「細川忠興」(ほそかわ ただおき 永禄六年/1563-正保二年/1646)は、
戦国時代~江戸時代の武将。
鎌倉以来の名家・細川家の傍流、和泉上守護家→肥後細川家初代。
父・藤孝ともども一時は長岡姓を名乗っていた他、羽柴姓も賜っている。ここでは細川で統一。
官位は越中守。
芸術面に才能を発揮しながら武将としても優秀である……のだが、
後述の通説によりヤンデレとばかり呼ばれてしまう、ちょっとカワイソスな人。
兄弟:興元、幸隆、孝之、伊也、ほか3名の妹
正室:明智玉子(洗礼名:ガラシャ/秀林院)
側室:郡宗保の娘(藤/松の丸)、明智光忠の娘、清田鎮乗の娘(吉/円通院)、真下元家の娘
子:
細川忠隆(長男)、細川興秋(次男、細川興元養子)、細川忠利(三男)、細川立孝(四男)
細川興孝(五男)、松井寄之(六男、松井興長養子)
長(長女)、古保(次女)、多良(三女)、萬(四女)
概要
細川藤孝(幽斎)の長男として産まれる。母は沼田麝香。幼名は熊千代。
当初は足利家に仕えていたが、父に従って織田家に仕えることとなり、織田信長の息子・信忠の家臣となった。
信長にも気に入られていたようで、武働きに対して直筆の感状を与えられたり「丹後国を(藤孝ではなく)お前にやるつもりだ」と言われて「決して忘れませぬ」と感涙にむせんだところを「倅めが、吠えおるわ。忘れるなよ」と額を指で推し動かした、という逸話が伝わっている。( ´_ゝ`)σ)Д`)
その信長の媒酌により、15歳の時に明智光秀の三女・たま(ガラシャ)と結婚。夫婦ともに美男美女で、婚礼においては当代随一の夫婦と呼ばれたという。
順調に功を重ねていた忠興だったが、舅・明智光秀が本能寺の変を起こした為に状況が一変。「逆臣の娘」となった妻を丹波・味土野(みどの)の山奥に二年間幽閉することになってしまう。本来ならば離縁して明智家に帰すべき所を、明智氏が滅亡した場合に命の保証ができなくなる為、それが出来なかった。
また同心するように要請した光秀の誘いを断り、父ともども髻を切った上で豊臣秀吉に味方した。この時の助力拒否が、後に光秀が秀吉に敗北した理由の一つに数えられている。
秀吉が天下を統一すると、有力大名として小牧・長久手、小田原征伐、朝鮮出兵にも従軍。しかし秀吉の死後は秀次事件などに端を発した石田三成との確執もあり、武断派武将の一員として徳川家康に協力、関ヶ原では東軍として戦った。
黒田長政らと共に石田軍と激戦を繰り広げ、首級136を上げたその功により、豊前中津に39万石(のちに忠利が熊本54万石に移封)を賜り、大幅な加増となる。
しかしこの時妻・ガラシャが西軍の人質となることを拒み、屋敷に火を放ち命を落とす(キリシタンであった為に自害出来ず、家臣の手で介錯された)という悲劇が起きている。
大阪の陣においても、細川家は徳川方に味方した。
夏の陣では徳川本陣近くに配置され、真田信繁の活躍を目の当たりにし、その武働きを「左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄」と絶賛した手紙が残っている。
1620年に隠居し、三斎宗立と号する。その後もたびたび江戸や京に出仕しており、多くの手紙や文書が残されている。
しかし晩年近くになると三男の忠利、四男の立孝に先立たれる不幸が続いた。
特に忠利の危篤に際しては激しく取り乱した悲痛な手紙が残されており、人間・細川忠興の一面が伺える内容となっている。
その後、1646年に熊本・八代城にて83歳で没した。
臨終に際し残された言葉からも、戦に生きた武将としての想いが伺える。
「天下一気の短い男」
情報戦に長け、戦上手であった忠興だが、名だたる戦国武将の中でも屈指の苛烈、かつ冷酷な一面があった事が知られている。
特に有名なのが妻ガラシャにまつわる逸話なのだが、後世において「ヤンデレ」と伝わるその描写の出どころが宣教師の書簡で、
「ガラシャを悲劇の殉教者として賛美する一方、無知・愚昧・冷酷な夫であったと誇張された」
という指摘がなされている。またこの逸話を元にしたラテン語の戯曲「強き女 またの名を、丹後王国の女王グラツィア」でも、忠興は野蛮で愚かな男として描写されている。
実際には、忠興はガラシャの死後にオルガンティノ神父に依頼してキリスト教式の葬儀を執り行ってもらい、家族や家臣と共に参列している。
また、転封先の小倉でも禁教令が出るまではセスペデス神父を始めとしたキリシタンや宗教施設を保護し、妻の冥福を祈ったという記録が残っている。そしてガラシャの死後、正室を迎える事は生涯なかった。
……それでもやらかした事はやっぱり苛烈なので、あんまりフォローになっていないのだが。
- 妹・伊也の婿である一色義定を騙し討ちで暗殺、一色氏を滅亡に追い込んだ。その後、実家に出戻った伊也に短刀で鼻を真一文字に切り裂かれ、生涯消えない傷となった。あの兄にしてこの妹あり。
- ガラシャ自害の際、長男・忠隆の妻である千世(前田利家の娘)はガラシャに勧められて屋敷から逃亡した。忠興は千世がガラシャと共に自害しなかったことに激怒し、離縁することを忠隆に命じる。これに忠隆は反発したため、廃嫡させられた(のちに和解)。
- 次男・興秋は忠隆を廃嫡した事、自分を差し置いて三男・忠利が世子になった事に不満を抱き、徳川に人質に出される際に出奔、勝手に剃髪してしまう。その後は祖父・幽斎の許で暮らしていたが、大阪の陣で大阪方に味方した為、戦後に捕らえられて自害させられた。助命嘆願の他にも家康直々の赦免があったが、聞き入れられる事はなかったという(異説では助命され、密かに生き延びたとも)。
- 関ヶ原の際、父・幽斎は田辺城にて篭城していたが、朝廷からの命令によって開城した。幽斎が歌道の奥義「古今伝授」の継承者であり、彼が死んでしまうと伝授が途絶えてしまう可能性があったからなのだが、市井では口さがなく「幽斎殿は所詮歌詠み」とまで言われた事もあってか、忠興は「何故最後まで戦い抜かなかったのか」と父を非難した。これにより父とも一時的に不和になっている。
- ガラシャや細川家の侍女たちが改宗してキリシタンになったことに激怒。改宗を迫るも拒まれた為、見せしめとして侍女たちの鼻を削いだ。ただしこれについては、高山右近からキリスト教について教えられた忠興が、何かと縁起を担いで気鬱になりがちな妻のために入信を勧めたという異説もある。また改宗後、屋敷の中に礼拝所を設けるなど、ある程度は許容していた節もある。
- ガラシャに見とれていた庭師を見て激怒し、その場で手討ちにして首を突き付けた。しかしガラシャは少しも動じず、「お前は蛇のような女だ」と忠興が言うと「鬼の女房には相応しゅうございましょう」と切り返したという。あれ、なんだかんだで似合いの夫婦だったのでは?
- 隠居後、嫡子・忠利におもねる佞臣を八代城へ呼び寄せ、次々と手討ちにしたという。36人(6人とも)を成敗した刀に対し、三十六歌仙(または六歌仙)にかけて「歌仙兼定」と命名。
その他にも、敵の顔を削いだら面が落ちるように斬れた薙刀に「面の薙刀」、大徳寺の希首座(僧侶)を手討ちにした刀に「希首座」、不心得者の茶坊主を手討ちにして心が晴れたので脇差に「晴思剣」と命名するなど、血腥い逸話を持つ刀剣が現存している。
芸術家・文化人として
このような物騒な逸話が存在する反面、父同様に芸術に関して才能を発揮した。そのため、公家との付き合いも盛んだった。
細やかな人間関係を結ぶ事で得られる情報を武器とし、その後の幕府への奉公や他家の動向への対応に利用している。
- 利休七哲の一人。蒲生氏郷、古田織部と並んで千利休の最も優秀な弟子であった。
- 美と実用性に高い評価を受ける、日本刀の肥後拵(ひごこしらえ)の考案者。
- 実戦に基づく改良を繰り返し、越中流(えっちゅうりゅう)と称される甲冑スタイルを確立。
- 兜や具足のデザインを依頼する武将も多く、徳川秀忠からも注文を受けた。
- ふんどしの一種・越中褌(えっちゅうふんどし)を考案したという説がある。
- 武家茶道の特徴を色濃く残す茶道・三斎流の祖。
- 食に関してもうるさかったようで、息子に鮎の焼き方を指南した書状がある。
その他、多くの作品・収集品が、細川家代々の名品を収蔵した「永青文庫」に所蔵されており、定期的に展示されている。
その他逸話
永禄8(1565)年、将軍・足利義輝が松永久秀らに攻められて殺害され、父・藤孝は義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を伴い、都落ちを余儀なくされる。
この時熊千代は僅か一歳だったが藤孝に置き去りにされ(一説には一度連れて行こうと戻ろうとしたとも)、乳母は我が娘三人のうち二人を見捨てて若君を保護し、松永の手勢から逃げ延びた。
その後は「宗八」と名を変え、市井に紛れて三年の月日を過ごす。織田信長の支援を得た足利義昭と共に藤孝が京に帰還を果たした際に熊千代も父の元に戻るが、この時藤孝は各地を放浪する中で妻を呼び寄せて生まれた弟・頓五郎(後の細川興元)を連れていたという。
ひどい父親と呼ぶか、やむを得ない事だったと考えるかは横において、こういう出来事があったというのは「細川忠興」という人物について考える一助となるかも知れない。
興元は長らく忠興を補佐し、関ヶ原の戦い以降に転封先の小倉城代にもなったが、やがて忠興と不仲となり、父・幽斎を頼って京の屋敷に出奔。甥の忠隆、興秋らと共に暮らしている(のちに和解)。
荒木村重が織田信長に反旗を翻して立てこもっていた有岡城から逃げ落ちた後、信長は荒木の妻子を捕らえ、見せしめの為に一族郎党もろとも皆殺しを命じた。
この時忠興は京で奉行職についており、処刑を見届ける事になった。かねてより荒木の妻子らと面識があった為、彼女達は「与一郎様頼みまする」と泣き叫びながら引き立てられ、処刑されていった。
この時の処刑は壮絶で、斬首や磔はまだましな方。身分の低い者は一つ家に押し込められて焼き殺されたと伝えられている。これについて忠興はたびたび「哀なる事なりし」と言っていたという。
この時処刑を免れた娘(藤、松の丸)がおり、後に忠興の側室になり一女・古保を産んでいる。彼女も苛烈なDNAを受け継いだようで、夫の愛妾に怒って火箸で突き殺したという話が残っている。こわい。
千利休が豊臣秀吉の勘気を蒙り、堺に蟄居(後に切腹)を命じられた際、見送りに来たのは古田織部と細川忠興の二名だけだったという話が伝わっている。
それまで追従していた者達がこぞって背を向ける中、見送りに来るという事はそれだけで秀吉の不興を買う可能性が高かった。しかしそれを無視して顔を見せた二人の弟子に対し、利休は手ずから削った茶杓をそれぞれに送り、今生の別れとした。これらの茶杓に対して忠興は「ゆがみ」、織部は「泪(なみだ)」と銘をつけて師を偲び、共に現存している。
はじめ高山右近、その後蒲生氏郷を経て細川忠興に仕官した加賀山隼人(興良)は熱心なキリシタンであり、小倉藩総家老を務めたほどの人物であった。しかし江戸幕府による禁教令が出た後も教えを捨てる事はせず、その為に職を解かれて蟄居の身となった。
忠興は加賀山を惜しんで何度も棄教を勧め、「自分と共に地獄へ行こう」とまで告げたが、彼が首を縦に振る事はなかったという。
いよいよキリシタンへの迫害が始まり、元和5(1619)年、京都の大殉教と呼ばれる大量処刑が行われた。幼子までもが母の腕に抱かれたまま火炙りにされるという地獄絵図を目の当たりにした忠興は加賀山の説得を諦め、帰国後程なく処刑を命じた。従弟と5歳の息子と共に刑場に臨んだ加賀山はかつて神父から送られた修道服を纏い、斬首される前に祈りの言葉を口にする事を許されたという。
彼の息女・みやも数奇な運命を辿り、後に熊本の地で殉教している。その後2008年に、ローマ法王・ベネディクト16世により福者認定を受けた(ペトロ岐部と187殉教者)。
小倉城の隣にある小倉祇園社(八坂神社)は「小倉のぎおんさん」と呼ばれて親しまれているが、その謂れとして次のような話が伝わっている。
忠興が供を連れて鷹狩に出た折、山中でボロボロになった祠を発見する。中に何があるのか興味津々だった忠興は、扉を手ではなく杖でこじ開けようとした。途端に中から鷹が飛び出して忠興の目を蹴りつけ、その場に昏倒する羽目になった。慌てて家臣らが城に連れ帰り手当を受けたが、どうしたことか忠興の目が見えなくなってしまった。
罰が当たったと反省した忠興はただちに城の傍らに神社を立てさせ、家臣らも石灯籠を奉納した。やがて目の病は快癒し、現在でも眼病平癒にご利益があると伝えられている。
元和4年(1618年)には豊前国の一帯で疫病や水害が発生し、忠興は家宝を換金して被災者の救済に当てると共に、八坂神社に参籠。その後被害が治まった事を祝う為、京都の祇園祭を模した盛大な祭りを開いた。その後細川家が熊本に転封後、小笠原家が藩主となってからも祭は続けられて「小倉祇園太鼓」と呼ばれる祭となり、現在でも夏を彩る人気のイベントとなっている。
評価
苛烈な面ばかりが強調されがちであるが、別に年がら年中キレたり病んだりしてる訳ではない。
それ以外は常識人であり、武将としても優秀であった。また上記の逸話のように気骨ある人物であり、寛容な一面があった事が伺い知れる。
本能寺の変や関ヶ原の戦いなど、家名存亡の危機を乗り越えて、足利・織田・豊臣・徳川全てに臣従しながら、家名を現代まで伝えたことは高く評価できる。
ガラシャの死については非難されることが多いが、彼女の死によって西軍が東軍諸将の妻子を人質に取る動きが封じられた事、東軍諸将が発奮した事、そして家名を上げたのも事実である。
筆まめであったようで、息子・忠利とのやり取りだけでも3000通近い手紙が残っている。これらは他の大名・旗本らの行状や当時の政治情勢、武家の生活を現代に伝える貴重なソースにもなっている。噂レベルの風聞も余さず父子で共有した事で、複雑を極めた江戸の権力闘争を見定め、対応していた事が伺える。
一方で数寄者(すきしゃ)であり、何かと借金が多かったことでも有名。徳川家康、豊臣秀次、立花宗茂などに借金しまくりだったらしい。
※一応補足しておくと、これは別に数寄が理由で貧乏だった訳ではない。領内で飢饉が発生しただの、軍備を整える必要があっただの、城の普請や出陣などの幕府への奉公でこさえた借金もある。また金が必要な時は迷わず名物を手放すなど、柔軟な対応を取っている。
交友関係は広く、伊達政宗、立花宗茂、島津忠恒、藤堂高虎らとは手紙のやり取りの他、屋敷に遊びに行くほど仲がよかった。特に政宗とは「悪友」の趣が強く、通常運転奇行については「狐憑き(お狐様の知り合い)なんじゃね?(稲荷殿の知音かと申す事に候)」などと手紙に残している。お前が言うな
※ちなみにこれはちょっと言いすぎ&誤解が多い話なので補足。
当時の政宗は深酒と御乱行が落首として出回るほど酷く、さては遂に独眼竜もボケたかと周囲から懸念されていた。そんな噂を受けて「それって狐が憑いたせいじゃないかな?(→だからまーくんは耄碌した訳じゃないよ)」とフォローしている。はず。
蒲生氏郷とは、お互いに数寄者として譲れない領分を賭け、師匠・利休の前でも悪口を言い合っていた。その一方、小田原攻めでは二人して高山右近の陣中を訪問し、当時は珍しい牛肉鍋を御馳走になったという話が残されている。
高山右近についても、彼が伴天連追放令に従ってマニラへと出国する直前、忠興宛に書かれた別れの手紙が現存しており、万感の想いと浅からぬ付き合いが伺える。
黒田長政とは関ヶ原の戦いで轡を並べて戦う仲だったが、領地替えの際に年貢を持ち逃げされたのを発端として険悪化。あわや戦になるかという所まで発展し、諸大名と秀忠の執り成しで最悪の事態は回避されている。
これにより黒田家と細川家は百年ほど絶縁状態となり、手紙の中でも「黒筑」(黒田筑前守)に関する内容は大体クソミソである。
特に長政が老中・土井利勝に接近を図り、色々やらかして不興をかった時は「小細工が得意な奴だったけど、今度ばかりは尻尾が見えたなプークス(惣別かような才覚前々より上手にて候が、今度は尾が見え候や、笑止に存知候)」とまで書いている。ひどい。
更に黒田騒動(長政の嫡子・忠之の不品行に端を発した御家騒動)の際、幕府からの上使が別件で肥後入りする時に領内を通られたくなかった黒田家が「肥後に行くのにウチの領内通ったら遠回りばい(意訳)」と嘘をつき、即バレして上使や幕閣の笑いものになるという珍事があった。
この時も忠興は忠利宛の手紙に「あんまりにも子供っぽい話で、子供が大小便を人前で垂れ流してもお目こぼしされるようなものだ(余りのわらんべ(童)にて、大小便、人中にてたれ候も苦しからぬ心にて候)」と書いている。すごくいい笑顔が見えるのは気のせいか。
とは言え、歳を取ってからは人が丸くなったようで、秀忠から天下の政務について問われると
「四角い器に丸い蓋をしたようになさいませ」(=四隅が抜けてゆとりが出来るような政治)、
「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると
「明石の蠣殻のような者をよき人と申します」
(明石の潮の流れは激しいが、潮にもまれた牡蠣は殻が滑らかで形も味も良い=苦労した人は人当たりも柔らかく、良い性格である)と答えたという。
苛烈な為政者と芸術家としての二面性から、さぞ難儀で複雑な性格であったかと思いきや、忠利から酒井忠勝宛の手紙によると「子供のように純粋な人」と評されていたりする。
一方で幽斎からは「性格が豪強」、ガラシャからは「引くことを許さない人」と評されたとか。
後世の創作
キャラが立っている一方、知名度としては妻・ガラシャの方が高い事もあり、どちらかというとそちらの添え物扱いになっている事は否めない。とは言え、ない訳ではないので紹介。
吉川英治「日本名婦伝」では、ガラシャに対する深い愛情と執着を見せる忠興が登場。(史実はさておき)ラストシーンの美しさと悲しさは一見の価値あり。
阿部龍太郎「天下布武-夢どの与一郎-」では主役を張り、織田家に仕える若き日の忠興(与一郎)の青春時代が描かれている。ただし荒木村重がだいぶひどい描写なので荒木ファンは注意。
松本清張「火の縄」は、世にも珍しい稲富祐直が主人公の長編。偏執的で冷淡なガラシャ、それに負けず劣らず嫉妬深い忠興といういつもの感じ内容だが、「夫婦揃って狂うておる」とまで言われる姿はある意味斬新。でも主人公は稲富くんなので忘れないであげてください。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、矢柴俊博が忠興を好演。「手裏剣戦隊ニンニンジャー」で温厚な父・伊賀崎旋風を演じた氏がまさかの配役ということで、ファンからは驚きの声が上がった。
劇中では橋本マナミ演じる妻・玉には甘いようで、屋敷内に礼拝堂を作らせて信者と共に礼拝するのを黙認している他、屋敷を訪れたきりにも丁寧に礼を返すなどの描写で「こんな穏やかな忠興が見られるなんて...」という声がTwitterでも多数確認。
一方、助力を求めた石田三成の非礼にブチ切れて干し柿を投げつけ大喝する激しさを見せつつ、真田昌幸が仕切った軍議においては悪友伊達政宗と共に、ギャグめいた応酬を見せた。
( ■A゚)<伊達越前守政宗!
(´・ω・)<細川越中守忠興!
補足
「信長の野望」シリーズにおける細川忠興の能力一覧。
チートパパ・細川幽斎には及ばないものの全体的に能力が高くバランスが良く、軍事にも内政にも使えるオールラウンダー。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 79 | 政治 | 81 | 魅力 | 70 | 野望 | 65 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 78 | 政治 | 70 | 魅力 | 79 | 野望 | 66 | 教養 | 81 | ||||
覇王伝 | 采配 | 79 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 61 | 政治 | 72 | 野望 | 66 | ||||
天翔記 | 戦才 | 156(A) | 智才 | 148(B) | 政才 | 152(A) | 魅力 | 75 | 野望 | 75 | ||||
将星録 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 85 | 政治 | 84 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 74 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 72 | 政治 | 80 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 72 | 智謀 | 67 | 政治 | 75 | 野望 | 72 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 64 | 知略 | 67 | 政治 | 76 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 65 | 知略 | 67 | 政治 | 77 | 教養 | 74 | ||||||
革新 | 統率 | 74 | 武勇 | 77 | 知略 | 75 | 政治 | 86 | ||||||
天道 | 統率 | 74 | 武勇 | 77 | 知略 | 75 | 政治 | 86 | ||||||
創造 | 統率 | 75 | 武勇 | 72 | 知略 | 75 | 政治 | 78 |
戦国大戦
Ver2.0で豊臣家として参戦。
Ver2.0では数少ない豊臣の伏兵(他は黒田官兵衛と田中吉政)。しかし代償として豊臣家の特徴である豊国は持っていない。まあ豊国もあったらハイスペックすぎるけど。
計略の「日輪の呪縛術」は豊臣家特徴の日輪計略。
ゲージを使わなければ敵の移動速度を気持ち下げる程度だが、3消費して大絢爛になると、あの毘天の化身すら突撃できず止まる。効果時間は敵統率にはほぼ関係なく一定の効果があるが、その代わり効果時間は短め。でなきゃ壊れすぎだが。士気5だし。
Ver3.0ではガラシャを失った後の姿で槍を鉄砲に持ちかえて参戦。武断派ということもありそのスペックは2コストにして武力8統率8と破格。ただし忠誠持ちなのでデメリットもある。
計略は「弔いの炎」で火牛系ダメージ計略になった。自分の忠誠度が高い程威力が上がる。
Ver3.2では「電影武将(デジぶしょう)・宴」として、ガラシャをプリントした着物を着用し、ガラシャの人形造りにいそしむというだいぶアレな感じで登場。
計略「趣味の時間」は武力と射程距離が上がり、統率力による戦闘ダメージを与えられるようになるがデメリットあり。あとうるさい。\ガラシャー!/
関連動画
関連項目
- 歴史
- 戦国時代
- 戦国時代の人物の一覧
- 細川藤孝 - 父
- 細川ガラシャ - 正室
- 細川忠利 - 嫡子
- 明智光秀 - 舅
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- ヤンデレ
- 采配のゆくえ
- 戦国無双
(2猛将伝で妻ガラシャが参戦、ただしほとんど絡まない…が、戦国無双3猛将伝・3Zではガラシャを愛しすぎる男としてプレイヤーに強烈なインパクトを残した)
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