大友義鑑(おおとも・よしあき 1502 ~ 1550)とは、豊後国の戦国大名である。
概要
豊後大友家20代当主。大友宗麟・大内義長の父。積極的な領土拡大を狙うが、肥後に送り込んだ弟・菊池義武とは対立関係となり兄弟で骨肉の争いを繰り広げる事となった。
晩年は三男・塩市丸を溺愛したことから宗麟派の家臣により暗殺された(二階崩れの変)。
生涯
父は大友義長。初名は親安、続いて親敦を名乗り義鑑に改名した。
1515年、14歳の時に父の隠居により家督を継いだ。ただし当初は父が後見人として実質権力を握っていた。1518年に父が死去した後は祖父・大友親治がそれに代わった(1524年没)。
父の代には家督を巡る争いがあったが、それらを鎮圧した状態で権力を握る。すると積極的な領土拡張策に出るようになり、特に守護・菊池氏が没落していた肥後国に介入を試みる。弟・大友重治を菊池家当主・菊池義武として送り込んだのである。ところが義武は兄の傀儡となることを嫌ったのか、大名としての独立を謀る。これにより兄弟は対立関係となり、この争いは息子・大友義鎮(宗麟)の代まで続くこととなる。
妻は大内義興の娘で、義鎮、大友晴英(大内義長)を生んだ。ちなみに娘は一条房基に嫁いでおり、戦国のアイドル・一条兼定を生み、のちに一条さんが大友家に亡命する理由のひとつとなっている。
大内義隆とは対立関係にあったが足利将軍家の仲介もあり和睦し、晴英を義隆の猶子としている(のち解消)。
ところが晩年になると、粗暴な義鎮よりも異母弟・三男の塩市丸を溺愛し始め、義鎮の廃嫡を考え始める。重臣・入田親誠と共に義鎮派の家臣・小佐井大和守、斎藤長実(斎藤鎮実の父)などを殺害するなどの暴挙も行ったことから義鎮派家臣の危機感を呼ぶこととなる。そして遂には1550年2月10日、田口蔵人佐・津久見美作守の襲撃を受け、塩市丸とその母が殺害され、義鑑も瀕死の重傷を負い、2日後に死去した(田口と津久見も死亡)。居館の二階で起こった事からこれを『二階崩れの変』と呼ぶ。享年49。
義鎮本人が二階崩れの変に関わっていたのかは諸説ありわからない。義鎮派の暴走という説が強いが裏にいた可能性は否定できない。しかし家督は義鎮(宗麟)が継いだのが事実である。
変を受けた義鑑は領国経営に関する文を義鎮に遺して死去したが、瀕死の義鑑が遺したにしてはあまりにも丁寧に整っており、これも義鎮派の自作自演・陰謀ではないかとの説がある。
豊後・筑後・肥後を支配し、大友家の全盛期へと至る道筋を作った人物であるが、菊池義武の存在や上記のような死に方のため評価はちょっと微妙な部分もある。
補足
二階崩れの変は多くの作品でイベント化されている。謀叛で殺された為か初期シリーズでは智謀系能力が低い傾向にあったが、最近は見直されている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 49 | 政治 | 78 | 野望 | 54 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 164(A) | 智才 | 140(C) | 政才 | 160(A) | 魅力 | 85 | 野望 | 56 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 77 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 54 | 政治 | 77 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 73 | 智謀 | 45 | 政治 | 83 | 野望 | 92 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 70 | 知略 | 63 | 政治 | 71 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | 78 | 武勇 | 70 | 知略 | 69 | 政治 | 88 | ||||||||
天道 | 統率 | 78 | 武勇 | 70 | 知略 | 69 | 政治 | 88 | ||||||||
創造 | 統率 | 83 | 武勇 | 70 | 知略 | 74 | 政治 | 85 | ||||||||
大志 | 統率 | 82 | 武勇 | 70 | 知略 | 74 | 内政 | 78 | 外政 | 81 |
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