秋山登単語

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アキヤマノボル
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秋山登(あきやま のぼる)とは、元プロ野球選手監督のことである。

概要

1934年2月3日岡山県岡山市出身。

岡山高等学校に進学。49年に学校改革により他校と合併し、以降長らくコンビを組むこととなる土井淳と出会う。

入学時は控えの投手であり、外野手として出場することが多かった。投球フォームもスリークォーター気味のフォームだったが、1年先輩だったアンダースローエースの投球を真似するうちに秋山アンダースローになっていった。

2年からエースとなり、3年には甲子園大会に出場するも、怪童中西太を擁する高松一高に敗れ1回戦敗退。

卒業後、土井とともに明治大学に進学。2年エースとなると明治戦後優勝に貢献。3年時には東大戦で六大学野球記録の22奪三振記録

その後争奪戦の末、大洋ホエールズに入団。この年の大洋秋山以外にもともに黄金時代を築いた土井をはじめ5人の明治大学出身の選手を獲得した。

1956年、新人ながら開幕2戦先発投手に起用されるなどリーグ最多投球回の379回1/3を投げるなど先発として活躍。チーム全体では43勝と低迷するも秋山は25勝(25敗)を記録し、チーム勝利数の半分以上の勝利秋山一人で挙げる活躍で新人王にも選出された。

翌年1957年には24勝27敗、リーグ最多の312奪三振記録

その後もエースとして毎年二桁勝利以上を記録するもチームは低迷、1956年1959年にかけて4年連続で最多敗戦を記録

1960年三原脩監督が就任し事態は好転する。開幕戦の試合前に相手チームコーチノックバットが額に直撃し病院に運ばれるなど不運な始まりではあったものの、終わってみれば21勝10敗、防御率1.75の大活躍で大洋の初の日本一に貢献。MVPベストナインに選出され、最高勝率最優秀防御率タイトルも獲得した。

1963年からはコーチを兼任。その後もエースとして君臨していたものの、1965年に肘を故障し、以降成績が急降下。

1967年には胸に疾患を抱えこの年限りで現役を引退。通算200勝まであと7勝届かなかった。

引退後も大洋一筋で活動。投手コーチヘッドコーチを経て1975年監督に就任。だが2年間で5位・6位と結果を残せず、1976年監督を辞任。1977年二軍監督を務めた後に退団。

その後は解説者を務めつつスカウトや大洋横浜のOB会会長を務めた。

2000年8月12日心不全のため死去。享年66歳。

2004年野球殿堂入り。

人物・エピソード

速球アンダースローとして知られ、力のある直球で相手を打ち取っていた。キャリアの半ばからは技巧に転身、切れ味鋭いシュートは「ミソシュート」の異名をとった。後にこの異名平松政次に引き継がれた。

高校時代からの盟友である土井淳とは高校時代から18年間もの間バッテリーを組み続け「黄金バッテリー」と呼ばれた。相性も抜群であり、秋山土井サインに首をふることどなかった。

どれだけ負けが付こうと弱音や愚痴をこぼさず、ただひたすらに投げ続けていた。

通算成績

投手成績

通算:12年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
NPB 639 132 29 193 171 -- -- .530 2993.0 854 1896 1024 864 2.60 1.11

監督成績 

通算:2年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 260 96 147 17 .395 Bクラス2回

獲得タイトル・記録

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