富山県内における最古の真宗系寺院であり、富山(越中)における浄土真宗布教に大きな役割を果たしてきた。特に戦国時代においては一向一揆の一大拠点として栄えたのは有名である(後述)。
江戸時代以降には木彫りが発展し、今でも多くの職人が住まう瑞泉寺周辺は南砺市有数の観光地として有名である。
瑞泉寺は明徳元年(1390年)に本願寺第五代・綽如によって創建されたものの、綽如は創建時には既に高齢だったのでその数年後には亡くなってしまう。
綽如の死後約40年程瑞泉寺では無主の時代が続いたが、綽如の孫如乗(本願寺第六代・存如の弟)が京での足利義教の恐怖政治を逃れる形で瑞泉寺にやってきたことで無主の時代は終わりをつげる。
長禄元年(1457年)に本願寺第七代存如が亡くなると、本願寺では後継者問題が浮上した。正室の子ではないが長男の蓮如と正室の子応玄が候補として挙がっていたが、如乗の強い支持によって蓮如が本願寺の第八代を継ぐこととなる。このような一連の経緯から瑞泉寺は本願寺と強い結びつきを持つようになり、瑞泉寺は浄土真宗教団の中でも特別な地位を占めることとなる。
蓮如が本願寺座主を継いだことで浄土真宗教団は急速に拡大し、越中も含めた北陸諸国に浄土真宗は浸透していった。越中における信徒拡大の中心を担ったのは瑞泉寺であり、さらに如乗が加越国境地帯の二俣に築いた本泉寺は加賀における重要な拠点の一つとなっていった。
加賀守護富樫政親は浄土真宗の拡大に危機感を覚えて領国内の門徒衆を弾圧したが、加賀において弾圧された一部の門徒や有力な僧は瑞泉寺に逃げ込んでいた。これを知った富樫政親は砺波郡福光城の石黒光義に瑞泉寺を討つことを依頼し、石黒光義は砺波郡の国人層や医王山にある天台宗系の惣海寺などを糾合し瑞泉寺に向けて軍を発した。瑞泉寺に集まった門徒衆は砺波郡西部の田屋川原においてこれを迎え撃ったが、加賀に住む門徒衆が手薄となった福光城・惣海寺に攻め入ってこれに火を放ったため、石黒氏側の軍勢は戦意を喪失し瑞泉寺門徒衆に大敗を喫した。
これを後世田屋川原の戦いと呼び、これ以降瑞泉寺は砺波郡における世俗領主としての地位も兼ねるようになったとされる(田屋川原の合戦は同時代史料の裏付けがないために存在を疑問視されているが、福光石黒家と惣海寺がある時期を境に没落しているのは事実なため田屋川原の合戦に類する何らかの事件は存在したと考えられている)。
瑞泉寺如乗は田屋川原の合戦以前に亡くなっていたが、その妻の勝如尼が蓮如の次男・蓮乗を婿として迎え後継者としていた。これに加えて勝如尼は如乗が築いた(加賀)二俣本泉寺と瑞泉寺を結ぶラインの中間にあたる位置に土山御坊(後の勝興寺)を築いている。土山御坊は幾度か場所を変え、名前を変えつつ最終的には勝興寺を名のり、瑞泉寺と並ぶ越中における一向宗の二大領袖の一つとなる。
蓮乗は義母勝如尼の助けを借りて瑞泉寺-土山御坊-本泉寺を結ぶラインを掌握、土山御坊を弟の蓮誓に、本泉寺をもう一人の弟の蓮悟に与えて本願寺による支配をより強固なものとした。
永正三年には北陸全土で一向一揆が起き、北陸の有力武将達はこれに共同して対処することとなる。七月には加賀・能登の門徒衆とともに越中の門徒衆の一部は越前の朝倉家攻めに参加した。一向宗軍・朝倉軍は九頭竜川で激突したが、朝倉家のチート爺・朝倉宗滴に大敗し越前侵攻は断念せざるを得なくなった(九頭竜川の戦い)。
一方有力な統一勢力のいない越中の武士達は一向一揆に対処することができず、一部の武将は隣国越後に逃げ込んだ。この事態に越後の守護代・長尾能景は越中への遠征を行うが、越中の有力武将・神保慶宗などが一向一揆と組んだために敵中で孤立し栴檀野にて戦死した(般若野の戦い)。
一連の戦役で能景の首級を除いて一向一揆は目立った戦果を挙げることができず、本願寺内では不満や内部対立が生じ後の内部抗争(大小一揆)に繋がってゆくこととなる。一方、九頭竜川の戦いによって加賀一向宗-越前朝倉氏を繋ぐ北陸道は封鎖され、越前を追われた超勝寺・本覚寺といった越前の有力寺院は越前→美濃→飛騨→五箇山を通るルートで越中に入り拠点を構築した。以後五箇山-飛騨-近畿方面のルートは北陸道を封鎖された一向宗にとって重要な交通ルートとなる。
永正三年の一揆以後の越中では長勝寺・本覚寺の進出・勝興寺の末寺形成運動に加え、越中中部の実力者・神保慶宗が積極的に一向宗と結んだために一向宗は越中全域に広まりつつあった。しかし当時北陸方面を取り仕切る立場にあった本泉寺蓮悟は周囲の守護大名との軋轢が生ずること、または一向宗内で門徒獲得のための内部抗争が起こることを恐れて永正十三年頃には新坊の設立を禁じた。
しかし、時すでに遅く永正十六年には父の仇への復讐に燃える長尾為景らが勢力拡大を続ける一向宗・神保慶宗討伐のため越中に侵攻し、越中の主立った国人は軒並み滅ぼされた。畠山家によって新川郡(現富山県東部)の守護代に任ぜられた長尾為景は一向一揆の禁止令を出し、一時的に越中における一向宗の拡大は新川郡を中心として抑制されてゆく。
一方、大永五年(1525年)には本願寺第九代・実如の死に端を発する本願寺内の内部抗争である大小一揆(享禄の錯乱)が起こっていた。大小一揆では穏健派たる本泉寺蓮悟ら小一揆側(旧派)が、本願寺第十代・証如の縁者である顕証寺・勝興寺・長勝寺ら大一揆側(新派)に敗れた。この一連の抗争を通じて瑞泉寺・勝興寺は半ば独立状態となり、本願寺も越中における在地紛争・知行問題に非介入の立場をとってゆく。
天文十二年(1543年)に長尾為景が病死したとの報を聞いた神保長職は恐らく一向宗の助けも借りて神通川を渡河、富山城を築いて長尾家の支配下にある椎名長常との抗争を始めた。この戦いは能登畠山家の仲介を得て一旦和睦が成立するが、神保家と椎名家の対立は解消されずむしろ拡大し後に越中大乱と呼ばれる越中全体を巻き込んだ抗争に拡大してゆく。
本願寺第十一代・顕如が如春尼と結婚することで顕如と武田信玄は義兄弟の関係となり、本願寺は東国の複雑な政治状況に巻き込まれてゆく。こうして越中では本願寺・武田家の支援を受けた神保長職と長尾家(上杉家)の支援を受けた椎名康胤が戦うという構図が作られる。
石山本願寺における長い攻防戦の末、遂に本願寺顕如は石山を退去した。顕如の息子教如は父に反対して徹底抗戦を主張したが、天正八年には遂に織田信長に石山を明け渡した。そして、これと時を同じくして北陸の一向一揆の拠点であった金沢御坊もまた柴田勝家によって陥落し、加賀の一揆勢は壊滅した。これによって瑞泉寺は織田軍の脅威にさらされることとなる。
織田信長はかつて越中を追われた神保長住を起用し、彼を飛騨方面から、そして佐々成政を加賀方面から越中に侵攻させた。瑞泉寺は同盟者である上杉景勝に救援を頼んだが時既に遅く、天正九年(1851年)に瑞泉寺は佐々成政に攻め落とされ、焼き討ちを受けた。
以後瑞泉寺は佐々成政の支配下に入り、一向一揆の拠点としての力を失っていくこととなる。本能寺の変に続く一連の争乱で羽柴秀吉と佐々成政が対立すると、秀吉は成政の後方攪乱を頼む書状を瑞泉寺に送っている。
やがて佐々成政が羽柴秀吉・前田利家に敗れ、肥後に転封となると瑞泉寺を含む砺波郡は前田家の領地に組み込まれることとなった。これ以降、明治維新に至るまで瑞泉寺は幕藩体制の下で加賀藩の支配下に置かれることとなる。
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最終更新:2024/05/27(月) 11:00
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