| OB | |
|---|---|
| 高代延博 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 奈良県吉野郡 |
| 生年月日 | 1954年5月27日 |
| 身長 体重 |
170cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
| 引退 | 1989年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
智辯学園高等学校へ進学。内野手兼投手としてプレーし、3年春の近畿大会で優勝するなど活躍したが、甲子園大会に出場はできなかった。
卒業後、法政大学へ進学。1学年下には江川卓がいた。小柄な身長を理由に出場機会を得られなかったが、地道な努力を続け、3年春のリーグ戦でようやくベンチメンバー入りすると、3年秋のリーグ戦ではレギュラーとして活躍し、打率.500をマークし首位打者とベストナインを獲得。4年時には首相を務め、明治神宮大会優勝を経験し、卒業までに3度ベストナインに選ばれた。
大学卒業後、東芝に入社。中心選手として活躍し、都市対抗野球大会に2年連続で出場し、1978年大会では優勝を果たしている。また、1977年には社会人ベストナインに選出され、日本代表にも選出されている。
1978年ドラフト会議にて、森繁和のクジを外した日本ハムファイターズから1位で指名を受け入団。
初年度の1979年、開幕戦からショートのレギュラーとして活躍。123試合に出場し、打率.249、7本塁打、47打点、14盗塁を記録。オールスターゲームにも初出場を果たした他、新人としては初めてダイヤモンドクラブ賞に選ばれた。
1980年、打撃面では打率を.269と前年より向上させ、ベストナインにも選ばれた。一方で、売りである守備ではパ・リーグワーストの25失策を記録するなど精彩を欠いた。
1981年、4月に足首を脱臼するなど離脱期間があったが、2本の満塁本塁打を記録するなど活躍を見せ、チームのパ・リーグ制覇に貢献。
1985年、自身初の二桁本塁打となる11本塁打を記録した他、球団新記録となる41犠打を記録するなど、繋ぎの役割でもチームに貢献した。
1987年、田中幸雄の台頭もあり、ショートの定位置を失い、サードでの起用が増える。
1988年、10試合の出場に終わり、シーズン終了後、トレードで広島東洋カープへ移籍。
広島では控えの内野手として24試合に出場したが、同年限りで現役を引退。
引退後、広島でコーチとしてのキャリアを歩みはじめ、以降古巣の日本ハムを始め、中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズ、オリックス・バファローズ、阪神タイガース、韓国のハンファ・イーグルスなどでコーチを務めた他、2009年・2013年野球日本代表(侍ジャパン)でもコーチを務めた。
鉄壁を誇る守備力と、勝負強く小柄ながらパンチ力のある打撃で活躍した内野手。特に満塁の場面で強さを見せた。
30年以上もの長きに渡りコーチとして過ごし、三塁ベースコーチとして走塁判断に長け、本塁憤死数が非常に少なかったことから「日本一の三塁ベースコーチ」と称された。
| 通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 917 | 3482 | 3011 | 406 | 772 | 57 | 346 | 54 | 151 | 29 | 260 | 30 | 291 | 64 | .256 | .319 |
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
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