独ソ不可侵条約とは、複雑怪奇である。
1939年8月、第二次世界大戦のまさに直前に結ばれ、世界中を驚天動地に陥れた条約。美大落ちヒトラー率いるナチスドイツと粛清おじさんスターリン率いるソビエト連邦の間に結ばれた相互に侵攻しない、戦時における中立遵守について定められた条約である。締結を行った政治家の名前からモロトフ・リッベントロップ協定、それぞれのアルファベットの頭文字からMR協定と呼ばれることもある。世界史の教科書や一般的な書籍では独ソ不可侵条約の呼称が一般的だが、ある特定ゲームのプレイヤーにはこちらの方が馴染み深いかもしれない。
この条約の署名から約一週間後の9月1日にドイツはポーランドに侵攻。第二次世界大戦の引き金が引かれた。ポーランドは頑強に抵抗したが、ドイツの圧倒的な電撃戦の前にわずか二週間でもはやポーランドの敗北は時間の問題になっていた。一方のソ連も侵攻開始から約二週間後の9月17日に西ウクライナと西ベラルーシの邦人保護を理由に一方的にポーランドの東側国境から侵攻を開始した。これではもはや戦争になどならず、10月初旬までにポーランド全土は独ソ二カ国によって分割されることになった(第四次ポーランド分割と呼ばれることもある)。
ここまで見れば分かる通り、この条約における不可侵というのはあくまで表向きの目的にすぎなかった。本丸はその後に隠された秘密議定書で、その中身には東欧の分割について触れられていた。すなわち、ヴィスワ川(ワルシャワにながれている川)を境にポーランドの西側をドイツが確保するかわりにそれ以外のポーランド東部地域やバルト三国、ベッサラビア(現在は大半がモルドバになっている地域)におけるソ連の主導権や領土主張を容認(関心を払わない)するという、この地域における野心を抱いていたスターリンにとっては喉から手が出るほど欲しい内容であった。
だが、これは後からみれば罠であった。条約締結から二年も経たないうちにドイツはソ連へ奇襲攻撃をしかけ(バルバロッサ作戦)、戦史上類をみない地獄を現出した独ソ戦の火蓋が切られることになった。
条約締結当時の話に戻ると、秘密議定書はその名の通り秘密なので大戦当時には公になることはなかった。しかし、実際の所先述の通り水と油だった独ソ両国間の突然の接近と融和は様々な疑問を呼び起こし、そのような何らかの取引があったのではないかという疑念は成立当初から存在した。そしてポーランド東部並びにバルト三国諸国の併合はその後実行に移され、強い利害関係を持つはずのドイツは何も行動に出なかったためその疑いはより説得力を持って語られるようになる。
また、アメリカ・ニューヨークで10月に発行された新聞に、クリフォード・ベリーマンが手掛けたヒトラーが新郎でスターリンが新婦の気持ち悪いカリカチュア(風刺画)が描かれている。教科書や資料集で見かけてトラウマになった記憶に残っている人も多いかも知れない。
我が国ではこの寝耳に水の条約締結を受けて平沼騏一郎内閣が総辞職し、世にいう複雑怪奇声明が残されることになった。
第一次世界大戦後の独ソ関係は複雑な紆余曲折をたどっている。
まずロシア内戦終結前後の1922年にドイツとソビエト連邦の間にはラパロ条約が締結された。これは1918年3月にドイツ帝国とソビエト連邦の間で締結されたブレスト・リトフスク条約(ウクライナやバルト地域の割譲を含む、事実上の東部戦線におけるドイツの勝利を意味した)につき、それを白紙に戻すことを再確認し、両国の親善と協力をはかる事に合意したものである。
既に1919年に締結されたヴェルサイユ条約でドイツがブレストリトフスク条約で得た領土は事実上放棄させられていたため、あくまで文書上のものに過ぎなかったが、大戦の敗北で孤立していたドイツにとって東側の大きなリスクであるソ連と和解することは大きな意味を持っていたのである。ソ連にとっても内戦を片付け、当面の帝国主義や資本主義勢力による介入は払い除けても未だ孤立を続けていたため、敗れたりとはいえ依然大きな力をもつドイツと手を結ぶことにはメリットがあった。
ドイツとソ連は以後、貿易を通じて関係の改善を進めており、他にもヴェルサイユ条約で厳しい制約を課せられていた軍事教練を行ういわばロンダリングの手段としてドイツはソ連を最大限に利用した(ラパロ条約の秘密事項にそれが触れられている)。例えばドイツ国内では一部の例外を除いて空軍の所有を禁止されていたためソ連国内で飛行訓練を行った。それと引き換えに建軍から間もない赤軍の指導力強化としてドイツの将校をソ連に派遣して教育を行っていた。このときの形成された独ソ間のパイプはナチス政権成立後も使われることになる。
その後ドイツはルール占領という試練を迎えるなどしながらも、アメリカをはじめとしたかつての協商国からの支援を受けて立ち直りを見せ、西側との接近を深めていき相対的にソ連とは距離ができていった。とはいえ完全に切れたというわけでもなく1926年に再び平和友好条約を締結している。
そんな緊張と協調の間にいた独ソ間の関係が硬直に向かっていったのはやはりヒトラー率いるナチスの台頭であった。ヒトラーは自著の『我が闘争』の中で東方生存圏を主張して金融資本を牛耳るユダヤ人に対抗するため、スラブ人を抹殺して東方、すなわち東欧やロシアの大地にアーリア人(≒ドイツ人)による生存圏を獲得すると息巻いていた。また、いわゆる背後の一突き論から反共を党是としていた為、イデオロギー上の面でもソ連とは相容れなかった。
一方のソ連も指導者であるスターリンが名指しでナチ党が政権を掌握してからのドイツを「ファシスト」と排撃して憚りなく、このような有様なので1933年のナチスドイツの政権掌握以来、独ソ関係は事実上断絶にあった。1936年に発生したスペイン内戦でフランコ率いるファランへ(スペインの全体主義政党)を支援したドイツと、人民戦線を通じて共和派を支援したソ連が互いに義勇軍を送り代理戦争の場と化した事はその一つの象徴といえるだろう。
膨張政策を続けるナチス・ドイツは1938年にミュンヘン会談で英仏をうまくいいくるめ説得してズデーテン地方の割譲容認を勝ち取るという成果をみせ、英仏両国との関係の良好さを大いに喧伝した。これにスターリンはかねてよりのパラノイアを亢進したのか、ソ連に対する資本主義・ファシズムの共同戦線と包囲網が作られているのではないかと疑心暗鬼に陥った。それは1939年3月に開かれた共産党大会における彼の発言に現れており、そこで「英仏がドイツや日本の軍事的膨張を許しているのは、やがてソ連にその刃を向けると期待しているからだ」と断じている。
この疑いは独ソ戦勃発まで彼の頭から消えることなく、ドイツによる奇襲を許してしまうやらかしを演じてしまう事になる。
だが、ヒトラーによるミュンヘン会談の約束は会談から半年ほどであっけなく破られ、1939年3月にチェコスロバキアの解体に踏み切り、英仏の態度を硬化させ、路線変更の可能性を作る意味合いで英国はソ連に軍事協定の交渉開始という手土産を持って接近した。これを見たスターリンは長年英仏との接近や提携の模索を進めていたリトヴィノフを外務人民委員の座からおろし、その座に側近のモロトフを就けた。これは英仏に自らに親和的な人物を遠ざける意思表示を見せることで牽制と譲歩を狙ったものないしただの独ソ不可侵条約に向けたブラフの二説あるが、英仏は特にそれに対して彼の期待する反応を示すことはなく、スターリンの当ては外れた。
1939年4月より独ソ不可侵条約締結にむけた独ソ間のやり取りは活発になり、さまざまな思惑や交渉が飛び交った。残された記録だけ見るとドイツとのそれと先にあげた英国と更にフランスを加えた軍事協定の交渉が同時並行で行われており、これに関するソ連、ひいてはスターリンの思惑は未だに歴史家の間で意見が分かれている。すなわち、ドイツとの提携は最初から(遅くとも1937年までの段階で)決まっており、英仏へのそれはただのブラフに過ぎない。というのと、英仏とドイツを天秤にかけてどちらにするか最後まで悩んでいたという2つの説である。
どちらがより確からしいかというのはまた見解のわかれるところだが、署名4日前の8月19日のスターリンの行動がヒントを示しており、彼はこの日朝10時にリッベントロップが訪ソするのを承認することを駐ソドイツ大使から迫られていたのだが、一旦はこれを拒否したのにも関わらず3時間で意見を翻して訪ソを承認したというのである。そしてその2日後にソ連はヴォロシーロフ元帥を通して英仏との協定交渉を無期限延長とする通告を一方的に行った。
実際の所、当時のソ連の対外的立場は非常に微妙なところに立っており、同時期には極東の満州でノモンハン事件による我が国との国境紛争が起きていた。もしかするとこの趨勢を見きった上で彼は最終的な結論を出したのかも知れない。
ともあれ、これらの出来事を経て概要の通り1939年8月23日にモスクワでモロトフ・リッベントロップ協定が締結された。ここから2年弱後の独ソ戦勃発まで両国はいわゆる"蜜月"時代を迎え、貿易も盛んに行われることになった。条約に先立って8月19日には通商協定も締結されドイツはソ連より食料を輸入した一方で、ソ連は飼料を主にドイツより輸入していたとされ、その貿易額は1940年から1941年6月までのあいだでも総計10億マルクに届いた。また、1940年2月にも追加で通商協定が結ばれ、そこではソ連がドイツに機械などの原材料を送り、ドイツがソ連に完成した機械製品を輸出するという内容が定められた。これはドイツにとっては不足していた鉄鉱石や石油などの戦略物資を大量にもたらし、英国からの海上封鎖を乗り切る上で大いに役立つことになる。まあ早い話独ソ戦は自分の首を絞めるようなものだったわけだが……
このような欧州の駆け引きについて我が国はドイツとの軍事同盟や日ソ中立条約などの局面で振り回され続けることになるが、それはまた別の項目に譲ることとする。
ポーランドやバルト地域分割について主に定めた秘密議定書は文字通り秘密のため、大戦中はその存在が疑われることはあっても表沙汰になることはなかった。ただ、独ソ戦の開戦時にヒトラーが秘密議定書の存在について言及しているが、あくまで開戦の正当化事由の一つ程度くらいにしか見られていない。
秘密議定書のドイツ語原文は1944年のベルリン空襲で焼失したものの、マイクロフィルムで撮影されたコピーが外務省に保存されていた。そのため、終戦後に開かれたニュルンベルク裁判で被告を弁護する証拠の一つとして公表され、被告人の一人になったリッベントロップが法廷で読み上げようとしたものの出処を明らかにしなかったため、証拠としての採用を拒否された。リッベントロップの弁護人がアメリカの地方紙で公表したものの、見苦しい言い訳としか見られなかったのかさして注目を受けることはなかった。
だが、二次大戦終結後に表面化した米ソ対立という構造の中でこの秘密議定書は脚光を浴びることになった。その最初の事例は1948年のアメリカ国防省での「ナチスとソ連の関係」と題された収集物として公表されたことにはじまっていて、第二次世界大戦勃発の共謀者としてソ連を指弾する材料となったのである。
一方のソ連は秘密議定書の存在を認めず、件の収集物で公表された際はむしろ英国がドイツに資金援助した歴史を西側は改竄していると応酬している。引退後のフルシチョフが1970年代に西側諸国で出版された回顧録でその存在を認めるなどの動きがあったが、カチンの森事件の責任追及などと同じくソ連当局は認めようとせず、結局その情報公開はソ連末期のペレストロイカによる情報公開まで待たねばならなかった。
1989年、東側世界の崩壊が進む中、主に最大の被害者であったポーランドからの圧力で調査委員会が設立され、その内容の究明と精査が行われ、同年12月24日に開かれたソビエト連邦人民代議員大会で当該議定書の存在の容認及びその非難が決議された。実に条約締結からちょうど半世紀経過した節目の年である。
その後、秘密議定書は出版され多くの人の目に触れることになった。しかし、それはあくまでドイツ側原文で、ソ連側の原文については当時の書記長であるゴルバチョフの手で秘匿が指示された為、2019年の歴史記憶財団によるソ連版原本公開まで待つことになる。
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