ベッケンシュタイン境界とは、量子力学と一般相対性理論を組み合わせる事によって現れる概念である。
その意味する所は以下の通り。
比較のために、相対論も量子力学もない19世紀の人になったつもりで考えてみよう。いま、考えたい空間領域に、棒が一本置いてあって、一か所だけ印がついていたとする。
我々が無限に正確に印を刻む技術と、その印の位置を無限に正確に測定できる技術があれば、この棒には無限の情報を記憶する事ができる。なぜかというと、空間座標というのは実数であると考えられており、任意の桁数を持つ事ができるからである。
だから、例えば「吾輩は猫である」から始まる小説の全文をその領域に詰め込もうと思ったら、我=21566、輩=36649という風に文字を適当な桁数の数字に直し(ちなみに上の数値変換は実際にコンピュータ上で使われているUTF-16という変換方式である)、0.2156636649…というように桁を延々と繋げた単一の有限実数に直し、棒の端からその長さの場所に点を打てばいい。無限に正確に印を刻む技術を持っているなら、いかに長かろうと有限小数など簡単なものである。
無限の精度の加工/観測技術というのが非現実的な仮定に思われるかもしれないが、そもそも空間が持つ情報量が人間の技術精度に左右されるというのが有り得ない仮定である。測定しようがしまいが、物というのはその場所に存在するのであり、従って人間が観測するしないにかかわらず、上の方法で読み出せるであろう無限の情報量を持っている事は間違いない。
ところが、ここで現代物理学(量子力学と一般相対性理論)を導入すると、棒一本どころか全宇宙にある全ての種類の粒子を無限にブチ込もうとしても、持たせられる情報量に限界が存在するらしい。つまり現代物理学で解釈する限り、あらゆる粒子を可能な限りブチ込んだ状態での情報量が、古典物理の棒一本、もっと言えば粒子一つに負けてしまうのである。
「知ってる。量子力学では測定精度というのは限界があって、無限の観測精度を得る事は不可能なんでしょ?」と少し物理をかじった人なら思い当たるかもしれないが、そうはいかない。非相対論的な量子力学に従う限り、粒子が持っているエネルギーが大きければ、その分だけ長さの不確定性を短く取る事ができるのである。たとえば、ある限られた空間で起こる光=電磁場の波(限られた空間なので定在波[1]をイメージするといい)を考えると、基底振動の他に2倍振動、4倍振動と無限の振動モードが存在する。高い振動モードを励起するためにはその分大きいエネルギーが必要になるが、仮に無限のエネルギーをぶち込めるとするなら、棒の時と似たような考え方で無限の情報を記録できるのである。
さて、ここで現代物理学のもう片方、一般相対性理論が効いてくる。相対論において質量とエネルギーは等価である。エネルギーを無限にぶち込むという事は、質量を無限にぶち込む事と等価である。何が起こるだろうか。そう、詳しい人なら一瞬で気付いただろう。ブラックホールが出来るのである。
ホーキング以前、ブラックホールは光すらも脱出できない黒い球だと考えられていて、そこに落ち込んだ情報は二度と帰ってこないと思われていた。ところが、量子力学の考え方によれば情報は決して消滅しない物でないといけない。ホーキング氏はまずブラックホールは真っ黒どころか熱放射を行っており、小さいブラックホールならあっという間に質量を失って消えてしまう事を明らかにした。しかしだからといって事象の地平面(イベントホライズン)の向こうに消えたはずの情報が返ってくる事はナンセンスであり、ホーキングは「エネルギーが戻ってきてもそれはランダムな熱運動であり、情報は戻って来ないだろう」という考えで、とある若手たちと賭けをした。しかし、最終的にホーキングは負けを認めたそうである。
つまり、情報は戻ってくる。というより、事象の地平面より向こうには行かない。地平面自体が、きわめて大きな情報を蓄える事ができる存在であり、ある空間が持つ事ができる情報量の最大値は、その空間がブラックホールの事象の地平面に囲まれた時の情報量に等しいのである。となれば「情報量の上限値は、その空間領域の体積ではなく、表面積に比例する」という題目も理解できるだろう。つまり、この状態における情報量は、事象の地平面の面積に比例するのである。
平面でしかないものに高次元の情報を記憶できる事から、いわゆるホログラフィーに関連付けられるだろう。「ホログラフィック仮説」と呼ばれるものがベッケンシュタイン境界を内包するより強い概念として、一部では既に「原理」と扱われているが、果たして……
ここからただちに分かるのは、シミュレーションというものの限界であろう。ある空間に起こる全ての事象をシミュレーションするには、同じ体積を持つ別の空間が必要となる。これにより、「全世界を正確にシミュレートするコンピュータ」なるものの存在が不可能である事は確実に言える。SFなどで出てくるシミュレーテッド仮説はこれによって既に破綻しているのだが、SF文脈ではこの件はあまり重要視されていないようである。今後のSF作家たちの頑張りに期待したい。
ベッケンシュタイン境界は以下の形式で表される。
| S≦ | 2πkRE | ||
| ℏc |
ここで、S はエントロピー、k はボルツマン定数、R は与えられた系を囲むことの可能な球の半径、E はすべての不変質量を含む全質量エネルギー、ħ はディラック定数、c は光速度である。
さらに、プランクスケールを考えてみる。プランク長さlpとプランク質量mpは以下で表される。
| lp=√ | ℏ G | ||
| c3 |
また、
| mp=√ | ℏ c | ||
| G |
また、E=mc2を一番上の式に代入して、それぞれプランク長さとプランク質量をR、Eまたはmpとして式を整理すると、
S ≤ 2 π k
となる。
プランクスケールで考えたとき、エントロピーが定数となってしまった。プランクスケールとは、現在、わかっている物理現象の限界のスケールといえる範囲である。つまりは、エントロピーの最小単位で限界値である。
次に、ブラックホールの熱力学について考えてみよう。ブラックホールのエントロピーSは以下で表される。
| SBH= | kA | ||
| 4lp2 |
ここでAは事象の地平線の表面積4πR2であり、k はボルツマン定数、lpはぷらんくながさである。もう、なんとなくお分かりかと思うが、Rをプランク長さlpとすると、エントロピーが定数となる。
なんとなく、理解ができたのではなかろうか。
ナイーブには上記の通り高校生でも理解できる形に落とせる概念なのだが、純粋にすべてを数式のみでこれを導くのはなかなか難しいのである。ひも理論はこれに成功しているとの事だが、ひも理論が不自然すぎると否定する立場からこれを導出できたという話はなかなか聞こえてこない。今後の物理学者たちの頑張りに期待したい。
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最終更新:2025/12/24(水) 15:00
最終更新:2025/12/24(水) 14:00
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