赤松政則(あかまつ・まさのり 1455~1496)とは、播磨国の戦国武将である。「赤松家中興の英主」と呼ばれている。赤松家9代当主。赤松時勝(性存/性尊)の子。子に赤松村秀、養子に赤松義村、赤松真龍がいる。
嘉吉の乱以降~政則誕生の赤松氏
赤松氏は村上源氏の末裔という。赤松家4代当主・赤松則村(赤松円心)が鎌倉時代~南北朝時代で活躍し、赤松氏の地盤を強固なものとした。
1441年に時の当主である赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いとして6代将軍・足利義教を自邸に招く。しかしこの酒宴は罠であり、義教暗殺のためのものであった。実行者は満祐の嫡男・赤松教康が務めることとなった。結果は義教暗殺成功となり、他の守護大名も何名か死亡する事態となり突然の将軍暗殺により幕府は大混乱となり機能は停止してしまった。
数ヶ月後に山名持豊(のちの山名宗全)率いる赤松討伐軍により赤松氏は滅亡することとなった。ここから17年間赤松氏は雌伏を強いられることとなり、また赤松氏の一族も続々と命を奪われることになるのである。(以下参照、日にちは没日)
- 赤松義雅(1441年9月9日、満祐の弟で政則の祖父。赤松満政に降伏するも自害を強いられる。)
- 赤松満祐(1441年9月10日、赤松家8代当主。城山城で自害。)
- 竜門寺直操(1441年9月、満祐の弟。戦後責任を負わされて自害。)
- 赤松教康(1441年9月28日、満祐の嫡男。縁者の北畠教具の下へ逃れるが、庇護を拒絶されて絶望して自害。)
- 赤松教政(1443年8月ごろ、満政の次男。播磨で挙兵し山名宗全と戦うも敗れる。摂津で自害。)
- 赤松満政(1445年4月24日、満祐の従弟。満祐攻めで活躍するも、山名宗全に圧迫を受けて敗れ、追討を受けて暗殺される。)
- 赤松満直(1445年4月24日、満政の嫡男。山名宗全に攻められ、有馬持家の裏切りにより父と共に暗殺される。)
- 赤松貞村(1447年ごろ?、赤松氏一族。赤松円心の次男の末裔であり、三男の末裔の満祐と対立するもさしたる功もなく行方知れずに。)
- 赤松則繁(1448年8月8日、満祐の弟。一時は李氏朝鮮に逃れるも、帰国。のちに河内に潜伏するも赤松則尚らにより攻められて自害。)
- 赤松則尚(1455年5月12日、満祐の甥。山名宗全に敗れて自害。)
- 赤松時勝(1455年10月、義雅の子で政則の父。23歳の若さで夭逝。)
父の死亡の時点で当時赤松氏の嫡流となっていた赤松円心の三男・赤松則祐の血筋をもった生存者は当時生まれたばかりの赤松政則と赤松満政父子を裏切って暗殺した有馬持家の子・有馬元家の2人だけであった。
当時の赤松氏は円心の長男・赤松範資の末裔は七条氏などの庶家を起こしており、赤松姓をほとんど名乗らなかったという。(範資の男子は7~10名前後いたという。神吉氏や石野氏はこの流れを汲んでいる。)円心の次男・赤松貞範の末裔は既に没落しており、実質の赤松氏は政則ただ1人となってしまっていた。またこの時母もまもなく亡くなっていたという。
誕生~元服
父の死亡で唯一の赤松氏となってしまった政則を旧臣が盛り立てていくこととなる。1455年当時の播磨は山名宗全の領国となっており、赤松氏の家臣団は完全に排除され討伐の対象とされていた。また、蟻の隙が入る穴はあってもすぐに討ち取られかねないほどの危険な状態(山名氏からすれば播磨における領国経営は行き届いていた)であった。
養育係には当時27歳の浦上則宗が務めることとなり苦楽を共にすることとなる。則宗らの赤松旧臣は正攻法では赤松氏の再興は難しいと考え別の策を探る。1456年には旧臣の1人の上月満吉が後南朝に奪われたとされている神璽に関する情報を探りに1年間吉野などに入った。
1457年、満吉の情報を元に奥吉野に侵入し、南朝の末裔である後南朝2代・尊秀王(自天王/北山宮)とその弟・忠義王を殺害して神璽を奪った。この戦いでは楠木正成の末裔である楠木正理も討たれている。(長禄の変)
一時吉野の住民に神璽を奪われるも再度奪回し、1458年8月に京へと届けられた。この功により幕府より赤松氏再興は認められた。ただし、所領は播磨ではなく加賀北部であった。
当時の加賀国は富樫氏が所領としていたが、加賀両流文安騒動によって南北で分裂していた。1447年に和睦した後も北に富樫成春が、南に富樫泰高が分国守護として治めることとなった。しかし、赤松政則が加賀北部の分国守護に就任することとなり、成春は追放されてしまう。これ以降成春の子・富樫政親が所領奪還を狙って抵抗してくることとなった。(だが、政則も政親も1455年生まれなのでそんなことができるはずもなく、家臣団が代わりに抵抗した。)
1459年に加賀に入部したとされているが、所領は加賀・備前・伊勢の3つに分かれており、遠隔地で点在していたこともあり、十分満足に領国経営できる状態でもなかった。それでも浦上則宗を中心とした家臣団が幼少の政則を支え、他の赤松旧臣団たちも播磨奪還を夢見ていた。
1465年12月に元服し、8代将軍・足利義政より一字を賜った。1466年に細川勝元による文正の政変で失脚するも、勝元の後援で復帰した。
応仁の乱
1467年に応仁の乱が勃発すると、政則は東軍に属する。播磨奪還を目指すのならば西軍の山名宗全側につくはずもなく、自然と細川勝元への味方が決まった。播磨奪還に燃える赤松家臣団は赤松滅亡時に赤松満祐が領していた備前・美作にも兵を進めた。播磨は元々赤松氏の本拠地ということもあり旧臣や農民や土民などが国を挙げての協力もありほんの数日で奪還、悲願の播磨入部を達成する。翌年には備前・美作も制圧し27年ぶりの赤松氏の3ヶ国経営が復活した。ただし、加賀については富樫政親により奪回されて領土を失った。伊勢については1466年の時点で幕府に還したという。政則は義政の寵愛を受け、信頼を寄せられた。
しかしこのまま順調にいかないのが戦乱の世であって、将軍家を初め、応仁の乱の発端となった畠山氏では内紛が起こり、日本全国で大名家が東西に分かれて対立する案件が続発した。ここ赤松氏もその例外に漏れず、政則と同じ則祐の血筋を持つ有馬元家(義政政権の三魔の1人)が赤松氏の家督を狙っていた。元家を難なく殺害し、一時は内紛を収めることに成功した。ただ、これ以降も内紛が発生して苦しむこととなった。
1473年に総帥であった細川勝元と山名宗全が両者とも病没し、その後継者であった細川政元(勝元の子)と山名政豊(宗全の孫)が講和を結んで応仁の乱は1477年に終結し、赤松氏の3ヶ国を治める大名として確立された。
内紛と出奔
3ヶ国を治める有力大名となった政則ではあったが播磨各地で抵抗勢力が出現する。先の有馬元家の他に播州北部の在田氏も政則に抵抗を試みた。在田氏は赤松範資の末裔であり、赤松氏の血を受け継いでいる七条氏の庶流の一門でもあった。1482年に在田一族4名が殺されるまで11年間播磨に動揺が起き続けていたのであった。
内紛も鎮圧し、山陽の雄として踏み出そうとした時、かねてからの仇敵である山陰の雄・山名氏との対立が更に激化した。因幡では毛利貞元を支援して因幡守護・山名豊氏を圧迫すると、伯耆では伯耆守護・山名元之(豊氏の弟)と山名政之(豊氏の子)に内紛が起きるとこれに介入して政之に味方した。
すると、1483年に備前の豪族・松田元成が政豊を手引きして備前国内に兵を進めさせると福岡城(現在の岡山県瀬戸内市)を襲わせた。政則は福岡城に後詰を派兵しつつ但馬攻めを敢行した。二兎を追うものは一兎をも得ず、とは言ったもので但馬攻めは大敗してカウンターも受けて播磨への侵攻を許してしまい、播磨の諸城や福岡城も落とされてしまった。更に姫路へ逃亡する最中、迷子になって命を落としかけた。これを知った浦上則宗は激怒し、政則は堺へと出奔し、翌年2月には則宗をはじめとした重臣たちは政則の廃位を宣言して新当主の樹立を模索したのであった。これにより政則は力を失った。欲を出すから………。
復帰
これを契機として反政則派たちは政豊に通じて新しい赤松の当主を擁立(恐らく傀儡当主か?)、重臣内でも内紛が起こり政則廃位を主導した則宗らへの反発が多発し、政則復帰を求めて紛糾した。その間に政豊により美作・備前を奪われて赤松氏の領土は播磨1国のみの状態となってしまった。欲を出すから………。
一方政則はというと、逐電先の堺に別所則治という武将が迎えにきた。彼の助力を得た政則は1484年12月には播磨復帰となり、1年ぶりに播磨へと戻ってきた。これ以降則治の発言力が急激に高まり、播州東部に別所氏の勢力が拡大し、彼の玄孫にあの別所長治へと繋がり、別所氏の家運が開いたのであった。
義政の仲介により則宗らと和睦し、これ以降は則宗と則治の両輪を中心とした新体制が発足し、山名氏への逆襲が始まった。真弓峠、蔭木城、片島、英賀、坂本などの戦いで政則は政豊相手に苦戦もあったが連戦連勝を続けた。坂本城の戦いで山名氏との雌雄を決し、政豊は逃亡する最中、迷子になって命を落としかけた。1488年には山名軍が播磨から撤退し、備前・美作も奪還したことから大勝利となった。
晩年
政豊との戦いの最中より応仁の乱から友好を結んでいた細川政元と親交を結び続けていた。1493年には政元の姉・洞松院(めし)を娶る。「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」という落首が京都で貼られるほどの三十路の不細工尼であった。『赤松盛衰記』では「洞松院という醜い顔をした女性がいらっしゃいまして、無理やり還俗させて赤松政則の妻として嫁がせました。」(強引な意訳です)とある。
洞松院との間に一女・小めし(松)をもうけた。この娘婿になるのが赤松家10代当主・赤松義村である。小めしに関しては前正室・伊勢貞親女の娘という説もある。
1496年にたまには息抜きでもってことで鷹狩りに出かけたときに病が重くなりそのまま急死してしまった。
補足
1496年没なので最古のシナリオの1495年ではわずか数ターンしか存在しない非常にレア。
中興の英君と言っても政治力が高いだけ。浦上則宗の活躍ばかりが注目されて、山名政豊によって大敗させられた点により軍事面は大幅にマイナスにされたか。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 27 | 知略 | 23 | 政治 | 72 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連項目
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