「島津義弘」(しまづ・よしひろ 1535 ~ 1619)とは、戦国時代に実在した最強戦闘集団「薩摩隼人」の中でも、
- 生涯五十三度の合戦に参加し数々の規格外の武功を誇る軍神。
- 医学・茶の湯・学問に秀でる一流文化人。
- 敵・味方区別せず供養する慈悲深い勇者。
- 家族を心から愛した愛妻家。
- いかなる苦境にあっても2歳年上の兄・島津義久を尊重し続けた君臣の鏡。
- 共に囲炉裏を囲み寝食を共にする等家臣や兵卒を大事にした「この人の為なら死ねる」ランク戦国一位の男。
- 関ヶ原で敵中突破を果たす、某半島で20万の敵を7千で打ち破る等、戦場で華々しく活躍しながらも長寿を全うし畳の上で死んだ名将。
- 朝鮮出征に時を知るための猫(瞳孔を見る)を7匹連れて行き、生還した2匹を猫神神社に祀った。
と「マジか!?」と言いたくなる事実の数々に定評のある戦国最強の完璧超人。通称「鬼島津」「鬼石曼子」。
※この記事は薩摩島津氏17代目当主島津義弘について記述しています。越前の島津義弘はこちら参照。 |
概要
薩摩国を統一した島津貴久の次男として生まれる。兄で16代当主義久、同母弟歳久、末弟家久と戦国一の仲の良さと総合能力の高さに定評のある「島津四兄弟」を構成し、島津氏中興の祖である祖父島津忠良からは、
雄武英略をもって他に傑出する |
と評されている。(出家した後は祖父にならって惟新斎と名のる。※維新じゃないよ。)
ちなみに名乗りは、まず1546年に11歳で元服して島津忠平(ただひら)を名乗り、1586年に毛利氏に亡命中の足利義昭から「義」の一字を貰って島津義珍(よしたか)に改名、翌1587年に広く知られる島津義弘へと改名して、1599年に出家して島津惟新斎と号した。(なので義弘と名乗っていた期間より忠平を名乗っていた時期の方がはるかに長い)
1554年、父に従った岩剣城攻めで初陣を飾り、父の死後家督を継いだ兄義久を補佐し、九州の桶狭間と呼ばれる木崎原の戦いにて島津のお家芸「釣り野伏せ」を用いて、寡兵で日向伊東氏の軍勢を打ち破ったり、肥後阿蘇氏を降伏させ、大友宗麟や龍造寺隆信らを破る等、本国を守る兄の代わりに総大将を務める等して島津家の九州での版図拡大に前線で尽力した。
豊臣秀吉の九州征伐でも最後まで抵抗を主張したが、兄義久の決断により主家が降伏。義弘も豊臣政権下に入り、播磨国に領地を得て(江戸時代作の島津氏の文献によると)兄に代わって17代当主となった。
※播磨国の領地にて、検地等に協力した井上茂一に、お礼として島津姓と丸に十字の家紋を与えた。
この井上茂一の子孫が後に島津製作所を立ち上げる島津源蔵である。
朝鮮の役にも64歳と言う現在ですら高齢の域で参加し、特に自ら刀をとって大暴れした泗川の戦いでは明の大軍を7000で打ち破る等数々の武功を上げたとされ、李氏朝鮮の記録によると蔚山城、順天城に続いて敗戦を重ねた明・朝鮮連合軍の心胆を寒からしめたという。ただし、20万の軍勢と戦い4万人近くを討ち取ったとされているのは流石に大きく誇張されているというのが通説である。
この戦いをきっかけに、義弘は「鬼島津」「鬼石曼子」と明・朝鮮に恐れられたと言われているが、その記録があるのは日本側のみであり、明・朝鮮側の現存する記録にはない。「鬼石曼子」の表現について朝鮮通信使の一人だった元重挙は『和国誌』で日本側の記録を訳しながら「何を意味するのか分からないが日本の鬼の名のようだ」と記録 している。因みに日本において「鬼」とは、力強さを象徴し、ある種の畏敬の念を込められた褒め言葉として使われることもあるが、中国や朝鮮における「鬼」 は恐ろしい亡霊、口にするのも憚られる忌むべき存在という意味がある言葉である。その為「鬼石曼子」が事実であるならば日本語のニュアンスとは多少の誤差が生じるかもしれない。
露梁海戦では鉄砲隊の一斉射撃で李舜臣を討ち取ったという話があるが、李舜臣が鉄砲に当たって戦死したという事実はあるものの、島津勢が狙って行ったことなのか、そもそも島津勢がやったことなのかは不明である(島津勢を主力とした諸大名の連合軍であるため)。露梁海戦は日本側の総大将たる豊臣秀吉の死去を知った明・朝鮮連合軍が、和議成立後にも関わらずこれを一方的に覆し、小西行長勢の撤退を阻んだため、既に撤退の準備を終えていた義弘らが急遽引き返して発生した戦いである。戦術的には、夜襲を受けた日本側は島津勢をはじめ各部隊がいずれも大きな損害を受け、明・朝鮮側は夜襲を掛けたものの将官級の首を挙げることができず、李舜臣や鄧子龍を失ったため、双方痛み分けとなった。戦略的には日本側は小西勢の撤退という目標を達成し、明・朝鮮側は捕虜を多数獲得することに失敗した。
関ヶ原の戦いに際しては、当初は朝鮮の役後の加増の件や、家中の争いの調停を取り仕切ってくれた縁、そして家康より守備を依頼させていた事から徳川方として参戦する為伏見城に入城しようとするも、守備を任されていた鳥居元忠が空気を読めずに入城を拒否した上追い払うかの如く発砲した為、背中に鬼の面が浮かんでしまったであろう義弘の猛攻によって伏見城は陥落してしまい、義弘も石田三成の西軍につくこととなった。
※西国につかせるように仕向けて島津家を取り潰す家康の策謀だったとも言われている。
しかし、実質的に家政を取り仕切っていた兄義久より援軍が得られず(名門の島津が豊臣と徳川と言うどこの馬の骨か判らぬ連中の為に軍を派遣するのはプライドが許さなかったとも)、手持ちの兵と「惟新さぁが難儀しいちょいやっど」と義弘の危機を知って遠く薩摩よりマジで駆けて来た薩摩隼人達を合わせた1000~1500騎程のみだった為西軍中で重要視されず、墨俣城攻めで旗下の島津豊久隊を置き去りにされたり、平地での戦いが得意な家康に対して軍勢がまとまる前に夜襲を献策し、宇喜多秀家の賛同を得るもつぶされるといった西軍負けフラグの数々を順調に立てていった石田三成らが、決戦時に義弘を後詰に置くと言う負け確定フラグ立ててしまい、始まる前から戦闘終了のお知らせ状態にだった為か戦場では動かず、「采配のゆくえ」で萌えキャラ化した小早川秀秋の裏切りで趨勢が決まると、陣取られた西側よりも、まだ混乱している正面の敵陣へ向けて突撃するのが一番突破しやすいと考えて「島津の退き口(別名「島津の前退」「島津の陣中突破」「島津の背進」)」を発動し、福島正則は島津隊に手を出せず、島津豊久(捨て奸にて戦死)を失いながらも戦史上前例の無い脱出に成功し、無事薩摩に帰還した。
※突破の際にボッコボコにしてやった上に死点咒(↓↙←↓↙←+P)まで食らわせて重傷を負わせた井伊直政にその後の家康へのとりなしを頼み、直政も指名に応えて尽力している。まさに”良い笑顔で死ねる”戦いの本質を知る武士同士の心温まる逸話である。
兄の義久によって薩摩隼人達の戦う覚悟は完了済となっていた事や、義弘に某半島で救われた東軍大名のとりなし、「もうこれ以上はヤバい」とこれまでの軍功ですりこみまくっていたおかげで、西軍参加大名で唯一の所領安堵&誰もお咎め無しと言う毛利家からすれば不公平にも程がある結果となった後、子の忠恒(島津四兄弟ではないほうの家久)に家督をゆずって隠居。85歳で畳の上で大往生を遂げた。
-島津義弘辞世の句-
春秋の花も紅葉もとどまらず 人も空しき関路なりけり |
共に戦場を駆けていたら「花の慶次」の捨丸や岩兵衛のごとくワクワクして戦さの怖さも忘れるような存在だったであろう鬼島津と戦国時代を生きた薩摩隼人達は、後に、篤姫、西郷隆盛、東郷平八郎らを生み出している。
※ゴメン調子に乗りすぎた反省している。
もっと正確性あふれる詳細についてはWikipediaの該当記事を参照してください。
薩摩隼人達
以下、島津義弘と共に戦国時代を駆けた薩摩隼人達である。いずれも曲者揃いである。
中馬重方 (ちゅうまん・しげかた) |
島津義弘が一番可愛がったポケモン木強者(ぼっけもん)な愛すべき馬鹿。 後先考えない逸話にあふれる人物だが、関ヶ原を一言で語った伝説を持つ。 |
柏木源藤 (かしわぎ・もとひさ) |
薩摩のエリートスナイパー。柏田源蔵とも。 関ヶ原の前進退却時、井伊直政に致命傷となる鉄砲傷を負わせた男。貧乏体質。 |
木脇祐秀 (きわき・すけひで) |
超大型の薩摩隼人で同じく大型の中馬重方と薩摩のツインタワーを構成する。 得意の医術で助けられた事等から島津義弘に心酔し、主の死に際し殉死した。 |
服部宗重 (はっとり・むねしげ) |
義弘の家臣で、「花は霧島、煙草は国分」と現在に伝わる 国分の煙草栽培に成功した煙草奉行。姓が服部なので忍者説がある。 |
瀬戸口重治 (せとぐち・しげはる) |
島津家のボンバーマン。泗川の戦いで、「泗川古城」の食料庫爆破の任を受ける。 無事たどり着くも脱出不可能と判断し、爆薬に直接火をつけて任務達成&爆死した。 実は、東郷重位の実兄。 |
寺山久兼 (てらやま・ひさかね) |
朝鮮の役や庄内の乱の際に活躍した猛将。 泗川の戦いでは明軍の背後に回って敵陣を撹乱する活躍で勝利を演出した。 |
頴娃久虎 (えい・ひさとら) |
指宿を領有する島津義弘家臣。 九州を転戦し、義弘から「九州統一の第一の功労者」と評されたが早死した。 |
山田有栄 (やまだ・ありなが) |
関ヶ原に参加して義弘とともに帰国する際に、金箔で飾った自慢の鞘を この時の為にとばかりに売って路銀にした事から、薩摩で蓄財が流行った。 |
島津久保 (しまづ・ひさやす) |
島津義弘の長男。「くぼ」じゃないよ「ひさやす」だよ。 島津義久の娘を嫁にし、後継者として期待されていたが某半島で病死。 |
島津忠恒 (しまづ・ただつね) |
島津義弘の三男。 後に「家久」と改名するが、同名の人物に島津四兄弟最強の戦術家がいる為、 初名の忠恒で呼ばれる事が多い。かなりのDQN。天敵は伊集院忠棟。 |
島津豊久 (しまづ・とよひさ) |
島津四兄弟の方の島津家久の嫡男。幼少時に父を亡くした為、 以後は島津義弘に息子の様に育てられる。戦国無双ではモブなのに人気キャラ。 どうやら異世界にいって妖怪「首おいてけ」になったらしい。 |
阿多盛淳 (あた・もりあつ) |
別名:長寿院盛淳。愉快な連中をとりまとめる事務方な家老。 関ヶ原の退却時に義弘の身代わりとなって陣羽織を着用、戦死した。 |
桂忠詮 (かつら・ただのり) |
九州征伐に最後まで抵抗しわずかな兵で平佐麓を守り抜いた。 この時の武勇が讃えられ後に秀吉から宝寿の短刀を下賜した。 |
ニコニコ動画での島津義弘
コーエーの「信長の野望」等の歴史系SLGや、同じくコーエーのアクションゲーム「戦国無双」、カプコンのアクションゲーム「戦国BASARA」に登場している。
60を過ぎてからも某半島や関ヶ原で活躍した、と言うか関ヶ原の件が有名すぎるせいか、「戦国無双」や「戦国BASARA」では、老人キャラとして登場する。
ともに「老いて益々盛ん」な老将として描かれており、巨大なハンマーを振りまわしたり、巨大な刀を振り回して並み居る武将たちと激闘を繰り広げている。(※戦国無双でのCVは江川央生。戦国BASARAでは緒方賢一)
歴史系SLGでは、ほとんどの場合において九州最強の武将として能力を設定されている。
※「信長の野望 武将風雲録」では、西国逆チートで弱めだが、以降のシリーズでは上杉謙信に続く戦闘キャラと化している。肝付・伊東・阿蘇・相良を蹂躙する様は鬼と書いてオーガと読むと言わざるをえない。
※上杉謙信が精神性での強さの事例となっているのに対して、島津義弘は鉄砲がフィーチャーされる事が多い為、「軍神」系の特技よりも「鉄砲」系の特技を高いレベルで所有する事が多い。まぁ軍神まであったら大友・龍造寺涙目だし、仕方ないね。
兄弟及び一族に優秀な人間が揃っている事と、地理的な面から架空戦記ではどちらかといえば中ボス・ラスボスを務めるパターンが多い。(きっと毛利一族の呪いに違いない)
戦国大戦
CV:杉田智和。コスト3.5、武力11は戦国大戦でも2位である(軍神は0.5コスト上がって武力12)。統率も7と平均以上あって、更に特技は武力と相まってしぶとさを増す気合、士気を助ける魅力、そして島津の鉄砲隊標準装備の車撃と3つ。3.5コストとしても破格の能力と言える。流石鬼島津。
計略「雄武英略」は武力が少し上がり射撃回数と移動速度が上がる。と書くとそこまで強くないように見えるが本人の素武力が高いため射撃だけで相当なダメージを敵に与える上に移動速度が上がるせいで普通の鉄砲隊どころか島津の車撃部隊でも当たらなくなる(ただし迎撃される)。
そしてこの計略はもう一つ効果がある。それは鉄砲の弾数が0の時は薩摩示現流というチャージして斬撃をぶちかまし敵にダメージを与えるというダメージ計略が効果時間中無制限に使えるというもの。弾が無くなった後でも迂闊に近づくと「チェストォー!」と野太い声と共に斬られて死にかねない。
この計略の結果、遠距離からはその高い武力からの射撃で潰され、弾切れで接近戦に持ち込んでも今度は剣で斬られるという訳の分からない鉄砲隊が出来上がってしまった。島津義弘という兵種なんだと揶揄される程である。
Ver2.1ではいくらか歳をとった彼の姿が見られる。コストは0.5コスト下がったが特技そのものは変わらない。
だが統率が激減して脳筋になってしまった。伏兵やダメージ計略には注意である。
こちらの計略「狂鬼怒涛」は、武力が少し上がり移動速度が上がり、射撃の発射間隔が短くなり更に射撃を当てると弾数の回復が速くなるというもの。きちんと射撃を当てれば撃ち終わったらすぐに撃てる。さながら信長の三段撃ちの単体版と言ったところか。効果時間はかなり長い。
ちなみにEXカードとして槍足軽になったカードも存在する。しかし2.0から始まったスペックのインフレ化についていけなくなった感漂うものになっている。計略「鬼島津の太刀」は示現流が何回でも使用できるというものだが、士気7は正直高すぎる。
「死中に活、それが島津の戦よ!」
Ver3.0では老年期に入り名前を惟新斎に変えた後の姿が見られる。魅力が削除されてしまった。
計略「島津の退き口」は、「闘痕」計略の一つ。島津家の味方の武力が上がり、更に効果中は味方が敵に射撃するとその敵を射程内に収められる味方の鉄砲隊が全て援護射撃するというもの。弾数が0でも援護射撃はするが、射撃中に援護射撃は出来ない。その光景はさながら島津版三段撃ちである。
関連動画
▼九州の桶狭間と言われる木崎原の戦い。トラップカード「釣り野伏」発動!
▼戦国無双・・・なぜかMADばっかり・・・なぜか・・・豊久大人気
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける島津義弘の能力一覧。「革新」から「天道」で統率と武勇が逆転してやや弱体化。それでもチートな性能を誇る。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 82 | 政治 | 66 | 魅力 | 83 | 野望 | 65 | 教養 | 71 | ||||
覇王伝 | 采配 | 93 | 戦闘 | 92 | 智謀 | 67 | 政治 | 71 | 野望 | 78 | ||||
天翔記 | 戦才 | 194(A) | 智才 | 146(B) | 政才 | 148(B) | 魅力 | 94 | 野望 | 90 | ||||
将星録 | 戦闘 | 97 | 智謀 | 78 | 政治 | 73 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 95 | 戦闘 | 94 | 智謀 | 76 | 政治 | 71 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 89 | 智謀 | 74 | 政治 | 65 | 野望 | 90 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 89 | 知略 | 75 | 政治 | 64 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 90 | 知略 | 75 | 政治 | 63 | 教養 | 63 | ||||||
革新 | 統率 | 105 | 武勇 | 94 | 知略 | 82 | 政治 | 70 | ||||||
天道 | 統率 | 89 | 武勇 | 105 | 知略 | 73 | 政治 | 70 | ||||||
創造 | 統率 | 97 | 武勇 | 94 | 知略 | 83 | 政治 | 62 | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 97 | 武勇 | 94 | 知略 | 83 | 政治 | 68 |
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