島津忠恒(しまづ・ただつね 1576~1638)とは薩摩藩藩主でありDQN四天王の1人に連なる武将である。
のちに家久と改名する為、同名の叔父・島津家久と区別する為に「悪い方の家久(悪久)」などと呼ばれていたりする。
この記事は島津家久と区別する為に島津忠恒で統一する。
実父は日本最強クラスのバトルマシーン島津義弘、
義父は史上最高クラスのひきこもりの島津義久、
正室は忠恒に嫁いでからずーーーっと嫌がらせを受け続けた亀寿姫(詳しくは後述)。
子は薩摩藩第二代藩主島津光久他男女合わせて32名もいる(いずれも側室との子。因みにこの島津光久も子沢山で父の忠恒越えの男女合わせて38名も居る)。
所々マトモかもしれない悪い概要
1576年、島津義弘の三男として生まれる。長男の鶴寿丸は天折していた為、次男の島津久保の所に島津義久の三女の亀寿姫が嫁いでおり島津家家督を継ぐことが決まっていた為に家督を継ぐことが決まるまで蹴鞠と酒色に溺れた生活をする少しダメな子だった。
1593年、そんな自堕落的な生活をしていた忠恒に転換期が訪れる。兄で島津家の家督を継ぐ予定だった久保が文禄の役の時に朝鮮の巨済島で若干21歳の若さで病死してしまうのである。この為、豊臣秀吉が島津の後継に口を出してきて忠恒に元兄嫁の亀寿姫との結婚が決まり島津家家督を継ぐのが決まった。
1597年に慶長の役が起ると父義弘に従い朝鮮で戦ったが、朝鮮にきて真っ先に忠恒が作ったのが蹴鞠する為の広場である。(そんなんだから義弘に蹴鞠ばっかやってるんじゃねーよって怒られるんだよ・・・・後で義弘も蹴鞠にハマったけどな!)
1599年、人によって評価が分かれる重臣伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で忠恒が斬殺する。これが後に島津家最大の内乱の庄内の乱に繋がる・・・
この忠棟を斬殺した行為は、島津家にとって伊集院家は家臣の扱いであるが、豊臣政権下において伊集院家は島津家から独立した家と扱われていた為、豊臣政権に対する重大な反逆行為にあたる。
そのため忠恒は高雄山神護寺にて謹慎、沙汰を待っていたが、徳川家康が秀吉亡き後の実権を握っており忠恒の行為を支持したので島津邸にすぐ帰った。
そしてその直後、忠棟の嫡男の伊集院忠真に父忠棟が斬殺されたと急報が届き島津家に対して反乱を起こした。これが庄内の乱である。なお忠真に対して領地を接する加藤清正、伊東祐兵が密かに物資を援助していた。後でバレて島津家に抗議されている。
同年に忠恒は自分が原因で起った乱を自ら鎮圧する家康に許可を得て薩摩に帰還、すぐさま鎮圧の為に兵を進めた。(因みに忠真は忠恒の妹婿である。)
1600年2月、家康が調停に乗り出し島津家と伊集院家の和議が成立、これで一安心と思われたが・・・・
1602年10月に忠恒は忠真を鷹狩りに誘ってそれにホイホイ付いて行ったので射殺された。なお、忠真は鷹狩りの直前に島津家臣の平田平馬という人物と馬を交換しておりこの平田平馬は忠真の馬に乗っていた為にとばっちりで射殺されている。(なおこの平田平馬の殺害も計画の内であったという説もある)
計画的犯行だったが対外的には誤射で死んだと発表されたので、実行犯の押川治右衛門と淵脇平馬は即刻切腹となった。しかし数年後には島津家によって両名の遺族が高待遇で取り立てられ褒賞を貰ってたりする。しかも同日に忠真の母と弟三人は忠恒の命で殺されたが偶然死んだことになっている。(ちょっと無理がある気が・・・・)
また、同年には関ヶ原の戦いで実父の義弘が色々とやらかした為に薩摩から出たがらない義父の義久に変わって上洛して家康に謝罪しに行ってたりする。
1617年にはなんかの間違いで徳川秀忠から松平姓を与えられている。
1638年に忠恒は62歳で死去した。死去の間際はボケて飯の食い方すらも忘れていたらしい。
意外な事に殉死者が9名も出ている。
正室の亀寿姫との関係
亀寿姫との関係は元兄嫁で義姉で従姉妹と複雑である。こんな関係のせいか不仲であり実子は居ない。実子が居なかった為に徳川家に働きかようとして徳川秀忠の三男の国松丸(徳川忠長)を貰おうと画策して義久や家臣から大反対された。
また隠居していたが未だに絶大な権力を持っていた義久の手前、義久存命中は側室を持てずに居たが1611年に義久が死去するとすぐさま亀寿姫を城から追放して軟禁し念願の側室をGETした。(あとで側室は8名に増える)
さて、39歳でやっと義父義久が死んで解放?された忠恒くん。ここからはっちゃけて死ぬまでに33名もの子を作って分家の跡取りや重臣らの養子や妻として押し付けて中央集権化に成功する。
さて、城から追放・軟禁された亀寿姫はというと当然の如く仕送りとかは無いので毎日の食事にも困る生活になり、哀れに思った義弘が家臣に命じて援助させたりしている。
「子供が生まれました」
1630年、とうとう死去するが死ぬ間際に
と泣きながら死ぬという物凄く可哀想な最後になっている。
しかも亀寿姫死後も忠恒の亀寿姫に対する嫌がらせは変わらない。むしろエスカレートする。
忠恒は亀寿姫の墓を立てないというアレな行動をするのである。ちなみに今現在の亀寿姫の墓は亀寿姫の祟りを恐れた光久が建てたものである。
・・・・・・・・・・・・・・・最早何も言うまい。
一応フォローしておくと”もかな”の部分の読みが”もがな”であったとすると深く悲しんでいる様子を表す意味になるので嫁の死をちゃんと悲しんでいたとする説もある。
まだまだあるよ!悪久の悪い逸話
まず一個一個丁寧に書いていきたいところだが、
なにぶん悪い事に事欠かない忠恒なので選別した数個の逸話の箇条書きで許して貰いたい。
②まだ義父の島津義久が生きてた時に側室が欲しかった忠恒は、幕府の言質を取ろうとして
「アレはババアだから勃たないんだよね。だから勃つような側室が欲しいんだよね(超意訳)」と幕府重臣の前でほざく
③関ヶ原で暴れまわった忠恒の実父義弘。
どうやら島津家を守るために義弘に全責任押し付けて徳川に売ろうと考えていたらしい
④自分は大坂の陣に遅れて見てないのに、
真田信繁(真田幸村)の有名な評「真田日本一の兵」という言葉を手紙に書く。
⑤1602年に忠恒が徳川家康に謝罪しに行った時に島津家が諸大名や商人からの借金を福島正則に立て替えて貰った。しかも正則が立て替えてくれた借金は正則に少しでも返済したという記録が一切ない。
しかもたびたび正則に良くしてもらったのに、福島家改易の時には徳川家に抗議したとか正則を庇ったというのは無く完璧にスルーした。
⑥義弘や家臣の反対を押し切って鹿児島城を建てたが、シロアリが喰って崩壊や焼失が多く立て替えの度に無駄な出費が出る始末。しかも忠恒の趣味の部屋とか作ったのに風呂を作らなくて結局義弘に怒られる。
鹿児島城の肝心の防御にも難があり、海岸が近すぎる為に薩英戦争の時にはイギリス軍艦から砲撃を打ち込まれるなどの脅威に晒され、避難場所でもあった鹿児島城から避難するというアホなことが起る。
⑦示現流流祖の剣豪東郷重位とお抱えのタイ捨流師範の東新之丞に無理やり立ち合わせを命じ、
新之丞が重位に負けると逆切れして丸腰の重位に真剣でしかも不意打ちで斬りかかったのにボコボコにされる。
⑧島津家の家宝の門外不出の名刀「福岡一文字吉房」を勝手に持ちだして京都伏見の島津邸で諸大名に見せびらかし、義弘から勘当されかけた。
⑨バカ。ただし悪知恵とかは働く。
などここに書いたのはほんの一部である。かのアンサイクロペディアも事実を連ねざるを得ないそのブッ飛んだ人生、
興味ある人は色々と調べられたし。
悪い逸話ばっかりじゃないよ!悪久の珍しいイイ逸話
島津忠恒は大坂の陣に参戦出来なかったが、
徳川家康の戦勝を祝う為に兵を帰し共回りの者をひきつれて京都まで来た。
雨の中笠を被り家康が居る二条城まで来た所捕えられた長曾我部盛親が晒しものになっていた。
馬を降り盛親の警護の者に忠恒は自分の笠を外し盛親に付けさせた。
「一国の太守であったお人が濡れたままでいるな!」
と気を遣った。忠恒はそのままスルーして登城したがさすがに濡れたままはダメなので城内で勝手に着替えを始めた。さすがに城内の者に驚かれ訳を聞かれたが、さも当然のように笠をあげた話をしたので感心されたという・・・
あれ?これだけ見るといい人じゃねと思ったそこのアナタ、「雨に濡れてる捨て猫(盛親)に傘差し出し不良(忠恒)」の図ですからね。あれ?実はイイ人だって思わせるよくあるアレですよ。
因みに筆者が頑張って忠恒のイイエピソードを資料から探し出したけどこれくらいしか見つかりませんでした。
悪いエピソードなら上記以外にも一杯出てくるのになっ!
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