文宣帝、名は高洋(こうよう)、字は子進は、中国南北朝時代の人物。北斉の初代皇帝。生没年529~559年。
在位期間550~559年。北斉を建国して強国に隆興させた英主であったが、後に狂疾して暴君となった。
出自
河北地帯を支配していた北魏の権臣・高歓の次男として生まれる。他の兄弟が恵まれた容姿を持ち、利発であったのに比べ、高洋は風采が上がらないうえ、何を考えているの分からず、兄弟や朝臣からは軽んじられていたという。だが、高歓が息子たちの力を試した時に最も非凡な面を見せたのは高洋であった。
高歓は息子たちに、絡まった糸を渡して解くように命じたところ、高洋は剣を抜いて糸ごと断ってしまった。高洋は「乱れたものはすべからく斬るべし」と言い高歓はこれを良しとした。これが「快刀乱麻(を断つ)」の語源といわれる。
高歓は息子たちに兵を与えて模擬戦を行わせた時、部下である猛将の彭楽に息子たちを襲撃するように命じた。他の兄弟たちが恐れおののく中で、高洋ひとりが兵を率いて立ち向かい彭楽を捕らえた。
これは自分以上かもしれないと高歓は評価したが、兄の高澄は普段役立たずな高洋が大成するわけないと弟を軽蔑していた。
皇位簒奪
高歓の死後は高澄が後を継いだ。すでに高一族は北魏の東半分を牛耳っており、東魏として分裂する。
高歓と肩をならべていた実力者である宇文泰は北魏の西半分を掌握し、こちらは西魏と呼ばれる。
高澄は東魏の皇帝である孝静帝を傀儡として、簒奪も時間の問題であった。高澄は美男子で才知にすぐれていたが、酒乱でサディストの気があった。結局その性格が祟り、高澄は虐待していた奴隷に暗殺されてしまう。
兄の凶報を聞くや高洋は現場に乗り込み、たちまちのうちに暗殺犯を誅殺して、沈着に事態の収容にあたった。大丞相である高澄の死は東魏を混乱させるかに見えたが別にそんな事はなかった。
かねてから高澄と不仲で、ないがしろにされていた孝静帝は高澄の死に快哉したが、高洋の勇姿を見て、かえって自分の命数が縮んだ事を悟ったという。今まで魯鈍として見られていた高洋が牙を隠していた事は人々を驚かせた。高洋は高澄の地位と家督を継ぎ、兄に劣らぬ手腕を見せたので、宿将たちも考えを改めて従った。
やがて高洋は斉王に位を進めて、孝静帝から簒奪して禅譲をうけて皇帝に即位した。(北)斉王朝の誕生である。21才の若き新皇帝の働きは目覚ましく、政務に励み、国内の整備を行い成果をあげた。特に官吏の汚職には厳しく対応した。
英雄天子
高洋は軍才にも恵まれ、自身が兵を率い、自ら敵の攻撃範囲に入って剣をふるう勇者であった。皮膚は鱗のようで、極寒酷暑でも平然としていたという。勇猛なだけでなく知略にも優れ、自身が軍師となって作戦をたてて勝利を重ねた。
高澄の死に乗じて、西魏の宇文泰が攻めこんできた時、宇文泰は北斉軍の陣容の素晴らしさを見て、「高歓は死んでいなかったのか!」と退却した。
552~555年に皇帝親征を行い、万里の長城を越えてモンゴル・満州地方といった北東アジアに進軍を開始。
突厥、高句麗、契丹、庫莫奚といった諸民族国家を大いに撃ち破った。さらに万里の長城の大規模改修を行い、
北方地帯を鎮圧させた。南方の梁との戦争でも勝利したものの、長江という要害もあって、多少の戦果を上げたに留まった。
高洋一代により北斉の勢力圏は大幅に拡大し、帝国の臣民は300万戸・2,000万にも達した。
暴君化
文武ともに優れた業績を打ち立てていった高洋であったが、即位して6~7年経つと次第に暴君(というよりは狂人)に変貌していく。落ち着きを払った大度ある性格は失われ「自分の功業に驕る」+「とんでもない酒乱」+「残虐な高一族の血が騒ぐ」等が原因となって重度の精神汚染の状態となる。元々一日中政務をしても飽きない・疲れない抜群の体力の持ち主であったが、今度は昼夜を問わず暴れまくる非常に迷惑な存在となる。
造営による人民の酷使。見境のない漁色といったテンプレな所業は勿論、類を見なかったのは酒乱による快楽殺人である。政治的な粛清もあったが、気分のおもむくまま衝動的に殺したり、ランダムに殺したり(高洋自身、自分は何をするか分からんと言っている )という残虐無道ぶりであった。
- ある時、東魏の皇族に「漢が王莽に一度滅ぼされたのに、何故また再興されたのか?」と質問をした。皇族は「それは王莽が漢の皇族を皆殺しにしなかったでしょう」と答えた。そりゃそうだと高洋は東魏の皇族たちをまとめて処刑して河に遺棄してしまった。しばらくの間、魚の腹からは人間の指などが見つかって人々は魚食をやめたという。
- 酔う度に人殺しを趣味としたので、宮廷の庭には大きな釜・長いノコギリ・ヤスリ・臼などの処刑道具を並べていた。多くの宦官、宮女、家臣が殺されていき、困った大臣は死刑囚の檻を置いて生贄とした。3ヶ月経っても殺されなかった者は特赦されたという。しかし、殺しすぎて死刑囚の供給が追いつかず、しまいには取り調べ中の容疑者も宮中に送り込まれた。
- 囚人たちに筵(むしろ)をパラシュート代わりに与え、100m近い高台から飛び降りるように命じた。彼らが墜落するのを酒の肴に楽しみ、奇跡的に一人助かった囚人は牢屋に閉じ込めて餓死させた。
- 後継ぎである息子の高殷は温和であったが、それを嫌い、まだ幼い高殷に囚人を斬れと強制して、出来ないと鞭を打って虐待する。高殷はトラウマで精神を病んでしまった。だが、まったく親子の情が無いわけでなく、理由は後述。
- 義兄(姉の婿)が柔和な美男子であったので、女装させて「俺の嫁だ」と嘯く。
- 家臣の弔問に訪れた時、夫人が悲しんでいるのを不憫?に思い。亡夫に会えるように斬殺する。
- 宮中だけでなくボディーガードに自分を担がせて街に繰り出し、乱痴気騒ぎを引き起こした。
- あまりにも非道い有り様に、母親の婁太后から杖でぶん殴られると「婆あ嫁に出すぞ」と暴言して婁太后は激怒する。そしてなぜか高洋は母親を笑わせようと寝台ごと母親をぶん投げ、怪我をさせてしまう。酔いから覚めると流石に反省した高洋はキャンプファイヤーを用意させてダイブをしようとするが、驚いた婁太后から止められる。しかし、気の済まない高洋は、今度は親戚のおじさんを呼んで「鞭で俺を存分に打ってくれ、血が出ないようなら貴様を殺すぞ」
- 酔いから覚めると反省したり慚愧して禁酒をしようとしたが、全く長続きしなかった。
こうした蛮行から多くの恨みを買っていたが、記憶力が良く、厳格で果断な高洋を恐れて、暗殺を企てる者もいなかったという。
治世前半の貯金が利き、政事は楊愔(よういん)という有能な大臣にまかせていたので、意外にも国内は比較的安定していた。ちなみに楊愔は酒に酔った高洋に解剖されそうになった事がある。
最期
酒の飲み過ぎで、末期には食事をとる事もできず、31才の若さで崩御。顕祖・文宣帝と諡された。
次期皇帝を長子の高殷にするものの、長弟の高演にも後事を託し「おまえが簒奪するのはかまわないが、高殷を殺さないでくれ」と懇願する。しかし、後に高演は高殷を廃立したうえに殺害してしまう。
未来視
酒によって人格が完全に破綻し、幻覚症状までが出た高洋であったが、時折、神霊が宿ったのかのように未来を予知する言動をする事があったという。
- 道士を呼んで、自分の在位期間を占わせたところ30年という結果が出た。しかし、高洋は30というのは天保(元号)10年10月10日の合計数ではないかと懸念したという。果たして在位して10年、その月日に亡くなった。
- 家臣により息子の名前が名付けられ高殷、字は正道と決まった時「殷は兄の後を弟が継ぐという事だ、また正という字は一と止という字にわかれる、つまり一で止まり後が続かない」と指摘した、慌てた家臣がこの名前はやめましょうと言ったが高洋は「天也」と言って許可しなかった。後にその通りの結果となった。
- 定州城の西門は何故か長年開く事が出来ず、高洋が通リかかった時に家臣が開こうとしたところ、高洋は「これは後に聖人によって開かれるだろう」と言ってやめさせた。後にある人物がこの門を開いて人々を驚かせた。この人物は天下を統一して隋朝を開く楊堅であった。
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