「郭馬」(カク・バ ? ~ ?)とは、三国時代末期の呉の武将であり、合浦太守の脩允の私兵隊長を務めた人物である。
脩允死後に呉に対して反乱を起こし、陸機が呉滅亡の理由をあげた際にその名を使用されている。
晋の呉への侵攻は、かつて曹操が呉に攻めこんできた時ほど強力なものではなく、天の時、地の利、人の和を利用して曹操に立ち向かいました。
対して、晋と戦った時は、既に優秀な人材はなく、残った者にも団結はなく、地の利のみに頼って為、郭馬の反乱も歩闡が以前に起こした反乱より危険であったわけではなかったが、呉は滅びました。
正史では
呉の国の合浦太守の脩允の私兵の隊長を務めていた武将で、脩允が桂林の太守に転任する事になったものの病を発して広州に留まった為、500の兵を与えられた郭馬は、先に桂林に入って異民族の安撫にあたった。
脩允が病死すると、郭馬が任されていた脩允の私兵は別々の場所に配属される事になったが、何代も前から一つの集団として暮らしてきた私兵集団であった事と、呉の皇帝の孫晧が広州の戸籍を調べて課税しようとしていた事から、郭馬は周辺地域の不安を煽って呉に対して反乱する道を選び、広州の督の虞授を戦死させた郭馬は自ら広州と交州の都督を名のり、南方各地を占領した。
滕循が討伐軍として1万の兵を率いてあたったが平定する事はできず、郭馬はというと、南海太守の劉略を殺し、広州刺史の徐旗を追い払って勢力を拡大していた。
孫皓は、呉を公孫が滅ぼすと言う予言を信じて、姓が公孫の家臣をすべて南方に流罪にしていたが、予言にはもうひとつ、南方で反乱が起きると呉が滅ぶと言うものがあった為、郭馬の乱を捨て置けなくなった孫皓は、陶璜(陶コウ)と陶濬兄弟に兵を与えて討伐軍を指揮させたが、直後に晋の呉討伐軍も侵攻してきた為、陶濬は広州に向わず晋軍に相対して破竹の被害者となり、郭馬の乱は平定されることなく、晋により呉は滅んだ。
その後、郭馬がどうなったかについては歴史は語らない。
演義では
郭馬に関する記述は無い。
※その他「郭馬」の詳細についてはWikipediaの該当記事を参照。
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