効率賃金仮説(efficiency-wage theories)とは、経済学の用語の1つである。
効率賃金仮説は「労働者に支払う名目賃金を市場均衡水準よりも上げれば、職場の生産技術が向上し、職場の利益が増える。労働者に支払う名目賃金を市場均衡水準まで下げれば、職場の生産技術が劣化し、職場の利益が減る」と考える思想である。
経済学者のN・グレゴリー・マンキューは効率賃金仮説を4つに分けて紹介している[1]。それを紹介すると次のようになる。
1.の思想は、使用者が労働者に市場均衡水準よりも多くの名目賃金を支払うことで、労働者の肉体を市場均衡水準の名目賃金を得るときよりも健康にさせ、労働強化をするものである。
労働強化とは労働時間内における労働者の筋肉運動量や思考量を増やさせることであり、労働時間を一定にしたままでそれを行うことで企業の収益が増える。労働強化は職場における生産技術の向上の一形態である。
名目賃金を市場均衡水準よりも高くすることで発生する費用の増加額よりも、労働者の肉体が市場均衡水準の名目賃金を得たときよりもさらに健康になって労働強化が達成されることで発生する収益の増加額が大きければ、企業は利益を増やすことができるので、企業は1.を行う。
発展途上国の企業が1.の思想を持つことが多いが、先進国の企業が1.の思想を持つことは少ない。先進国は市場均衡水準の名目賃金であっても良好な健康状態を維持するのに必要な水準をはるかに上回っているからである[2]。
先進国において、名目賃金を市場均衡水準よりも高くして費用を増やしても、労働者の肉体が市場均衡水準の名目賃金を得たときよりもさらに健康になって労働強化が達成されることで発生する収益の増加額がほとんどゼロに近く、利益を減らしてしまう。このため先進国の企業は1.の思想を持たない。
2.と3.はだいたい同じで、使用者が熟練労働者に市場均衡水準よりも多くの名目賃金を支払って熟練労働者の離職を防ぎ、熟練労働者が未熟労働者と交代することを阻止するものである。言い換えると、熟練労働者が摩擦的失業をすることを防ぐためのものである。
熟練労働者が未熟労働者と交代することは、生産技術を持つ優れた労働者が生産技術を持たない劣った労働者と交代することであり、職場における生産技術の劣化の一形態である。
使用者が「賃金という費用を市場均衡水準よりも多く払って熟練労働者が未熟労働者と交代しないようにすることで、未熟労働者によって発生する教育費という費用を削減できる」と想定して2.を行う。人件費の増加額よりも「人件費を増額しなかったときの教育費の増加額」が大きいのなら、企業は費用の増加を食い止めることができる。「熟練労働者Aが未熟労働者Bと交代したあとに未熟労働者Bを熟練労働者Aと同様にまで教育するのに1年で100万円の費用がかかる」というとき、熟練労働者に対して1年30万円の費用を追加で支払ってその熟練労働者の離職を防いだのなら、その職場は費用の増加を100万円から30万円にまで食い止めることができる。
使用者が「賃金という費用を市場均衡水準よりも多く払って熟練労働者が未熟労働者と交代しないようにすることで、未熟労働者によって発生する収益の減少を阻止できる」と想定して3.を行う。人件費の増加額よりも「人件費を増額しなかったときの収益の減少額」が大きいのなら、企業は利益への下落圧力を小さくすることができる。「熟練労働者Aが未熟労働者Bと交代すると1年で100万円だけ収益が減ることが予想できる」というとき、熟練労働者に対して1年30万円の費用を追加で支払ってその熟練労働者の離職を防いだのなら、その職場は利益への下落圧力を100万円から30万円にまで食い止めることができる。
2.と3.はいずれも熟練労働者に対して正の外発的動機付けを掛けて正のインセンティブを与えるものであり、熟練労働者に対して職場に残留するという行動をとらせようとするものである。
4.の思想は、いわゆるモラルハザードを防ぐために使用者が労働者に市場均衡水準よりも多くの名目賃金を支払うというものである。
経済学におけるモラルハザードとは、労働者が使用者の監視を完全に受けない状況を悪用しつつ仕事をしているふりをして企業の費用を増やしたり収益を減らしたりして企業の利益を減らすことを指す。小売業や卸売業において労働者による在庫の窃盗というモラルハザードが発生しうるし、銀行業などのように情報を扱う業務において労働者による情報の窃盗というモラルハザードが発生しうるし、すべての企業において労働者による怠慢というモラルハザードが発生しうる。
小売業や卸売業において労働者が在庫の窃盗をすると企業は棚卸減耗損という費用を計上することになる。銀行業において労働者が情報を窃盗してその情報を欲する業者に売りさばくと銀行は信用を失って顧客を失い収益を減らす。すべての企業において労働者が怠慢になると企業は収益を減らす。いずれの場合でも企業は「収益-費用=利益」で計算できる利益を減らす。
モラルハザードは、労働時間の最中に労働をせず犯罪や怠慢をするということであり、労働強化の逆である。労働強化の逆は職場における生産技術の劣化の一形態である。
モラルハザードを防ぐことはどこの職場にとっても重要な課題である。監視カメラや盗聴器を徹底的に張り巡らせるなどの手段を講じればモラルハザードを十分に防止できるが、そうしたことをすると労働者が萎縮して労働に集中しきれなくなり、労働強化の逆となり、職場の収益と利益が減るので、なかなかそういう手段を選択できない。
4.はすべての労働者に対して正の外発的動機付けを掛けて正のインセンティブを与えるものであり、すべての労働者に対して使用者の監視が届かない場所において良心的な行動をとらせてモラルハザードを防止しようとするものである。
労働に関する言葉の中に職務専念義務というものがある。職務専念義務とは、就業時間中において職務遂行のために肉体的精神的活動力のすべてを職務に集中させる義務のことである。
日本の公務員は法律によって職務専念義務を課せられているし、日本の民間の労働者も労働契約や就業規則によって職務専念義務を課せられていることが多い。日本の労働者は職務専念義務を守らないと解雇などの懲戒処分を受ける立場に置かれており、日本の労働者は負の外発的動機付けを掛けられつつ職務専念義務を課せられている。
効率賃金仮説の4.は、「労働者に職務専念義務を課すためには、懲戒処分をするなどの負の外発的動機付けを掛けるだけでは不足であり、賃金を市場均衡水準よりも上げるなどの正の外発的動機付けを掛けることが必要である」という考え方から成り立っている。
1.~4.の共通点は、職場の生産技術を維持したり向上させたりすることである。
国家レベルでいうと、生産技術は資本量や労働時間とともに国家の実質GDPを決定するものである。国家の生産能力を計算する生産関数の1つにコブ=ダグラス生産関数があるが、その生産関数に数値を入れてみると、生産技術を増やすことで実質GDPを増やせるということを確認できる。
企業レベルでいっても、生産技術は資本量や労働時間とともに企業の生産力を決定するものである。
効率賃金仮説という思想を持った職場は、自らに対して自主規制を掛け、名目賃金の最低額を労働市場均衡水準よりも高めに保つ。
そして、その職場は雇用数を労働市場均衡水準よりも少なく保つことになる。このため効率賃金仮説に基づく自主規制は構造的失業の一因となる。
効率賃金仮説の2.や3.に基づいて名目賃金最低額を市場均衡水準よりも引き上げると、それによって摩擦的失業が減るが、一方で構造的失業が増える。
効率賃金仮説の2.や3.を放棄して名目賃金最低額を市場均衡水準に近くなるまで引き下げると、熟練労働者が職場に不満を持って「この職場では幸福になれない」と考えて職場に対する確信を失って離職して摩擦的失業が増えるが、一方で構造的失業が減る。
効率賃金仮説の2.や.3.による摩擦的失業の減少と、構造的失業の減少は、トレードオフの関係にあって2つとも同時に達成することができない。
労働組合が存在しない企業や御用組合だけが存在する企業において労働者は強力な労働運動をすることができない。
そうした企業において労働者の頼みの綱となるのは効率賃金仮説である。労働者は、使用者に聞こえるように「賃金が安すぎて生活が苦しい。このままでは転職を検討しなければならない」などと愚痴を言い、使用者に「効率賃金仮説に基づいて名目賃金の最低額を市場均衡水準よりも上昇させよう」と思わせて、使用者が名目賃金最低額を引き上げるように誘いかけることができる。
1914年にヘンリー・フォードが率いるフォード社は日給を5ドルに定めた。このときの一般的な日給は2~3ドルだったので、フォード社は労働市場均衡水準よりもずっと高い名目賃金を支払ったことになる[3]。
当時書かれた経営レポートによれば、「フォード社の高賃金は、惰性や経営に反抗する気運を一掃した。・・・・・・労働者はすっかり従順になった。1913年末以降、フォード社の人件費は連日のように低下してきたといっても過言ではない」とある[4]。
またフォード社の欠勤率は75%も減少し、同社に勤務する労働者の労働意欲の大幅な向上を示唆している[5]。
フォード社の初期の歴史を研究したアラン・ネビンスは、「フォード氏をはじめとする経営陣は、高給策が良策だったと、ことあるごとに表明していた。高給策が労働者の規律を高め、会社への忠誠心を高め、個々の労働効率を高めたからである」と書いている[6]。
以上のことから、ヘンリー・フォードは効率賃金仮説の支持者の1人とされている。
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