高倉照幸(たかくら てるゆき)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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高倉照幸 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県北九州市 |
生年月日 | 1934年12月8日 |
没年月日 | 2018年2月12日 |
身長 体重 |
172cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1953年 |
引退 | 1970年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
生まれは福岡県だが戦時中に熊本県に疎開し、戦後も熊本県で生活を送る。
熊本商業高等学校へ進学。元々は実家が鉄工所を経営していたため熊本工業高等学校へ進学希望だったが、入学願書提出の日時を間違えたのか直前で締め切られてしまい、熊本商業高校に変更している。2年時に春の甲子園大会に出場し、ベスト8で敗退したものの大会唯一の本塁打を放ち、注目された。
入団2年目の1954年、センターのレギュラーに定着し、打率.255、3本塁打、16打点、5盗塁でチームの初優勝に貢献。
1955年、打率.276、17本塁打、71打点、33盗塁と成績を伸ばす。翌1956年には35盗塁を記録。同年はオールスターゲームにも初出場し、以降1961年から1966年にかけての6年連続出場を含めて9度オールスターゲーム出場するなど、パ・リーグを代表する外野手として活躍。
1957年、1番打者に定着。中西太をはじめ、豊田泰光、大下弘、関口清治ら強力打線の切り込み役を務め、打率.279、11本塁打、40打点、17盗塁をマーク。
以降も西鉄打線の中心選手として活躍し、1959年には打率.304、17盗塁でベストナインに初選出。1964年、1966年にもベストナインに選ばれた。この他、1963年にはキャリアハイとなる27本塁打を放ち、1965年にはオールスターゲーム第2戦目で決勝打を放ちMVPを受賞している。1966年にはコーチ兼任選手としてプレーした。
1967年、資金難に陥った西鉄に経費削減を目的に読売ジャイアンツにトレードを持ちかけられ、巨人へ移籍することになった。
巨人では王貞治・長島茂雄の後ろを打つ5番打者として勝負強さを発揮し、相手チームの驚異になったものの、故障や高田繁の台頭もあり出場機会が減少。1968年オフに球団からコーチ補佐兼スカウトの役職を打診されたがこれを拒否し自由契約に。その後、アトムズへ移籍した。
アトムズでは代打や控えの外野手として活躍し、2年目の1970年には打率.312を記録したが、同年限りで現役を引退した。
引退後はスナックを経営。また少年野球の監督としても長く活動し、2014年には文科省から表彰されている。2016年には西鉄ライオンズOB会の会長に就任。太平洋クラブ以降のOBにも入会してもらおうと、「西鉄」の文字を外し、「ライオンズOB会」に改称させた。
思い切りの良いプレーを持ち味とし、強肩・強打・俊足の外野手として活躍した西鉄黄金時代の切り込み隊長。1963年にはNPB最多タイ記録となる6本の先頭打者本塁打を記録している。
趣味は機械いじりと車であり、特に車は高級外車を買い漁り、オフには整備に明け暮れるなどかなりの入れ込みようだったという。
通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1793 | 6343 | 5831 | 782 | 1611 | 168 | 641 | 178 | 62 | 26 | 383 | 48 | 808 | 97 | .276 | .324 |
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最終更新:2024/12/22(日) 17:00
最終更新:2024/12/22(日) 17:00
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