三方ヶ原の戦い(三方原の戦い)とは、現在の静岡県浜松市にある三方ヶ原(三方原)で戦国時代に行われた、徳川家康・武田信玄の戦いである。
概要
甲斐国(現在の山梨県)を拠点としていた武田信玄が、1572年以降に西へと軍を進めた「西上作戦」の戦いの1つ。和暦では元亀3年12月、西暦では1573年1月に起こった。
西上作戦の中では最も知名度が高い戦と思われる。武田信玄・徳川家康とそれぞれの家臣が戦ったほか、同盟を結んでいた織田信長から家康側に、佐久間信盛などの援軍が送られている。
戦の背景と経過
遠江国(静岡県西部)に北方・東方[1]から武田軍が侵入、各地の城を攻めていった。
先に一言坂(磐田市)で偵察に行った本多忠勝・内藤信成らが山県昌景・馬場信春の軍と戦っており(一言坂の戦い)、三方ヶ原の戦いの前哨戦として扱われている。徳川方が敗れ家康も撤退したものの、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌の元になった。
ついには遠州平野の北端の拠点で、補給路の一部としても重要だった二俣城(浜松市天竜区二俣町)が落城、当時の徳川家康が本拠地としていた浜松城を攻めるかと思われ、家康も籠城戦に備えた。
しかし、信玄は浜松城の北方を西に進んで三方ヶ原に上り、家康を無視して素通りするような進軍をとった。これに対して家康は三方ヶ原へと出陣するも、信玄は魚鱗の陣を取り家康を待ち構えていた。家康は鶴翼の陣を取り交戦するも多くの家臣・兵を失い、敗走して浜松城に戻ることになった。
一方、武田軍は浜松城に攻め込むことはせず、そのまま浜名湖の北を西進して三河国(愛知県東部)に入り野田城(新城市西部)を落とした。しかし、そこで信玄の病状が悪化し、撤退することになった。帰路の最中で信玄は死去し、歴史は3年後の長篠の戦いへと向かっていく。
主な武将・家臣
徳川軍
織田援軍
武田軍
なぜ家康は出陣したのか?
なぜこの陣形をとったのか?
兵数は諸説あるものの、いずれにせよ徳川軍は武田軍と明らかに差があり不利な状態だった。それでも家康が出陣を決めたのには以下の説がある。
- 攻撃してこなかった信玄に対して挑発の意図を感じ、家康が怒り出陣した
- 武田軍が三方ヶ原から祝田坂へと下っているところを背後から狙おうとした
- あえて出陣をすることによって部下や民衆からの信頼を得ようとした
- もともと戦う意図はなかったが、小競り合いを止めようとした結果戦いに巻き込まれてしまった
- 浜松の西にある浜名湖沿岸の堀江城を落とされ、水運を押さえられて西側からの補給路を失うのを防ごうとした
また、本来は劣勢の側が使うとされる魚鱗の陣を信玄が、防御に適するとされる鶴翼の陣を家康がとった理由も不明。信玄側については「大将の首を狙ったため」「相手方を多く見積もっていたため」、家康側については「本隊が去ったと思い相手の人数を見誤ったため」「自陣を大きく見せるため」とする説がある。
なぜ信玄は浜松城をスルーしたのか?
西上作戦は大前提として「織田家主力が動けない」事で成立する軍事行動であり、籠城戦で時間をかけてしまうと態勢を整えた織田家の援軍が到着して作戦が崩壊してしまう。力攻めをするにも浜松城は堅城で攻略までの時間と自軍への被害が甚大であり、こちらも選択肢には入らなかったとみられる。
が、信玄としてもそれはハナから想定していたようで、山県別働隊を三河から侵攻させ街道を抑える事で三河方面からの陸路を封鎖、海賊たちを使い海路も封鎖に成功していた。この状態で二俣城が落城したため、浜松城の補給経路は浜名湖を利用した堀江城ルートを残すのみとなっており、浜松城を完全に孤立させるために堀江城へと進軍したのが、浜松城スルーの真相とみられる。
堀江城を見捨て浜松城での籠城を選んだところで、家臣への求心力が下がった上に孤立した浜松城ではジリ貧になることは明確であったため、野戦を挑むことが無謀であることは重々承知していたものの家康は出撃の選択を取らざるを得なかったと見られている。そもそも家康がどちらを選んでも不利になるような二択を突きつけた時点で信玄の作戦勝ちと言える。
とはいえ、家康もわざわざ不利な状況下で武田軍と戦うつもりは毛頭なく、出撃することで対外的な体裁は整えつつも、あくまで後方撹乱やゲリラ戦法などの嫌がらせ戦術を取りつづけて織田家主力到着までの時間稼ぎをするのが本意であり、大規模な戦闘になってしまったのは配下の将兵達の暴走が要因で家康の想定外だったのではないかという仮説がある。(この戦いは戦闘開始時刻が午後4時と非常に遅く、小競り合いだけしてすぐ夜闇にまぎれて離脱する想定をしていたと思われる。)
なお、援軍として派遣されていた織田家重臣・佐久間信盛がまともに戦わずに戦場から撤退した事が信盛の評価を落とす原因の一つ(信長の言いがかり佐久間折檻状にも書かれている)になっているが、上記の仮説を取るとむしろ将兵を暴発させずキッチリ引き下がらせた信盛の手際はもっと評価されるべきである。
戦場はどこか?
「三方ヶ原のどこで戦いが行われたか」までは分かっていない。三方ヶ原、つまり現在の三方原台地自体は東西10km、南北15kmにわたっている。
資料によっては「浜松市三方原町」とするものもあるが、現在の三方原町自体は三方原台地の一部に過ぎないため、ここ以外の場所で行われた可能性もある。以下のような戦地の説が挙げられてきた。
- 小豆餅・千人塚(有玉西町)付近
- 最も古い陸軍参謀説。
- 三方原墓園
- 戦の石碑がある場所。下に述べる祝田坂に近い。
- 祝田坂(根洗から金指の間)
- 大谷(聖隷三方原病院周辺)
- 近年では祝田坂や大谷が説として取り上げられることが多い。
- 都田丸山(都田テクノ北)
- 犀ヶ崖(浜松北高校周辺)
武田軍の進軍ルートについても不明な点が多く、三方原を上った場所の候補としては東名高速三方原PA周辺の「大菩薩坂」「欠下坂」のほか、浜北西高校付近の「休兵坂」がある。
敗走中のエピソード
- 敗走中に家康が脱糞し、家臣に対して「これは糞ではなく味噌だ」と言い訳した
- 茶屋で休憩して小豆餅を食べていた家康が武田軍に追いつかれてしまい食い逃げをするも、茶店の婆が2kmを追いかけて銭を払わせたため、その場所の地名として「小豆餅」「銭取」が残った
- 農家に匿われ、家康が飯を分けてもらった(各地にこの類の逸話が多数残っている)
- 浜松城に戻ってきたが、自分が家康だと信じてもらえず城に入れなかった
ただしあくまで多くは民間に伝わってきた話として記録されており、当時の史料として残っているわけではないので注意。脱糞のエピソードについても、江戸時代後期に校正された史料『改正三河後風土記』に三方ヶ原の前哨戦の「一言坂の戦い」のものが残っているだけである。三方ヶ原の戦いでの敗走としては書かれておらず、しかも当時に書かれたわけでもない。小豆餅と銭取についても「戦死者への供養として小豆餅を供えた」「盗賊が銭を取った」ことから名付けられたとする説もある。
また、徳川家康が敗走後に自分を戒めるために描かせたとされる「しかみ像」についても、研究が進んで実は後世に描かれたものであることが判明している。詳しくは「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事を参照。
三方ヶ原の戦いには出所不明の逸話・伝承が多く、全てを史実と断定することは難しい(この記事に書かれていることについても、後に異説が出される可能性もある)。実際、家康の敗走中のエピソードは浜松の各地に多く伝わっており、全て三方ヶ原の戦いで起こった[2]とすると、家康の馬が超スピードで移動したか、家康の影武者があちこちで活動したかでなければ話の辻褄が合わない。
ただ、「後世の人々の間で家康がどう語り継がれたのか」という点では、これらのエピソードはそれはそれで興味深く、歴史としても価値のある内容ではあるのだが…。
後世の風習への影響
ちなみに犀ヶ崖の戦いでの戦死者を弔うために「遠州大念仏」が始まったとされており、現在では犀ヶ崖のほか、浜名区の浜北を中心に各家庭の初盆で死者を弔う念仏踊りが行われることがある。
また、一部の浜松の小学校の運動会では「城落とし」という、徳川軍・武田軍の2グループに分かれて城を模した箱に玉を入れて、最後には爆発音とともに煙を上げて落城させる、三方ヶ原の戦いになぞらえた競技が行われている。
関連動画
関連リンク
関連項目
脚注
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