エド・ハイネマン(1908~1991)とは、アメリカ生まれの航空機設計エンジニアである。
第二次世界大戦中期から冷戦に至るまで航空機設計で辣腕を振るう。一時アメリカ海軍空母艦載攻撃機は彼の手によるものばかりということもあり、「ミスター・アタックエビエーション」(攻撃機工場)とも呼ばれた。
本名グスタフ・ヘンリー・エドワード・ハイネマン。ドイツ系アメリカ人で子供のころ周囲にグスタフという名前が多かったことから自らエドワードと名乗るようになったという。
子供のころに見た航空機を見て航空機エンジニアを志す。17歳で職業訓練学校ともいえる工芸高等学校を中退。必要な単位はすべてとっていたので早く職につきたかった、という本人の証言が残っている。
ところがこの時期ハイネマンはあまり職に恵まれておらず、ようやく入ったダグラス社でも図面引き(当時はコピー機などないので)トレーサーと呼ばれる複写図面の作成担当という役どころだった。このときに同僚だったのは後に独立するノースロップやキンデルバーガー(後にノースアメリカン社を設立。F-100などの開発)がおり彼らから多いに学ぶことになった。
とはいうもののここでダグラス社が抱えていた仕事がなくなったため失職。航空機業界へ戻ることを夢見て職を転々とする。ここらへんかなりハイネマンの経歴は複雑で、念願かなってある航空機メーカーに勤めてみたもののメーカーは売却される、ダグラス社に戻る、また退社する、違う会社に行く、またダグラス社に戻る。と何回か繰り返している。
同僚のノースロップがダグラス社の資金援助をうけて独立するとノースロップ社に移籍(1932年、24歳ごろ)。ここでチーフ・エンジニアとして急降下爆撃機XBT-1(のちのSBDドーントレス)に携わったあと、何度目かのダグラス社復帰を果たす。本人はノースロップのような一人で機体設計から会社経営まで何でもやるタイプのエンジニアではなく、コンセプトを定めたあと関係各部署のエンジニアに委ねる組織的開発のほうが得意だったらしく、以後、ダグラス社のエルセガンド部門(地方工場)を担当することに。
ここで彼の全盛期とも言える時代がはじまった。
第二次世界大戦が始まるとともに計画がスタートした大型空母ミッドウェイ級空母に搭載する急降下爆撃機開発では、A-1を作り出した。その後、A-3、A-4と立て続けに航空機を作り出すことになる。
一時は、A-1、A-3、A-4と空母艦載機のうち攻撃機はすべて彼が設計した機体ばかりということもあった。
彼の軍用機に対する設計アプローチは、シンプルであることであり、彼が生み出し(成功し)た機体はそのどれもがシンプルな設計・パワフルなエンジンによってまとめあげられていたもので、A-4にいたってはネジ一本から重量をカウント、機体の軽量化に取り組んだというエピソードがあるという。
ちなみに彼が直接・間接的に関わったものは非常に多岐にわたっている。
後年、ダグラス社を退社。
掲示板
9 ななしのよっしん
2017/09/11(月) 22:11:13 ID: d6Kybv9Ryo
エド・ハイネマンがA-3を設計する時のエピソードいくつ:
当時アメリカ海軍は超大型空母専用の10万ポンド艦載戦略爆撃機を要求するところ、ハイネマンさんは「こんな大きい空母は必ずキャンセルされるだろ」と考え、重量を7万ポンドに抑えた
結局超大型空母は本当にキャンセルされ、A-3はやはり大きいけど、一応既存の空母も運用出来た
そしてA-3の設計作業中、核爆弾の寸法は機密のため未公表、爆弾倉の設計はなかなか進まない、ハイネマンさんは自力で核爆弾の寸法を概算するしかないが、概算の結果は余りもピッタリなのでハイネマンさんとダグラス社は一時期FBIに監視された
なおハイネマンさん曰く「爆弾の寸法はそんなに機密じゃなかったらもっと高性能な機体を設計できるのに、しかもその大きい爆弾は製造されないし」
10 ななしのよっしん
2021/04/18(日) 15:59:10 ID: acpMW1EQm+
スカイホーク以降の設計機は悉く採用見送りになっているようだね
栄枯盛衰
11 ななしのよっしん
2023/08/29(火) 06:52:55 ID: h5w2Ddyz0D
最後の最後に監督したのがf16な時点で栄枯盛衰とはとてもとても
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最終更新:2024/05/09(木) 10:00
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