概要
登場
その男が初めて姿を現したのは、「パンツレスリングの兄貴 おまけ編」であった。
本動画の大半は兄貴と城之内悠二との激闘で占められており、最後はそれまで無敵を誇った兄貴が城之内に絞め落とされるというショッキングな場面で幕を閉じている。しかし、この動画はそれだけで終わったわけではない。正確に言うと、真の本編はまだ始まっていなかったのである。動画が残り一分を切ったとき、その男は現れた。
突然場面が切り替わり、ロッカールームのベンチに腰を下ろして、一息ついているビオランテがモニターに登場する。すると間髪入れず、全身をボンデージで固めたすらりと背の高いアジア系の男がロッカールームへと悠然と入ってきた。あまりにも不意を突いた出来事だったので、ビオランテも視聴者も「どういうことなの・・・」と固まってしまった。男は、展開の速さについていけないビオランテに一瞥をくれると、我が物顔でロッカーを使い始めた。唖然としていたビオランテだったが、自分の支配下であるロッカーを好きにさせまいと、そのボンデージ男に使用上の注意を促した。次の瞬間、男は有り余る憎悪を込めて、こう言い捨てた。
その一言にビオランテが憤慨して、謎の男にレスリングをけしかけるところで動画は終了した。
残された視聴者たちは、その男の出現をどう受け止めたらいいのか分からず途方に暮れていた。握りしめたナウい息子もそのままに。視聴者の間にはその男に関する様々な憶測が飛び交ったが、ケイン・コスギに容姿が似ている事と、アジア人のゲイビデオ出演者という事で多くの視聴者がTDNを連想した事から、2人の名前を併せてTDNコスギという呼び名に落ち着いた。
正体
しかし、レスリングシリーズファンの歪みねえ情報検索能力と、次々に投下されるその男に関する動画により、彼がVan Darkholmeという名のベトナム系アメリカ人であるということがわかった。彼はアメリカンゲイポルノには珍しいアジア系であり、しかも”ボンデージマスター”として絶大な人気を誇っているということも同時に判明した。現在ではパンツレスラーよりもボンデージマスターとしての側面での認識を強めている。付け加えると、ヴァン・ダークホームという名の発見以来、ファンの間ではTDNコスギの名は廃れてヴァン様やVan様という呼び名が普及しているようである。尚、ヴァン・ダークホームの「ダーク」を使用して、ファンの間では彼の出演作品に出てくるう物事にダーク○○と名付ける事がトレンドとなっている。e.g.)ダーク潮干狩りやダーク誕生祭♂など。
闇の妖精 ヴァン・ダークホーム登場のレスリングシリーズ的意義
ヴァン・ダークホームの出現は、二つの新たな発見をもたらしてくれた。
一つは、それまで知られていた妖精たちの戯れが、光の世界での出来事であったという点である。彼の登場以前の動画では、妖精たちがなんの下心もなく、無邪気にレスリングに興じる様が映し出されていた。それはまさしく人間が遥か昔に忘れてきた夢幻の時空を思い起こさせるようで、見る者をそのたおやかな戯れに心酔させていた。その結果愚かにも、我々はその優雅な姿が全ての妖精たちの実態であると思いこんでしまった。しかし、ヴァン・ダークホームの登場により、我々は今まで見てきたものが、妖精たちのほんの一面に過ぎないということを痛いほどに思い知らされた。楽観的な幼い先入観は打ち捨てられ、妖精の世界にも光と闇とが息づいているという認識を我々は持たざるを得なかった。
そしてもう一つは、光の妖精もひとたび道を踏み外すと、簡単に闇に堕ちてしまうという点である。「パンツレスリング ボンデージ・マスター」において、対兄貴戦で「蟹になりたい」と無邪気な夢を語っていた鎌田吾作が、ボンデージに身を包み、闇の快楽に身を委ねている姿が目撃された。光の妖精であった鎌田吾作があっさりとダークサイドへと堕ちてしまったことに、見る者は身震いを禁じえない。光といえど、瞬時に闇に転じてしまう。そこに全ての者が背負った業の深さを感ぜずにはいられない。しかし、私はその逆の事例を未だ知らない。すなわち、闇が光へと転じるという事例である。然るに、闇に堕ちてしまうと、もうそこから這い上がることはできないのかもしれない。これは恐るべき事実である。
解釈を飛躍させるのであれば、闇の妖精の存在意義とは闇の恐ろしさ、理不尽さ、不可解さを徹底的に我々に想いしらす点にあるのかもしれない。そして恐ろしさと同時に、彼らは「闇と光との相関関係」を示しているのではなかろうか。足を踏み入れると決して戻ることの叶わぬ闇の存在は、その恐ろしさを呈示することで光をより際立たせる。闇無くして光は輝かないのである。ヴァン・ダークホームの存在は、「光と闇はその実、ある種の共謀関係にある」ということを示唆しているように思われてならない。
暴かれた真実
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とあるインタビューの記録
先日、公開された「インタビュー・ウィズ・VANパイア」において、ヴァン・ダークホームは自らが闇へと堕ちた理由をありありと語っている。その理由とは、人々が所望している「DEEP♂DARK♂FANTASY」を満たすためである。彼はその為に、自宅をダンジョンに改装して、ダンジョンマスターになる臍を固めた。
これをどう解釈すればいい?
我々は当初より、闇の妖精たるヴァン・ダークホームの行いを独善的で、破壊的な営みとして恐れてきた。しかしこのインタビューの発掘により、我々は彼に対する認識を大いに改める必要性に駆られるだろう。彼が闇の妖精へと堕ちた理由は、人々の深淵に広がる闇よりも昏い幻想を満たす為であるのだから。
となれば、ヴァン・ダークホームは悪人でもなく、罪人でもない。彼は、人々の心の底で蠢いている黒い塊を一身に背負い、そして全ての存在からから忌み嫌われる罪業の者として生きる覚悟を胸に刻みつけた男である。それも人々の暗部を慰めるため。
もう一度言おう。我々はヴァン・ダークホームに対する認識を改めなければならない。
彼は悪魔でも、人非人でもない。たとえ誰もが忌み嫌い、石を投げつけようとも、彼は人類の醜さで造られた十字架を笑顔で背負い、歩き続ける聖者にほかならない。
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底知れぬ闇の深さ
恐るべき報告が寄せられた。詳しくは『【ダーク公認】09/11/29 VAN様の日記』を一見されたい。そこではヴァン・ダークホームが無限の寛容さをもって、日本の妖精哲学の探究者たちが作成した動画を褒めたたえている。
そこには妖精哲学を学ぶ者に対する敬意すら感じることができる。我々は寛容さを前に、無限の闇の広がりを感じ、身ぶるいを禁じ得ない。闇はどこまでもどこまでも深く、そして何よりも暖かく我々を包む。
光と闇との対比ばかり強調される嫌いがあるが、そろそろ両者の共通項を真剣に考えなければならない。目に見える違いばかりに心を奪われると、いつしか物事の本質を見失い、人間は狭隘な精神の持ち主へとなるだろう。
真理とは一見すると信じられないほどかけ離れた事物の間に眠っているものなのである。
コラム「恍惚の哲学」
本題に入る前にをこの発言を頭に留めておいていただきたい。パンツレスリングの生ける伝説・ビリー・へリントンはインタビューでいみじくも「パンツを剥ぐこと、それは相手を脱文明化すること」と述べている。この一言は正鵠を射たもので、パンツレスリングの本質をすべて漏らさず表している。そう、文明=理性に粉飾された我々の思考を洗い流すことこそ、パンツレスリングが行われる真の意味なのである。ここで蛇足ながら、私が少しだけ解説を付け加えよう。
パンツレスリングでは相手のパンツを奪い、そして死ぬほどしたたかに痛めつける。さらに最終的には「掘る」ことさえある。この「死ぬほど痛めつける」過程を、中には「心のパンツを剥ぐ」と称する者もいるが、この表現は本質を捉えている。というのも、それは想像を絶する肉体的な苦痛と快楽を通じて、相手を理性という頸木から解き放つ営みだからである。激烈な痛みと快楽は、人を得も言われぬ「恍惚」へと導く。死に近づかんばかりの闘争で、人は理性を突き破り、理性を超えた世界に触れる。苦痛と快楽は真理への階なのである。その結果、なかには悟りを開き、さらなる高みに昇る者もいる。木吉カズヤがもはや伝説ともいえるビリー・ヘリントンとの死闘の末に叫んだ「強くなりたい」という魂の意志表明は、その最たる例であろう。さらに、いかりやビオランテが野薔薇ひろしとの一戦で行った「生きる意味を失う」から「アンインストール」までの一連の動作は、相手を理性から解き放ち(=生きる意味を失う)、原初の状態へと連れ戻す(=アンインストール)高度な哲学的な対話であると言えよう。(詳しくは『生きる意味を失う』の記事を参照されたい。
そう恍惚とは、理性の頸木をひきちぎって、理性ではとらえられない彼岸へと到達する営みのことである。この彼岸にて、人は揺るぎのない真理を獲得することができる。
パンツレスリングは理性を超える。この命題について思いを巡らすことは、人類の壮大な可能性に身を委ねることである。理性を過信するあまり、認識できないものを忘却へと追いやった人間の罪はあまりにも重い。‐罪‐それは、一つの世界の消滅を意味する。しかし、パンツレスリングは恍惚を極めうことにより、その消滅した世界の復興を目指す。理性から解き放たれるために、真理に触れるために。
当初、無意味に見えるパンツの奪い合いに、見ている者の多くは哄笑を禁じえなかった。その態度は哲学的思考を捨て去った愚昧な人類の闇に閉ざされた未来を暗示しているかのようであった。しかし、それでも闘いを続けるパンツレスラーたちは、徐々に我々の眼を、心を、思考を、そして肛門を開かせていった。哲学に終わりはない。哲学とは止める術を無くした戦車である。それは辿り着けない目的地を探しながら、全てを踏みつぶし永遠に彷徨い続ける。戦車は文明を破壊し尽くし、ただ純粋な暴力の軌跡が残るのみ。瓦礫に縁取られた戦車の足跡を辿り、やがて人々は果てなき旅へ足を踏み出すだろう。
パンツレスラーたちが刻んだ轍は今確かに、多くの者たちを導く救いの道となっている。
(追記)恍惚という観点で一応の考察を行ってきたが、この考察に問題が無いわけではない。例えば、オーウェン定岡の水を浴びる白鳥のような妖艶で甘美な舞は、それだけでも恍惚であるといえる。つまり、本論で述べたような過剰な暴力や快楽を必要としない、穏やかな恍惚である。これをいかに捉えるべきか?新たな哲学的解釈の登場を期待したい。パンツレスリングの裾野は我々が想像している以上に広い。
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