概要
端的に言えば南部師行の弟。北畠顕家と兄・南部師行が戦死した後、奥州の南朝方の一角となり、子孫が南朝方として活動していく端緒となった。
南部師行の戦死後
元弘3年(1333年)5月、南部政長は鎌倉幕府滅亡に際して奥州から鎌倉の討幕軍にはせ参じた。なお、この記録が、実は一次史料で確認できる南部氏が奥州にいた最も最初のものである。
南部政長の八戸南部家が、波木井南部家と実際は全く無関係である点、いとこの南部武行と領地争いをしていた点は、南部師行の記事に書いたので割愛する。
とりあえず、この南部政長が彼個人で何かをやった最初の記録が、結城朝祐が代官を派遣しなかった原因で没収された七戸が、北条氏残党討伐の功績で北畠顕家から彼に与えられたものである。おそらく、津軽で相変わらず内紛をしている曽我氏に注力するために、南部師行の外浜と合わせて、津軽鎮圧ルートとして与えられたものと思われる。
おそらく、政務を担う能力が高かった南部師行に比べ、軍事能力に優れた人物だったため、弟であったこともあり南部政長は以後実働部隊の長と化していった。結果、北畠顕家が一度目の西上を行った際、糠部に残ってか安藤家季らの蜂起に対応している。南部政長は敵方の攻勢に対し防衛ラインを築き、北畠顕家が戻ってくると多賀国府に残った兄・南部師行に代わり、現地で情報戦などを展開し、引き続き持久戦を続けていた。
ところが、2回目の西上で、北畠顕家、兄の南部師行の2人が死ぬ。暦応2年(1339年)3月には、足利直義から降伏勧告が出されるが、越後五郎を総大将にして津軽で大反乱を起こした。なお、越後五郎はだれかよくわからない。
しかし、この反乱では大光寺を抑えることに失敗し、南部政長は北畠親房に奥羽の南朝方がじり貧であることを訴えている。実際、奥州総大将・石塔義房らが各地で硬軟併せた対応で南朝方の勢力を減らしており、興国元年(1340年)にもっと条件が厳しくなった降伏勧告を足利直義から再度受けるが、南部政長はこれを蹴った。さらに、北畠顕家の弟・北畠顕信がきたことで、南朝方は息を吹き返したのである。
北畠顕信の下で
北畠顕信の下に興国元年11月7日に届いた書状では、津軽の安藤一族の調略などを行いつつも西根で戦闘中で、さらに息子の南部信政が鹿角方面に転戦中だと報告しており、津軽一定程度の成果を上げていた。
南部政長は三度目の降伏勧告を蹴ると、北畠顕信とともに両面作戦を展開する。まず南部政長は南下して斯波を制圧し、これを受けて北畠顕信も葛西氏とともに稗貫の攻略に移っていき、多賀国府の奪還を狙ったのである。ところが、多賀国府の奪還に失敗した上に、糠部をがら空きにしたことで、津軽の北朝方の曽我師助・曽我貞光らが糠部を襲撃。最初の内は撃破がうまくいっていたものの、何十回と攻撃されていき、北畠顕信との連携も取れなくなってしまったのである。
しかし、興国3年(1342年)に、南部政長はこれを鎮静化させてしまい、上洛をした。後村上天皇はこれを喜び、このとき与えられた甲冑・刀が八戸南部家のレガリアと化していくが、刀は昭和時代に行方不明になった。
ところが、北畠顕信が同年敗北し、奥羽の南朝方は完全にあきらめムードになる。南部政長も、興国6年1345年)2月に北畠顕信から領地を与えられるも、これは足利尊氏の旧領である加美郡であり、完全に北朝方から「切り取り御免」と言っているだけの空手形であった。
しかし、3月に息子の南部信政を右近蔵人に、南部信助を兵庫助に任官されると、この恩に報いるため南部政長は4月に蜂起した。しかしもはやなにもできず、1か月で鎮圧された。
最期の彼自身の蜂起
正平元年(1346年)4月11日、足利直義から四度目の降伏勧告が来た。この降伏勧告では本領安堵が復活しており、これまでよりも甘い条件だった。12月9日には五度目の降伏勧告が行われたが、本領安堵どころか望む領地を与えるとさらに甘くされてしまう。
これに対し、限界も感じていた南部政長は、北朝に降伏した。吉良貞家と畠山国氏宛てに足利尊氏から正平元年12月21日付けで南部政長が降参した報告がされている。
南部政長は、翌年に上洛したのだが、実はこの裏では最後の一撃を狙っていた。つまり、しばらく時間を稼ぐと、正平4年(1349年)3月に糠部・滴石で反乱を起こし、一年ほど奥羽を荒らした。ところが、正平5年(1350年)6月に、北畠顕信から和睦がなったので兵を引くように命じられ、兵を引き上げた。
この後も、南部政長自体はもはやなにもしないのだが、子孫が南朝方なので、北朝方には特に帰らなかったようである。
後継者について
通説では、兄・南部師行の娘との間に南部信政を設け、三戸家の南部祐政の娘との間に南部政持・南部信助を設けていたとされるが、この辺がかなり史実性は怪しい。
まず、三戸南部家はこの時代全く動向が確認できない。とはいえ、南部政持が新田(にいだ)家、南部信助が中館家と、八戸南部氏の家臣クラスに落ちていったのは事実なので、南部信政の子孫が嫡流とみなされたのは確かである。しかし、おそらく新田家に関しては、在地の比内新田家と姻戚になったからという可能性が高く、弟の南部信助も同母と考えると、この2人は比内新田家の何らかの女性との間に生まれた子供とも言われる。
また、嫡男の南部信政に関しても、江戸時代の伝承のように、甲斐にいたころに南部師行から娘を迎える必然性が、当時嫡男がさらに上の兄の南部時長だったことを考えると、かなりゼロに近い。よって、南部師行の娘を迎えるタイミングが彼の戦死後くらいしかなく、どれかの伝承が誤っているまでは確実に言える。問題はそれ以上何も言えない。
しかし、南部信政に関しては、南部政長よりさらに前に死んだ。正平5年(1350年)にはそれを受けて、南部政長は孫の南部信光に八戸を、その弟の南部政光に七戸の半分を譲り、残り半分は彼らの母親に預けて南部政光が成人後どちらかに渡すように残していった。ただ、八戸に関しては本当にいつの間にか領地として確保していたくらいしかわからず、彼とその子孫によって実効支配されたことで、なし崩し的に室町時代に本拠とされていった。
南部政長の死後
彼の死後、孫の南部信光が後を継ぎ、後村上天皇から引き続き忠義に報いられた。なお、彼や叔父の新田政持は甲斐に所領を持っており、この時点でもまだ南部氏は甲斐を本領と思っていたと思われる。
しかし、天授2年(1376年)に南部信光から弟の南部政光が後を継いだ。しかし、南部氏は引き続き南朝方だったものの、もはやじり貧であり、南北朝問わずに地元の在地勢力と一揆を結ぶことで、生き残りを図っていった。結局、南北朝合一によって室町幕府の一因になったものの、甲斐国の所領は諦めていき奥羽の武士として生き残りを図っていくことになる。
関連項目
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