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武田信玄武田信玄とは、日本戦国大名である。甲斐武田19代当

概要

武田晴信は、武田信虎の嫡男として甲斐に生まれた。幼名太郎
信玄とは出したのちの法名である。

信が20歳になる頃、・信虎は当時交戦していた駿河の今川と和を結んだ。しかし、和のために信虎が駿河入りすると、信はの重臣たちとともに甲斐路を封鎖して信虎を追放し、督を相続した。
追放の理由は信虎の粗暴な振る舞いが原因とする説や、信の・信繁を寵愛したことが原因とする説など、未だに定説を見ない。しかも追放後も信虎と武田との交流は続いていた。

武田となった信は信虎時代に盟を結んでいた信濃諏訪へ侵攻し、信濃のほとんどを定するなど勢を拡大。すると、その勢いを止めようとする越後の上杉謙信長尾景虎)が北信濃に出兵し、武田との5度にわたる長合戦を繰り広げる(川中島の戦い)。この川中島の戦いの最中に結んだのが有名な「甲相駿三国同盟」である。

駿河の今川義元狭間において敗死すると、信玄は独立を果たした平家(徳)と共謀して駿河への侵攻を開始。さらに今川へ増援を送った北条とも争いはじめるようになる。また、1571年に織田信長比叡延暦寺を焼殺した際にはしくこれを非難し、落ち延びた延暦寺の僧を保護し織田との対決の姿勢を見せるなど、四方への勢拡大を図った。

そして1572年、征夷大将軍足利義昭めに応じてついに上を試みるまでになった。
ところがその途上で持病が悪化し、甲斐へと撤退する最中に死亡。義昭めの翌年のことであった。

人は城

武田信玄の残した言の一つに「人は 人は石垣 人は~」というものがある。よくこの言葉が引用される際もこの部分だけ書かれることが多く、「人は?」と誤解されることもある。

実際の句は「人は 人は石垣 人は 情けは味方 は敵なり」となる。この前3句は「石垣、これら3つと同じくらい人心は大事だ(または、を堅固にしても人心が離反すれば意味である)」と言っているのである。

この句からも解るように、信玄は甲斐領民の保護・育成に努めていた。特に、領内の黒川・湯之の両金山からの収入著しく、それを元手に「信玄」に代表される治政策を行ったことにより一帯の収入は向上し人心も安定した。

仮想世界上

武田信玄やその功臣の事跡を「三国志演義」のように誇して書き立てた「甲陽軍鑑」などに現れる信玄像をベースにしたキャラ付けがなされることが多い。また後世武田信玄と上杉謙信の争いを題材にした読み物の挿絵をモチーフにして、武田宝の「楯」(の面がついたアレ)をった武士として描写されることが多い。

また、を身にって現れる関係で偉丈夫に描写されることが多いが、実は武田信玄は病弱だったという説もある。この巨体は「甲陽軍鑑」とそれを基にした説話物、そして誤って信玄像として紹介された肖像画によるが強い。

戦国大戦では・・・

風林火山!」
10、統率11、騎隊、コスト3.5と総合的なは非常に高い。計略は「風林火山」。
武田軍の武と統率と移動速度が上がり兵まで回復・・・と勢な計略。
しかしそれぞれの上昇量はそこまで高くなく、本人が3.5コストとかなりのスペースを取るためデッキ枚数で劣りやすい。また風林火山の消費士気は9、と全計略でも二番の重さであり(一位上杉憲政関東管領職譲渡の10)、万全の状態で撃てないと士気効率が非常に悪いのもネック
ちなみに計略発動時ドヤッとかキリッとかいうコメントが流れる事が多い。

Ver1.10で登場した彼は今まさに尽きようとしている晩年の信玄。
本人は3コストコストは落ちたが武8、統率12と太原雪斎と同じく統率トップである。地味に魅だけじゃなく攻も手にしている。
明日は瀬田に旗を立てよ…!」
弱弱しい台詞で発する計略「瀬田に旗を」は、自分が撤退する代わりに武田軍の武と統率と移動速度を上げる計略。
風林火山と違って士気6なので、さらなる計略コンボも行いやすいが、デッキメインたる3コストが落ちるのはやや痛い。

関連動画

 補足

信長の野望」(PCシリーズにおける武田信玄の力一覧。総合は全シリーズ通してトップクラスである。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 99 政治 96 98 野望 89
武将風雲録(S1) 戦闘 96 政治 92 96 野望 94 教養 82
覇王  采配 98 戦闘 96 智謀 94 政治 93 野望 94
  戦才 192(A) 智才 188(A) 政才 194(A) 96 野望 95
将星 戦闘 97 智謀 94 政治 96
烈風 采配 99 戦闘 95 智謀 94 政治 95
世記 采配 107 智謀 87 政治 85 野望 100
統率 90 知略 87 政治 85
下創世  統率 90 知略 87 政治 84 教養 74
革新 統率 110 武勇 88 知略 96 政治 94
統率 110 武勇 82 知略 96 政治  94

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武田信玄

165 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 18:38:07 ID: qgijwBOPGd
>>164
問題は「どこから」じゃなく「何時までに」だ
浅井朝倉の息がある内に、織田を引きずり出して決戦に持ち込み大打撃を与えられるなら、何処でも良い
自分で絶好機っつっといて、本命の織田を攻めずに前座の徳を攻めててどうする?
相手にいくら戦果を稼ごうが、浅井朝倉の息の根が止まったら、信長勝ち確

それが痛いほど分かってたから、信玄は三方ヶ原家康勝しても、浜松を囲みもせずにひたすら西へと軍を進めたんだよ
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166 ななしのよっしん
2022/07/21(木) 23:04:04 ID: vESepObY8E
源氏は基本身内争いするの当たり前だが
信玄は息子たちには厳しいイメージだが兄弟仲は皆良好みたいだね

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167 ななしのよっしん
2022/11/11(金) 20:59:31 ID: 6yNezxcYKe
外交下手評価が増えてきて、まぁ最晩年はそう言われても仕方ないけど駿河侵攻も三増の戦いとか巻き返し凄いし、西上作戦とか最高のタイミングでの裏切り(織田・徳をかいくぐり強襲)
なおその成果を信玄自身が責任取りきるために必要な寿命…(義昭と仲微妙な状態だったので勝頼官&偏諱し、信長家康と決裂放りっぱなしに)
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168 ななしのよっしん
2022/11/14(月) 19:12:01 ID: qgijwBOPGd
>>167
>西上作戦とか最高のタイミングでの裏切り(織田・徳をかいくぐり強襲)

浅井朝倉「遅え」
越中加賀一向一揆すまんな」
信長「兵7万が岐阜で待っとるで」
謙信一向一揆は速攻潰したし、はよ織田とぶつかれや」
足利義昭「てか帰るんかい」
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169 ななしのよっしん
2023/03/25(土) 20:45:12 ID: Otgu+P3XWr
まあ信玄が騙したというより、武田の苦しい立場を理解してなかった信長の鈍さを徴する出来事だったかもな…
信長荻野上杉毛利に対してもやらかして拗れたし
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170 ななしのよっしん
2023/05/21(日) 05:59:03 ID: NtfmoBsSNg
結局信玄最大のミスは結果論ではあるけれども信長の勢伸長に最後の最後まで有効な手を打てなかったにもかかわらず信長を裏切ってしまったことに尽きると思う
信玄の晩年には信長は既に規模的に「正面から戦ってはいけない勢」(基本勝てないし、勝つには総力戦以外の選択肢がなく第三極にその虚を突かれて共倒れの算が高い)になっているにも拘らず、信玄がその選択をした理由ってのはやっぱり解せないんだよな
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171 ななしのよっしん
2023/05/21(日) 19:44:06 ID: qgijwBOPGd
>>170
浅井朝倉がああまで弱体化してると認識出来てなくて、戦略読み違えたんだろうな

信玄の当初の想定だと、火事泥棒的な遠征で、もっと余裕があったはずなんだろうな
少なくとも織田全軍をまともに相手にする想定はしてなかったろう
なんせ各戦線に手当てしてもなお、武田軍の2倍の7万いるんだぜ当時の織田
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172 ななしのよっしん
2023/05/25(木) 14:39:11 ID: RqBfS/Rsql
志賀しかり小牧長久手しかり、きちんと補給が続いている2万の兵がいればたとえ7万だろうが基本的には負けない(勝ちに行くなら戦術勝負になるが
日本は広義ではどこ行こうが隘路ばかりの山岳のため。

滅ぼせてたら割と話は変わってたのは間違いないぞ
そして謙信に勝てなかった以上それしかはない
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173 ななしのよっしん
2023/05/25(木) 21:19:10 ID: qgijwBOPGd
>>172
その補給が危ういからこそ問題なのよ
隘路ばかりっつっても、甲斐のそれは数段上だし、そもそも甲斐自体が貧だからな
何より上杉謙信一向一揆を速攻で潰してフリーになったから、武田の後背地に危険信号が付いた
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174 ななしのよっしん
2023/05/26(金) 20:00:28 ID: qgijwBOPGd
>>172
それと徳を滅ぼすのは理だから
>>155のとおり、徳には織田という落ち延びる先がある

信玄はそこまで読み切ったからこそ、戦略的に意味な浜松無視して西へ向かったんだよ
西上作戦勝利条件が「畿内で信長包囲網とにらみ合ってる織田を後ろから殴る」簡単な仕事から
「速やかに濃尾を圧迫織田決戦して大勝し信長包囲網の形勢を逆転させた後、速やかに本に取って返して対上杉の防備に当たる」戦争芸術になったことをよくよく理解してた
そんなシビアな条件で「三河を確保する」なんて余計な仕事はやってられんし、家康の首も獲れん、だから浜松を囲む意味はない
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