伝統理論と批判理論とはドイツの哲学者マックス・ホルクハイマーによる科学哲学の論文である。
概要
本書で紹介される「批判理論」は、ホルクハイマー哲学だけでなく彼の創設したフランクフルト学派を代表するキーワードである。批判理論は、ある特定の科学 理論を指すのではなく、従来の理論の組み立て方(伝統理論)そのものを疑い、新たなる真理への道を示す方法論であった。
それではまず、従来の理論(伝統理論)と批判理論の特徴を比べてみよう。
伝統理論
・数量的、統計的認識に基礎付けられる
・デカルトの『方法序説』に代表される
・数量的、統計的認識を用いつつも、その枠内に捕われない
これらを、もう少し詳しくそれぞれを見ていこう。
伝統理論
伝統理論を一言で言ってしまえば、科学主義、統計主義のことである。デカルトから始まった近代科学理論は、いまではあらゆる分野に広まった。複雑な情報を統計的に処理し、理論化する。そこでは厳密なルールが定められた形式論理に基づいて、全ての部分で矛盾が取り除かれる。伝統理論においては主観的な事柄と、客観的な事柄を完全に分離させる二元論[1]に基づいているのだ。客観的な数量データを統計処理し、主観によってそれを定式化する。そして逆にその定式に客観的なデータを当てはめたりすることもある。例えば心理学では、実験参加者はアンケート受け、心理学者はその結果を統計でまとめ、理論として確立する。またその理論を別のケース当てはめて問題解決の鍵とすることもできるだろう。このような用法こそが近代科学の意義である。
しかしホルクハイマーはこの伝統理論の限界をこの論文の中で示す。科学主義たる伝統理論は、ある与えられたシチュエーションの中で科学的な研究が分業的、専門的に行われることを前提としている。例えば「人間社会」を研究する場合、政治学者、社会心理学者、経済学者、国際論学者と様々な学者がそれぞれの専門に分かれ「人間社会」を分析することになる。だが彼らは各々の専門分野の中に閉じ込められ、お互いの関連について直接に見通されることはない。これは、分業の定まった工場においてベルトコンベアで働く労働者が自分のやっていることが全体でどのような意味を持つのか理解していないことに似ている。学者たちも自分の仕事が社会の総体の中でどのような意義があるのかを知らず、ただ自分たちの枠組みの中だけで自らの研究の意味を見いだす。
こうして、学問は「人間のための学問」でなく「学問のための学問」に成り下がる。科学理論は人間を越えて神のように聖化され、実践から切り離される。科学者たちは現実的な社会や政治、人間の問題を忘れ無関心になる。それどころか、学問が現実にかかわることを積極的に回避し、現実社会の中で科学がどう用いられているか、またその是非の議論は科学の外にあるものとされる。
今日の資本主義社会において学問は、社会によってその必要性を認められ、経済的援助を受けなければ存在を継続することすらできない。その意味で専門的科学研究活動は一つの労働である。労働者である科学者たちは経済的支配を社会から飢えるおとになる。かくして社会を支配する力が科学の方向を決定し、その意味や価値を判断する審判者となる。結果、科学者たちとその専門科学は既成社会の枠に取り込まれ、現存するものを存続させ、再生産するための現体制イデオロギー的役割を果たし始める。しかし、それこそが問題なのだとホルクハイマーはいう。
理論的に有益であろうとも、実社会においては有害どころか破壊的な科学というのは多い。例えば原子爆弾なんかはその代表であろう。伝統理論に基づく意思決定は、社会の総体を省みることを怠れば、真の合理を見誤るのである。よって科学者に求められるのは、研究室に閉じこもることではなく、実践的問題をとりあげそれを批判する姿勢である。
かつて封建社会で、市民階級が最初に形成され始めたとき、それと共に社会に登場した純粋な科学理論は常に革新的で、古い時代を批判する傾向を有していた。しかし今はその力も失われてしまっている。現代の伝統理論に固執する科学者達は実践的な力を持つ事もなく、持とうともせず、社会変革活動に参加する意欲もない。それどころか彼らは傍観者として、受動的に社会の現体制を承認する。彼らは問題の構造を理解できても、それに働きかけることはしないのである。
批判理論
それでは一方の批判理論とはどういうものか。批判理論は伝統理論とは異なり、理論の内部に矛盾を持たないことを真理の証としない。というのはそもそも私たちが生きる現実社会というのは矛盾に満ちているものだからである。批判理論はそんな矛盾に満ちた社会を総体として捉えるのだ。
ホルクハイマーは社会というものを、個人の行為の集合体でありながら、総体としては独立した動きを示す存在であると解釈する。社会は個々の主体を超越し、彼らを従わせる巨大な主体なのである。そんな社会の持つ矛盾を積極的に意識したものが批判理論であり、それは批判理論が矛盾溢れる社会の自己意識であることを意味する。よって批判理論は主観と客観を区別することをやめる。批判理論にとって、社会は客体であるとともに主体でもあるからだ。
批判理論は、伝統理論のように現状を観察、分析するだけのものではない。批判理論の関心は、社会の総体が抱える矛盾の克服を目指すという実践的問題である。批判理論は科学や学問の成果を、社会的実践に役立てることを目的とするのだ。
この批判理論のモデルになっているのはマルクスの経済思想である。マルクスは当時の経済学者(古典派)が疑いなく前提としていた利子、地代、貨幣、そして資本主義をラディカルに(根底から)再検討し、そういうものが廃棄される新しい社会を展望していた。ホルクハイマーの批判理論もまた、これまでの理論の前提そのものの変化の可能性を信じ、最終的にそれらの前提が廃棄され社会が変革されることを望んでいたのである。
カントにおける暗いもの
もうちょっと詳しく。
以上のような伝統理論とホルクハイマーが提唱する批判理論の分岐点にはカント思想が位置づけられる。ホルクハイマーは、カントの著作の中で最も現実の社会問題からかけ離れていると思われている『純粋理性批判』の中に、カントの社会認識を読み取ろうとした。
カントは『純粋理性批判』において、人間の認識のありかたを「感性」と「悟性」の二段階で考える。「感性」が対象を受け入れて、「悟性」が概念の形式で捉え直すというのがカントの考える人間の認識の仕組みである。その際に、「感性」は受動的だが「悟性」は能動的であるとされるが、この受動的な「感性」と能動的な「悟性」が実際にどのように結びついているか? という論点は、カントにとっても難問であった。そこでカントは「感性」の備える受動的と「悟性」の備える能動性を併せ持った「構想力」というものを想定した。しかしこの「構想力」という概念はカント哲学の中でも合理的に規定されておらず、カントもこれに関して断言することは避けていた。
だが、ホルクハイマーはこの矛盾を持った「構想力」の主体こそが「社会」であるというのである。ホルクハイマーによれば、 カントの自立的な主体のさらに奥底、人間の魂の深みで働いているものこそが実は社会なのだ。しかもその社会は人間の合理的な解明を拒む「暗い力」を持っている。だからこそカントは合理的な自分の認識論の核心部分に構想力という非合理的な暗闇を抱えることになったのだ、とホルクハイマーはいう。このことからも、ホルクハイマーが「実社会は矛盾に貫かれている」と考えていたことが分かる。
[1]二元論。世界の根源を二つの相反するもので捉えること。今回は主観と客観の二元。
関連項目
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