| OB | |
|---|---|
| 荒井幸雄 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
| 生年月日 | 1964年10月13日 |
| 身長 体重 |
170cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1985年 ドラフト2位 |
| 引退 | 2000年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
横浜商業高等学校に進学。強打の外野手として活躍し、3年春の甲子園大会に出場し、ベスト4まで勝ち進むもPL学園相手にサヨナラ負けを喫している。高校通算では43本塁打を放っている。
卒業後は日本石油に就職。1984年のロサンゼルスオリンピックの日本代表メンバーに選出され、4番打者として金メダル獲得に貢献。1985年の都市対抗野球大会にも4番打者として出場している。
1985年ドラフト会議にて、ヤクルトスワローズから2位指名を受け入団。
入団2年目の1987年、若松勉に代わり1番レフトとしてレギュラーに定着。規定打席に到達し、打率.301、9本塁打、38打点の成績をマークし、新人王にも選ばれた。
1988年、開幕からスタメンで起用されたものの、故障により約3ヶ月戦線から離脱。
1989年、控えとしてスタートしたが、衰えの見られた杉浦享に代わりスタメン起用が増え、主に3番打者として打率.272の成績を残した。翌1990年は打率.282の成績を残す。
1991年からは城友博や笘篠賢治、秦真司らとの併用されることが増え出場機会を減らしたが、1992年の日本シリーズでは全試合に2番レフトで起用されるなど首脳陣からの信頼は厚かった。
1993年、2番レフトとしてレギュラーに復帰すると、規定打席にも到達し、セ・リーグ9位の打率.291、9本塁打、35打点の成績をマークし、チームのセ・リーグ連覇・日本一に大きく貢献した。
1994年からはジェラルド・クラークの加入や真中満・稲葉篤紀らの台頭もあり再び控えに回る。
1996年、近鉄バファローズへトレードで移籍。初年度は主に指名打者として出場機会を得たが、1997年にはフィル・クラークにその座を奪われ、13試合の出場に終わる。
1998年、無償トレードで横浜ベイスターズに加入。畠山準とともに代打の切り札として活躍、打率.261、1本塁打、5打点の成績でチームの38年ぶりのセ・リーグ制覇・日本一に貢献。
翌1999年も代打として打率.279、3打点と活躍。しかし、2000年は出場機会を失い、同年限りで現役を引退した。
引退後は古巣のヤクルトや北海道日本ハムファイターズ、読売ジャイアンツなどでコーチを務めた。
高い打撃センスと勝負強い打撃で打線を支えたつなぎ役。小柄ながらパンチ力の高さも魅力であった。
千葉マリンスタジアムの公式戦で初めて本塁打を記録した選手でもある。ちなみに、ランニングホームランで記録されたもの。
スクイズのサインを見落とし、野村克也監督からヘルメットごしに頭を叩かれたことがある。なお、野村は荒井に謝罪済みである。
| チーム | No. | プレイヤー |
|---|---|---|
| ヤクルトスワローズ | 11449 |
| 通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1042 | 3288 | 2893 | 343 | 782 | 55 | 276 | 34 | 54 | 19 | 308 | 14 | 299 | 39 | .270 | .341 |
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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