南部政長単語

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南部政長(?1360)とは、南北朝時代の武将である。

概要

端的に言えば南部師行北畠顕家南部師行が戦死した後、州の南方の一となり、子孫が南方として活動していく端緒となった。

南部師行の戦死後

3年(1333年)5月、南部政長は鎌倉幕府滅亡に際して州から鎌倉の討幕軍にはせ参じた。なお、この記録が、実は一次史料で確認できる南部氏州にいた最も最初のものである。

南部政長の八戸南部が、波木井南部と実際は全く関係である点、いとこの南部武行と領地争いをしていた点は、南部師行の記事に書いたので割愛する。

とりあえず、この南部政長が彼個人で何かをやった最初の記録が、結城が代官を派遣しなかった原因で収された七戸が、北条氏残党討伐の功績で北畠顕家から彼に与えられたものである。おそらく、津軽で相変わらず内紛をしている曽我氏に注力するために、南部師行の外と合わせて、津軽鎮圧ルートとして与えられたものと思われる。

おそらく、政務を担う力が高かった南部師行べ、軍事力に優れた人物だったため、であったこともあり南部政長は以後実働部隊の長と化していった。結果、北畠顕家が一度の西上を行った際、糠部に残ってか安藤季らの起に対応している。南部政長は敵方の攻勢に対し防衛ラインを築き、北畠顕家が戻ってくると多賀府に残った南部師行に代わり、現地で情報戦などを展開し、引き続き持久戦を続けていた。

ところが、2回の西上で、北畠顕家南部師行の2人が死ぬ。応2年(1339年)3月には、足利直義から降勧告が出されるが、越後五郎を総大将にして津軽で大反乱を起こした。なお、越後五郎はだれかよくわからない

しかし、この反乱では大寺を抑えることに失敗し、南部政長は北畠親房羽の南方がじり貧であることを訴えている。実際、州総大将・石義房らが各地で硬軟併せた対応で南方の勢力を減らしており、元年(1340年)にもっと条件が厳しくなった降勧告を足利直義から再度受けるが、南部政長はこれを蹴った。さらに、北畠顕家北畠顕信がきたことで、南方は息を吹き返したのである。

北畠顕信の下で

北畠顕信の下に元年11月7日に届いた書状では、津軽安藤一族の調略などを行いつつも西根で戦闘中で、さらに息子南部信政が鹿角方面に転戦中だと報告しており、津軽一定程度の成果を上げていた。

南部政長は三度の降勧告を蹴ると北畠顕信とともに両面作戦を展開する。まず南部政長は南下して斯波を制圧し、これを受けて北畠顕信も葛西氏とともに稗貫の攻略に移っていき、多賀府の奪還を狙ったのである。ところが、多賀府の奪還に失敗した上に、糠部をがらきにしたことで、津軽の北方の曽我師助・曽我らが糠部を襲撃。最初の内は撃破がうまくいっていたものの、何十回と攻撃されていき、北畠顕信との連携も取れなくなってしまったのである。

しかし、3年(1342年)に、南部政長はこれを鎮静化させてしまい、上をした。後村上天皇はこれを喜び、このとき与えられた甲冑・八戸南部レガリアと化していくが、昭和時代に行方不明になった。

ところが、北畠顕信が同年敗北し、羽の南方は全にあきらめムードになる。南部政長も、6年1345年)2月北畠顕信から領地を与えられるも、これは足利尊氏の旧領である加美であり、全に北方から「切り取り御免」と言っているだけの空手形であった。

しかし、3月息子南部信政を右近蔵人に、南部信助を兵庫助に任官されると、この恩に報いるため南部政長は4月起した。しかしもはやなにもできず、1かで鎮圧された。

最期の彼自身の蜂起

元年(1346年)4月11日足利直義から四度の降勧告が来た。この降勧告では本領安堵が復活しており、これまでよりも甘い条件だった。12月9日には五度の降勧告が行われたが、本領安堵どころか望む領地を与えるとさらに甘くされてしまう。

これに対し、限界も感じていた南部政長は、北に降した。吉良貞家畠山氏宛てに足利尊氏から正元年12月21日付けで南部政長が降参した報告がされている。

南部政長は、翌年に上したのだが、実はこの裏では最後の一撃を狙っていた。つまり、しばらく時間を稼ぐと、正4年(1349年)3月に糠部・滴石で反乱を起こし、一年ほど羽を荒らした。ところが、正5年(1350年)6月に、北畠顕信から和がなったので兵を引くように命じられ、兵を引き上げた。

この後も、南部政長自体はもはやなにもしないのだが、子孫が南方なので、北方には特に帰らなかったようである。

後継者について

通説では、南部師行との間に南部信政を設け、三戸南部政のとの間に南部政持・南部信助を設けていたとされるが、この辺がかなり史実性は怪しい。

まず、三戸南部はこの時代全く動向が確認できない。とはいえ、南部政持が新田(にいだ)南部信助が中館と、八戸南部氏クラスに落ちていったのは事実なので、南部信政の子孫が嫡流とみなされたのは確かである。しかし、おそらく新田に関しては、在地の新田と姻戚になったからという可性が高く、南部信助も同と考えると、この2人は新田の何らかの女性との間に生まれた子供とも言われる。

また、嫡男の南部信政に関しても、江戸時代の伝承のように、甲斐にいたころに南部師行からを迎える必然性が、当時嫡男がさらに上の南部時長だったことを考えると、かなりゼロに近い。よって、南部師行を迎えるタイミングが彼の戦死後くらいしかなく、どれかの伝承が誤っているまでは確実に言える。問題はそれ以上何も言えない。

しかし、南部信政に関しては、南部政長よりさらに前に死んだ。正5年(1350年)にはそれを受けて、南部政長は孫の南部八戸を、その南部に七戸の半分を譲り、残り半分は彼らの母親に預けて南部が成人後どちらかに渡すように残していった。ただ、八戸に関しては本当にいつの間にか領地として確保していたくらいしかわからず、彼とその子孫によって実効支配されたことで、なし崩し的に室町時代に本拠とされていった。

南部政長の死後

彼の死後、孫の南部が後を継ぎ、後村上天皇から引き続き忠義に報いられた。なお、彼や叔父新田政持は甲斐に所領を持っており、この時点でもまだ南部氏甲斐を本領と思っていたと思われる。

しかし、授2年(1376年)に南部から南部が後を継いだ。しかし、南部氏は引き続き南方だったものの、もはやじり貧であり、南北朝問わずに地元の在地勢力と一を結ぶことで、生き残りを図っていった。結局、南北朝合一によって室町幕府の一因になったものの、甲斐の所領は諦めていき羽の武士として生き残りを図っていくことになる。

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