出した。一悶着あったが最終的に当主は義村という事で決着し、別所の案が採用されたのか、これ以降は洞松院が文書の発行を行うようになった。
女戦国大名へ
浦上則宗は1502年に死去。これ以降は周囲の支持も取り付け、弟・細川政元の存在もあり、赤松義村の後見人として本格的に政治を執り行う、播磨・備前・美作3国を支配する女戦国大名となった。以後20年、洞松院名義の署名がなされた文書が多数発行され、現存している。
1507年、弟・細川政元が暗殺され、養子であった細川澄元と細川高国が細川京兆家の家督および将軍候補を巡って分裂して争う「両細川の乱」が始まる。洞松院は足利義澄&細川澄元の勢力を支持し、義澄の息子(のちの13代将軍・足利義晴)を保護している。しかし1511年の船岡山合戦で澄元勢は大内義興ら率いる高国勢の前に完敗。赤松軍もこの戦いに参加していたが、敗戦後、洞松院は自ら高国の陣へ赴いて和睦を結んだ。完全に赤松家のトップとして行動していることが分かる。
だがやがて義村は成人すると、洞松院の存在を疎んじるようになったといわれる。1517年くらいまでは洞松院発行の文書が存在するとされるので、その頃までは洞松院が赤松家の実質的当主として君臨していたと思われる。当時の赤松家は、洞松院が後見する義村を重臣・浦上村宗と小寺則職が補佐する形で政治が行われていた。が、大名権力強化をはかる義村に対し、浦上村宗が反発し挙兵する。義村は討伐に向かうも、二度に渡って敗北した末に幽閉され、最後は村宗の刺客により暗殺された。こうして8歳の赤松晴政が後継になるが、村宗の傀儡でしかなかった。
これらの動きについて、洞松院は村宗を支持していたと言われており、彼女という後ろ盾が義村暗殺へと繋がっている可能性もある。だが洞松院の没年は不明のため、想像の域を出ない(晴政の代まで生きていたとの説もある)。そして洞松院の姿が見えなくなった後の赤松家は浦上村宗によって牛耳られ、1531年の大物崩れで晴政の裏切りによって村宗が討死するまでそれが続く。そして浦上、別所、小寺といった家臣たちが次第に独立性を強めていき、赤松家は凋落の一途を辿るのである。
関連項目
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