南部師行(?~1337)とは、鎌倉時代~南北朝時代の武将である。
概要
南部氏の内、南朝方についた八戸南部氏の人間。ただし、『青森県史』などの刊行で資料群が整備され、21世紀になって出自などが盛大に見直されたので、そちらに従う。
出自
甲斐源氏の内、加賀美遠光の子孫であり、小笠原氏とは同族。従来の伝承では、祖である南部光行が糠部を与えられ、嫡男の南部実光が三戸系に、その弟の波木井実長が八戸系になったとされてきたが、八戸南部氏が波木井系南部氏であることは現在否定された。
まず、南部氏自体は、鎌倉時代に陸奥にいない。通説ですら南部師行の父・南部政行の代にもまだ本願地の甲斐国南部領の領主であり、かの有名な『六条八幡宮造営料』で南部光行が甲斐国御家人であることがわかることから、そもそも南部氏は鎌倉時代は普通に甲斐国にいたと言われている。
さらに、この南部師行も、かつては南部政行の次男として生まれ、同族で甲斐国波木井郷の波木井南部家の婿養子になった結果、奥州に派遣されたことで八戸家の系譜になったと従来は言われていた。のだが、近年の「身延文庫」の調査によって、この伝承が江戸時代の創作だと分かった。
つまり、八戸南部氏が甲斐国の身延久遠寺と連携して、藩主である三戸南部氏よりは格下で、なおかつ自分たちが信仰している日蓮宗に帰依していた同族の波木井南部氏に無理やり祖先を入れ替えたというのが、最近の説である。なので、南部師行の前に連なっている南部実継・南部長継は架空の人物で、そんな系統は鼻から無く、普通に南部師行は最後まで本家筋の出身である。
建武政権に合流した南部師行
同時代史料的には、南部郷の領主・南部政行の次男で、兄に南部時長、弟に南部政長がいる。
しかし、鎌倉時代に彼ら三兄弟は、いとこの南部武行に父親の遺領が押領されていた。というのもまず、南部武行の父・南部宗実は南部政行の兄であり、この兄弟が領地をめぐって争っていたのだが、結局南部政行が勝った。ところが、南部政行が死んだので、南部武行がその争いを蒸し返したのである。
南部武行は三兄弟の異母弟の南部資行を味方につけ、さらに幕府の御内人の長崎氏の娘婿にまでなったため、勢力が強く幕府への訴えは全く決着がつけられなかったのである。この争いは鎌倉幕府滅亡後に建武政権の雑訴決断所に持ち越され、三兄弟は「南部武行は幕府方で朝敵です」とアピールし続けた。ただし、結局うやむやになったらしく、南部師行は少し後の建武3年(1336年)にまだ訴えを続けていた。
しかし、この後の歴史で甲斐国は南部武行の子孫が続いていくので、結局この争いに勝てなかったようである。
こうした流れで朝廷寄りになった影響か、倒幕後の建武政権で重要なポストに就く。まず北畠顕家の下向に連動して元弘3年(1333年)10月に多賀国府入り。糠部郡奉行となったのである。さらに、管轄領域は糠部郡にとどまらず、久慈・閉伊・遠野・比内・鹿角・外浜とかなり広範に及んでいた。
なお、彼がこのときどこで政務にあたっていたのかは、微妙にまだ決着していない。元弘4年(1334年)2月18日に八戸で北畠顕家の指示を受けていたので、糠部八戸に行ってなくもないのだが、多賀国府にいた説も根強いためである。
南部師行は、この奉行職で北条氏残党の領地の配分などを行っていた。また、郡検断には馬の管理も含まれていたようであった。
北畠顕家軍で
元弘3年(1333年)12月~建武元年(1334年)1月ごろに、津軽の大光寺館で曽我氏が北条方と建武政権方に分かれて内紛し、多田貞綱や中条時長を派遣して事態の収拾にあたるなど、北条氏残党の起こす騒乱は南部師行の地域でも起きていた。
そして、建武2年(1335年)中先代の乱で北条時行が鎌倉を陥落、足利尊氏が時行軍を撃破しそれを収束、ところが足利軍の建武政権の離反と、ジェットコースターのように事態は急展開する。
この結果、鎮守府将軍に任じられた北畠顕家が、足利尊氏撃破のために、西上を開始する。八戸家は従来の伝承では南部師行は地元の足利方対策で従軍しなかったとされているが、『青森県史』や『南北朝遺文東北編』などからそれは否定され、彼本人もこの軍に従っていた。少なくとも延元2年(1337年)2月20日に安藤祐久が「上洛後ずっと会えてないですね」という手紙を送っているので、断言できる。
一方、弟の南部政長は糠部に残り、息子の南部信政が従軍したことが、すべての始まりとなる。
北畠顕家軍は爆速で足利尊氏を撃破し、多賀国府に戻ってくるが、南部師行はそのまま北畠顕家とともにここにとどまったらしい。このまま1年以上多賀国府におり、延元元年(1336年)11月以降になってようやく糠部に戻っていった。
のだが、延元2年(1337年)8月11日、北畠顕家軍は再度西上を命令される。今度は八戸家は南部師行だけがこれに付き従い、北畠顕家とともに各地を転戦していったが、堺浦石津で高師直軍に敗れ、戦死した。北畠顕家軍の主要人物では数少ない顕家とともに戦死した存在であり、この結果弟の南部政長が糠部で後を継ぐことになる。
関連項目
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