概要
当初は孫十郎基勝と名乗り、その後天台宗、もしくは禅宗の僧侶になったとされる。官位は民部卿法印。半夢斎、徳善院(戒名)と呼ばれることもある。いわゆる五奉行の一人。
もとは織田信長の家臣だったことが知られるが、実はこの頃のことはあまり知られていない。家督交代後美濃で織田信忠に仕え、本願寺との取次を任されるなど信忠の側近の一人であったようだ。また織田信忠の命令で井戸将元を殺害したことが『信長公記』に記載されている。
前田玄以が一躍歴史の表舞台に立つのは本能寺の変の際である。彼は長谷川丹波守とともに織田三法師を岐阜から清州に逃がし、彼の傅役となったのである。さらに1583年に織田信雄から京都奉行職を任され、以後京都で政務に携わる。
その後秀吉の関白任官に従い、京都所司代に就任したようだ。さらに1595年12月以降秀吉の養子たちが相次いで城主となった後に、丹波国亀山城に五万石を与えられたとされる(ただし、これは『寛政重修諸家譜』に従った1585年説も根強い)。
関ヶ原の戦いでは西軍に属したことになってはいるが、中風を患い一時危篤になるなどほとんど無関係な状態であり、兵を出さず河内国天野に屏去していた。その結果、戦後徳川家康からは本領安堵されることとなる。
彼の死後息子の前田茂勝が跡を継ぐが、発狂した末に改易され、断絶することとなった。
補足
内政能力が突出しており、ほとんど内政屋として活躍させると思われる。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 33 | 政治 | 65 | 魅力 | 65 | 野望 | 53 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 24 | 政治 | 70 | 魅力 | 67 | 野望 | 66 | 教養 | 70 | ||||
覇王伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 24 | 智謀 | 40 | 政治 | 71 | 野望 | 66 | ||||
天翔記 | 戦才 | 44 | 智才 | 120 | 政才 | 156 | 魅力 | 57 | 野望 | 67 | ||||
将星録 | 戦闘 | 20 | 智謀 | 79 | 政治 | 85 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 9 | 戦闘 | 9 | 智謀 | 72 | 政治 | 80 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 13 | 智謀 | 74 | 政治 | 78 | 野望 | 37 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 13 | 知略 | 80 | 政治 | 81 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 12 | 知略 | 77 | 政治 | 81 | 教養 | 67 | ||||||
革新 | 統率 | 14 | 武勇 | 13 | 知略 | 86 | 政治 | 90 | ||||||
天道 | 統率 | 14 | 武勇 | 13 | 知略 | 86 | 政治 | 90 | ||||||
創造 | 統率 | 23 | 武勇 | 31 | 知略 | 78 | 政治 | 89 |
関連項目
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