主な勝ち鞍
1952年:桜花賞、優駿牝馬、安田賞、中山牝馬特別
1953年:安田賞
1954年:川崎記念[1]、ワード賞、黄金賞、金の鞍
1955年:ワード賞
概要
1949年(昭和24年)の5月3日に北海道の静内で生まれた。父はセフトでイギリスで競走馬で活躍しその後日本に持ち込まれた馬である。スウヰイスー以外では「幻の馬」と称されるトキノミノルの父だったりしている。
母は武兆で通算8戦2勝の成績であった。母の父は日本競馬史上未出走で最も成功した種牡馬といわれる月友である。
スウヰイスーが活躍した時代は馬の年齢は数え年であったため、特に断りがない限り年齢の表記も当時に合わせて記載する。
デビューは1951年3歳の夏、8月19日の札幌競馬場の5万下条件戦と新馬戦ではなく、いきなりの条件戦であったが、これを見事に勝利した。2戦目は9月29日の東京競馬場の芝800mのオープンレースに出走したし大差勝ちで、47.3のレコードタイムだった。
(現在中央競馬では800mのレース設定は存在しない)
その後3戦2勝2着1回の後、朝日杯3歳ステークスに出走したが5着となった。
年が明けて4歳の初戦は当時3月10日に行われた、第1回のスプリングステークスに出走するも5着となり、連闘で3月16日にオープンレースに出たが3着であった。
次戦は1ヶ月後の桜花賞に出走も脚部不安の話が一時出たため5番人気と低迷したが、不安説を払しょくし1:38.3のレコードタイムで勝利した。
その後1戦を挟んで(当時優駿牝馬は秋開催だったため)東京優駿に出走したがこの年は31頭が出走し8着であった。
この後は2戦し7月の安田賞(現・安田記念)に出走し勝利し秋に備えることとなった。
9月にオープンレースで勝利の後10月の優駿牝馬を勝利し牝馬2冠を達成する。その後は当時は牝馬3冠目のレースがなかったため、菊花賞に出走したが2着となりその後更に3戦し、1勝2着2回となった。
4歳時は16戦8勝2着4回であった。
年が明けて5歳になり初戦は東京杯(現・東京新聞杯、当時2400m)に出走し5着の後5戦し再び安田賞に出走し連覇を果たした。このこの当時はハンデ戦で62キロのトップハンデあったがみごとに快勝した。
その後5戦2勝したあと、天皇賞(秋)の5着を最後に中央での活躍を終え地方に転厩することになる。中央での成績は35戦18勝であった。
6歳になり7月29日に行われた大井競馬場のワード賞に出走し1着のあとは、8月に行われていた川崎記念を勝つなど、6歳時は約5か月で11戦し8勝2着1回だった。
7歳時は初戦を2着の後1着、4着、2着となり3月9日の船橋の金の鞍の2着を最後に引退した。
今とは時代背景は違うものの中央・地方含めて50戦以上も走るという過酷な競走馬であった。
引退後
1955年の7歳(現6歳)に引退し8頭の産駒がいるが、中央で4勝したゴールデンビームがいるものの目立った活躍をあげる馬はいなかった。
なお、牝系としては活躍を残していて1998年にフェブラリーステークスを勝つ、グルメフロンティアの母の母の母の母と4代母の血筋として受け継がれている。
馬名のエピソード
馬名のスウヰイスーは「ス・ウイ・スー」と読むのだが、当初馬主のひとり女優高峰三枝子は「スイートスー」という読みで「スウヰトスー」にするつもりだったが、馬名登録をするさいに調教師が勘違いで「スウヰイスー」で申請し登録されてしまった説が伝えられている。
馬主の女優の高峰三枝子は本名、鈴木三枝子で夫の鈴木健之と共同馬主であった。
ちなみに「ヰ」(イ)は、現在は使えないものの当時は馬名に使うことができた。また「ヱ」(エ)も当時は使うことが出来た。
血統表
*セフト 1932 鹿毛 |
Tetratema 1917 芦毛 |
The Tetrarch | Roi Herode |
Vahren | |||
Scotch Gift | Symington | ||
Maund | |||
Voleuse 1920 鹿毛 |
Volta | Valens | |
Agnes Velasquez | |||
Sun Worship | Sundridge | ||
Doctrine | |||
武兆 1938 栗毛 FNo.5-e |
月友 1932 栗毛 |
Man o' War | Fair Play |
Mahubah | |||
*星友 | Sir Martin | ||
Colna | |||
光風 1933 鹿毛 |
*ブラックスミス | Matchmaker | |
Avington Mare | |||
華栄 | *チャペルブラムプトン | ||
リツツルフェーム | |||
競走馬の4代血統表 |
関連コミュニティ
関連項目
脚注
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