麻垣康三とは、自由民主党総裁や内閣総理大臣を務めた小泉純一郎の後任として有力視された四人の政治家を示した造語である。政治評論家の有馬晴海が命名したといわれる。
概要
麻垣康三とは、以下の四人の政治家を示す言葉であり。四人の苗字や名前から、漢字漢字を取って作られた言葉である。(カッコ内は小泉政権時代に務めた閣僚や党内役職。)
それぞれ、小泉純一郎が総理総裁だった時期に、有力な閣僚ポストや党内役職を務め、存在感を示したことから小泉退任後の自民党総裁の座に着くであろうと有力視され、実際に四人とも自民党総裁の座に就くこととなった。(ただし、谷垣のみ自民党が野党に転落した時期の総裁であるため、内閣総理大臣への就任経験はない。)
なお、この四人は全員世襲議員(父親が政治家)である上、谷垣を除く三人が、父あるいは祖父が過去に内閣総理大臣を務めた経験を持つ。(麻生は吉田茂の孫、福田は福田赳夫の息子、安倍は岸信介の孫。)
小泉退任後の四人の動き
小泉が総理総裁の座から退任を表明した後、福田を除いた三人が小泉の後の総裁を決める総裁選へ出馬。自民党内の多数の派閥の支持を得た安倍は、麻生と谷垣を圧倒的な票差をつけて選出された。ただし、麻生と谷垣も前評判を覆し、百票を超えた票を集めたことでお互いに存在感を示すこととなった。なお、この時は福田も世論調査で安倍に次いで次期総裁にふさわしい人物として支持を集めていた他、周囲からも立候補を期待されていたが不出馬を表明した。同じ森派(清和政策研究会、現在の町村派)に所属する福田と安倍が争うことを避けた為とも見られている。
安倍総裁時代には、麻生は外務大臣に留任した後、改造内閣時に自民党幹事長に就くなど優遇された。その一方で、谷垣と福田は閣僚や党内の役職に就くことは無かった。
安倍が総理総裁からの辞意を表明した後、福田と麻生が総裁選に出馬をした。福田が麻生派(為公会)以外の自民党の派閥の全てから支持を得たことから大差で麻生を突き放して自民党総裁に選出されたが、麻生もこの総裁選で前評判を大きく上回り、二百票近くの票を集めたことや党員票で福田を上回ったことなどから再度その存在感を示すこととなった。
福田総裁時代には、安倍総裁時代と比べて麻生と谷垣の立場は大きく変わる事となった。福田を支援した谷垣は自民党政調会長の座につき改造内閣が行われた際にも国土交通大臣へ就任するなど優遇された。一方麻生は、福田からの閣僚や党内役職への就任要請を改造内閣が行われるまで固辞し続けたが、改造内閣時に再度自民党幹事長へ就任することとなった。この間安倍は、退陣の直接の要因となった健康問題の悪化から、療養を経ることとなり、表舞台での活動は見られなくなった。
福田が総理総裁を辞任することを表明した後、麻生と他四名の候補(与謝野馨、石原伸晃、石破茂、小池百合子…いわゆる「麻野原茂子」)が立候補したが、他の四名を圧倒的な票差で突き放し麻生が自民党総裁へ選出されることとなった。
麻生総裁時代には、谷垣は一貫してどのポストにも就かなかったままであり、総裁経験者であった安倍や福田も重用されることはなかった。
2009年の衆議院選挙における自民党が大敗した結果を受けて、麻生は総裁を辞任した。その直後、谷垣は自民党総裁選へ立候補を表明。谷垣は他の二人の候補(西村康稔、河野太郎)を党員票、議員票のそれぞれで大きく上回り、自民党総裁へ選出された。
総裁の任期満了に伴う2012年の総裁選では、谷垣が場当たり的な内閣不信任案への賛成したことが原因で出馬に必要な推薦人の数が集められなかったため、谷垣は総裁選への出馬断念に追い込まれた一方で、安倍は総裁選へ立候補した。安倍は地方票でトップとなった石破茂との決選投票で逆転し、自民党史上初の総裁への返り咲きを果した。また、同年12月に行われた衆議院選挙でも安倍は自民党を大勝に導き、同月の臨時国会で再び総理への就任した。第二次安倍内閣では麻生は副総理兼財務大臣に、谷垣も法務大臣に就いた。なお、前述の選挙で福田は息子を後継に指名して引退しており、麻垣康三の一人が政界を去ることとなった。(2012年12月26日現在)
関連項目
- 自民党
- 小泉純一郎
- 麻生太郎
- 谷垣禎一
- 福田康夫
- 安倍晋三
- 三角大福 … 麻垣康三と同様長期政権の佐藤栄作の後継者を巡っても同様の造語がうまれた。
- 安竹宮 … 上に同じく、中曽根康弘の長期政権後の三名の後継者(ニューリーダー)をあらわした造語。
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