T-34 単語

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T-34とは、第2次世界大戦時のソ連軍のとなり、その後も長きにわたり使用されている中戦車である。
ロシア語では「テー・トゥリーツァチ・チィトゥィーリ」と読む。

概要


初期ソ連の集大成ともいえる傑作戦車
当時のソ連戦車であるBT戦車スペイン内戦ノモンハン事件を経験し防御に問題が多いと解り、その機動を維持したまま強化することを的に開発された戦車である。
不可侵条約を結んだナチス・ドイツの侵攻によって開始した独ソ戦露:大祖国戦争 独:東部戦線)でⅢ号戦車Ⅳ号戦車に対抗できる中戦車として序盤から終盤まで使われた。
物量戦車であり、大戦中はT34/76が35,000輌以上、T34-85が25000輌以上、合計し戦後も含めると84,000輌以上が生産されたという。

誕生


快速戦車であるBTシリーズは機動は申し分かったもののスペイン内戦等でドイツの37mm対戦車等によってスパスパ貫通させられる事態が多発し機動を維持しつつ防御の増加を狙う新BT(A-20)計画がスタートした。
このA-20計画のサブ案としてA-32が登場する。
A-20とべA-32は機動で劣っていたが正面装甲が32mmと20mmのA-20より重防御でA-20の複雑な走行機した単純さ、A-20が搭載した45mmより強(年代的にはオーバースペック気味)な76mmを搭載していた。
どちらを採用するかで揉めたが採択中に冬戦争が勃発し、ますます装甲との重要性が上昇、A-20計画は破棄となりA-32は良ののちT-34として制式採用された。

戦史


独ソ戦開始当初は満足な数もノウハウも弾もなく(独ソ戦開始時T-34用弾は備蓄12%!)経験豊富なドイツ軍されていた。
しかし41年中期から猛速度での量産体制に入ったT-34はドイツ軍モスクワ攻略時に大量投入されモスクワ防衛に貢献する。
その後42年、43年と良を加えつつ44年にはT-34より強ドイツ軍戦車であったティーガーパンターに対抗する為のT-34-85が登場、大戦末期には膨大な犠牲の上運用ノウハウも上昇し損を大幅に上回る数もえた本は数々の反攻作戦でのソ連戦車を務め、独ソ戦ソ連勝利となって終了する。
余談だが戦後あっちこっちに輸出され、朝鮮戦争の初期は大きな戦果をあげたり、その後も中東戦争ベトナム戦争ユーゴスラビア紛争などなど息の長い活躍をしている。今でもアフリカアフガンでは運用されているそうな。

性能


一言で言えば機動、防御火力バランスが良い性
幅広履帯は軟弱地の多いソ連土で機動を発揮し、傾斜装甲によって実厚以上の防御を誇り、火は過剰気味な程に強だった。
だが積極的に傾斜装甲を取り入れたため内部は極めて狭く初期のには2名しか入れなかった為長が撃手も兼用するという有り様、各種機器も抜群の性!とはお世辞にも言えず照準装置やクラッチ異常な重さ等欠点も数多く、線に至っては43年までは積んでないT-34も多々あった。
戦闘面で言えば独ソ戦当初はドイツ戦車Ⅲ号戦車が立たずⅣ号戦車がギリギリ対抗可な状態であり基本スペック値は独戦車を圧倒していた、それに加えそれまでドイツ軍での戦車であった37mm対戦車弾を命中させてもコンコンノックする事しか出来なくなった為ドア・ノッカーとの不名誉な称号を頂くこととなりドイツ兵器に多大なを落とした(T-34ショック
しかしT-34無双を黙って見ているドイツでもⅣ号戦車タイプの応急処置で時間を稼ぎ75mm対戦車生産やティーガーパンターと言った化物達を生み出し対抗する。
当初無双を誇ったT-34スペックも上記の欠点を減らす良、装甲増加を何度か行っていたがこの時期になると多大な良を加えたⅣ号戦車トントンでありティーガーパンターにはとなっていた。
それに対抗し44年に85mmを搭載した新(T-34-85)が登場、未だに能面ではティーガーパンターに並ぶこと敵わなかったがギリギリ対抗可となり後述する生産性は維持したままであった。

生産


T-34は極めて多くの生産数を誇るがシンプルな設計や生産性良等にを込めた結果である。
設計もに差が大きいソ連工場や過酷なソ連の気を考慮し部品毎の遊びも多にとり信頼性も高めた。
論その分性は低下する)
42年までは性良案等は生産を阻するとして全て却下していた、質より数を取ったのである。

その代わり生産性向上にはを入れT-34部品数は3分の2に、価格と生産時間は半分にまで向上させる事に成功している

ただし急ぎに急いだ生産である為42年までの鋳造は敵弾が当たると貫通するのではなく割れと言った質が極めて悪いモノも度々あり戦車兵達が席に乗るのを避けた時期もある、表面仕上げ等も省かれ鋳造バリがデカデカと残り最初期T-34のようなピカピカな外見は大変に悪化した。(性能面では妥協しなかったが)
前線のT-34数が安定してきた42年後半からは性良案も認め始めたが生産性を大幅に下げるモノは未だ認められなく大規模であるT-34-85の生産開始は44年だがドイツまでには生産数25000輌を誇っている
(同じ44年からドイツまで生産されたドイツⅣ号戦車J3000程である)

戦車兵として見れば性向上に前向きでなかった事は悔やむべきだが1人の兵として見れば
周囲を見渡せば必ずT-34がいるという現実を与えた

ソ連のT-34ショック


独ソ戦勃発後、ドイツ軍は各地で出現したT-34、KV-1KV-2といったソ連戦車に対して衝撃を受けたことは有名な話である。

それを巷では「T-34ショック」と呼称されるが、実はソ連も「ショックを受けていたりする。

ことの発端は、1940年独ソ不可侵条約の交渉にて、ドイツから手に入れたⅢ号戦車とT-34を較したさいである。その較試験によってソ連Ⅲ号戦車べ装甲・武装では確かにT-34の方が優れていたが、機動・乗員の効果的な配置・トランスミッション系統・エンジンの静粛性といった様々な面で衝撃を受ける。実際にT-34の問題点は「大量生産」といった物量で補っている部分もあった為、個々で対するするさいには、その車両の搭乗員のに左右されることを意味した。(戦車は機能面についてのスペックも重要であるが、搭乗するのは「人間」であることを留意しなければならない)

この報告に対してソ連軍の首民人民委員部クリーク元帥装甲車両総局長フェドレンコ、西部方面軍官D・G・パブロフ)は事態を鑑みたのか、「T-34完成するまでは、前であるBT-7Mの生産に注するべき」と進言している(この提案は却下され、後日様々な失態を犯したクリーク元帥達は軍法会議行きとなる。これは余談であるが、クリーク元帥スターリンに対して大粛清への意見状をつきつけた一の人物であり、独ソ戦前~初期におけるT-34用弾生産を妨したのも彼である)

その重装甲・武装・優れた生産性をもってドイツ衝撃を与えたT-34であるが、一方でソ連もT-34を介してドイツ戦車衝撃を受けていたという事実も記しておきたい。

※M・バリチャンスキー「T-34 第二次世界大戦最良の戦車」より

総評


大戦中、本より基本性能面で勝った戦車は数多いが中々の性と生産数を誇る戦車は現代まで続く戦車史の中で間違いなく最優良戦車の1つであり独ソ戦におけるソ連勝利に貢献した割合は決して少なくいだろう。

余談


T-34ショックを受けたドイツではT-34に対抗する為の戦車はT-34のコピーでというドイツにとってはしい提案が出た、T-34調の結果エンジンアルミでありアルミに苦しんでいたドイツコピー案を見送る事になった。
だがここでの調結果は新戦車設計に強いヒントとなり有名なパンター等が誕生している。


また信頼性が高い本であるがそれを明として荒れ地や沼に棄されていたT-34が燃料を入れるだけ、あるいは工具程度の簡単な整備で自走可となったエピソードが豊富でTV等で見たという方も多いはずである。

更に本には様々なバリエーションがあるとされる

前述した通りのT-34-85の前であるT-34も例えば戦中ドイツは様々なバリエーションにT-34A~Fとアルファベットをつけて区別していた・・・が、当の生産&使用であるソ連ではT-34とT-34-85くらいしか区別していない、これは大雑把と言うか何と言うか・・・
更に生産工場毎にや部品の形が微妙に異なる為ドイツ軍人は元より後年のモデラー達も泣くはめになった。

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