概要
菅沼定盈(1542年-1604年8月13日)は、三河(現・愛知県東部)の野田菅沼氏2代目・定村の長男として生まれた。野田菅沼氏3代目。
今川氏と松平氏(徳川氏)に挟まれた土地であるため、近隣の武将・豪族たちは両者の勢力関係によって主家を替えることも多く、この辺りに勢力を持つ菅沼氏一族も同様であった。
しかし、野田菅沼氏はその中でも比較的忠義に篤い勢力であった。
父・定村が死に定盈の代となった時点では今川氏に属していたが、桶狭間の戦いで今川義元が死亡して支配力が弱ると今川を見限り松平氏に帰属。
以降は家康に従い続け、弓を引くことはなかった。
家康の属将として野田城の戦いや長篠の戦いに参戦。
関ヶ原の戦いでは江戸城の留守を預かった。
野田城の戦い
1573年、武田信玄が三河へ侵攻。野田菅沼氏の本拠・野田城を包囲した。
野田菅沼側はわずか500人、武田側およそ2、3万人。
三方ヶ原の戦いで大敗したばかりの家康からは援軍も期待できない。
それでも定盈はおよそ1ヶ月もの間抵抗を続け、最終的には水を絶たれとうとう降伏。
定盈はのちに捕虜交換によって解放された。
このときの野田菅沼氏の行動が高く評価され、菅沼一族の中でも野田菅沼氏が最も家康に優遇されることとなる。
野田城を落とした直後、武田の西進はなぜか止まり全軍が甲斐に帰還。
信玄の死による帰還だったのだが、このタイミングでの死が様々な憶測を読んだ。
野田城の戦いの際に菅沼氏の家臣によって信玄が狙撃され、その傷が原因となって信玄が死亡したという説も生まれたが定かではない。
関連項目
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