龐徳とは、三国志に登場する人物である。
後漢末期に馬騰、馬超親子と曹操に仕えた知勇兼備の名将。
西涼の勇士として名を馳せ、演義では呉の陳武を斬り、魏延を退け、許褚と関羽とは互角に渡り合った。
最期は関羽との戦いで捕縛され処断された。
馬超の父・馬騰が一目置いた猛将で、曹操軍の援軍として袁尚軍と戦った際には、馬超の指揮の下で敵大将の郭援を討ち取る功績を挙げる。
馬騰死後は馬超に仕え曹操と戦う。敗北後は馬超に付き従って張魯へと身を寄せる。
馬超との離別については史料により様々(DQN馬超についていけなくなった等)だが
『病のため馬超の遠征には参加せず、張魯が降伏したため魏の臣となる』が一般的である。
演義では、曹操軍侵攻に対し張魯の恩に報いるために奮闘。
しかしワイーロ好きの楊松によって孤立し、曹操軍に捕縛され降伏。
魏の将として、曹仁らと侯音による宛の反乱を鎮圧し、樊城に駐留した。
演義では関羽との戦いの前で、馬超と兄の
関羽との一騎討ちでは、弓矢で関羽を負傷させるのに成功。
水攻めを受けて絶望的な状況になっても抗戦し、捕縛されても命乞いも降伏もせず、
関羽によって首を討たれた。
関羽軍と戦った際、ホウ徳が白馬に乗り関羽軍を苦しめ、
白馬将軍と恐れられたことに由来する。
「白馬義従」と呼ばれる白馬のみで構成された精鋭部隊の公孫瓚とは由来が違う。
デザインはモジャ髭の武将として描かれている。馬超を若大将と呼び、後に曹操に仕え、樊城で関羽との決戦に臨む。
曹操に仕えた後、漢中攻防戦で馬超と対決する寸前のところまでいったが、(曹操、斜谷の城を出る→斜谷の城を馬超が攻める→魏延軍に出くわし、龐徳が魏延と一騎打ちをする→曹操軍総攻撃→魏延撤退、次に馬超を総攻撃するつもりも、馬超は既に斜谷から撤退していた。)運命の悪戯か両者の激突は無かった。
3「おのれ関羽!この先一歩も進ませんぞ!」とモブ時代から樊城では固有台詞があり、3Empiresではモブながら基本能力は優秀であった。
4で晴れてプレイヤー武将に昇格する。武器は双戟で典型的なパワータイプのキャラであった。しかし・・・
5でリストラの憂き目にあう。事典に名前がある程度であった(モブですらない)。Specialで馬超にストーリーモードが追加されても彼の姿は無かった。
6ではかつてリストラされた仲間が多数復活した。・・・しかしここにも彼の姿はモブですら無かった(三國無双クイズと事典に名前がある程度)。
さらに言うと樊城ステージでの彼は強化されていることが多いのだが、関羽の水計で
ダメージを全く与える必要がないまま撃破できたことはリストラ以上の黒歴史である。
…そんな長きに渡る不遇の時代を乗り越え、6猛将伝でようやくプレイヤー武将復帰が決定した。
そして無双OROCHI2でも登場。
どうやら今までくつろぎ方を知らなかったらしく、曹仁と鼻歌でくつろぐことを覚えた。
「ふふんふーん」
掲示板
63 ななしのよっしん
2023/05/03(水) 21:03:15 ID: plSl2ji9W2
ホーレーメー
64 ななしのよっしん
2023/05/15(月) 18:47:22 ID: zCTC/c8EAI
>>61
張飛が「小」だったのは劉備の挙兵時つまり184年だから、およそ170年かちょい前ぐらいの生まれで、関羽はそれに数歳先んじてるわけだから165年ぐらいの生まれでは?
龐徳は割といい家の出のようだが、20歳で校尉というのは流石に出世が早すぎる気もするのでもちょい上だとしても、やっぱし関羽とはほぼ同年代だと思う。
少なくとも小僧呼ばわりするほど年齢差はないのでは?
65 ななしのよっしん
2023/08/01(火) 22:01:44 ID: 6tPRlXyt2e
>>64
劉備の挙兵は184年の張角の黄巾の乱のときではなく、188年の張純の乱の時。理由は鄒靖は185年では北軍中候で、破虜「校尉」だったのが188年だから。ご指摘の年齢より4-5年ほどずれる。
龐徳は関羽より2-3歳年下だったと思うが、このくらいの年齢差だと義兄弟になるような親密な間でもないと中国人でも上下はあまり気にしないらしい。
なんで、「この野郎」くらいの意味で「小僧」とののしったのではないかと。
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最終更新:2024/11/30(土) 11:00
最終更新:2024/11/30(土) 11:00
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