織田信秀(おだ・のぶひで)とは
1.織田信秀(信長父)
概要
『尾張の虎』の異名をとった戦国武将。尾張守護代・織田大和守家(清洲織田家)に仕える分家『織田弾正忠家』の出身であったが、経済力と軍事的才覚でメキメキと頭角を現す。尾張屈指の勢力を築き、弾正忠家を戦国大名にまでのし上げた。
尾張の他勢力をけん制しつつ、三河の松平清康・美濃の斎藤道三・駿河の今川義元らと争うが、病に倒れた。息子・織田信長にその覇業は受け継がれていく。
織田弾正忠家とは…
のちに天下人・織田信長を輩出して織田の宗家となった弾正忠家であるが、元々は庶流のひとつにすぎない。
尾張国の守護大名は斯波武衛家、この時代には既に没落状態だが、足利将軍家から分かれた由緒ある名門である。それに仕える守護代が織田氏だが、これが応仁の乱で二つに分かれて、上四郡を本来の主流である織田伊勢守家(岩倉織田家)、下四郡を織田大和守家(清洲織田家)が支配していた。
この大和守家の重臣『清洲三奉行』として、庶流にあたる織田因幡守家、織田藤左衛門家、そして織田弾正忠家がいた。つまり・・・
という、あくまで一家臣にすぎない家柄だった。なお斯波武衛家は清洲の大和守家の庇護下にあり、事実上大和守家が尾張一の実力者の立場にあった。
生涯
織田信定(信貞)の息子。父・信定は尾張西部に位置する勝幡城の城主で、その地の利を活かし、ほど近い津島の湊を勢力下に収めた。この為、信定の代から弾正忠家の経済力はメキメキと伸びていた。
1526年ごろ、父から家督を譲られて信秀が弾正忠家当主となる。この頃には、主家である大和守家にも対抗できるほどの勢力にまで成長していた。
駿河の今川氏親は既に死去していた(1526年没)が、彼が存命だった頃には尾張にまで勢力が伸びており、そうして今川の手によって築城されたのが那古野城だった。1532年、信秀はここに奇襲をかけて奪取し、拠点を移す。1534年、嫡男の信長が誕生。
こうして尾張東部へと進出し、津島に続いて熱田の湊も勢力下に置いた。こうして得た利益を朝廷や幕府に積極的に献上し、正式に官位も賜るなど、勢力に見合った権威付けも着々と進められている。
一方三河では松平清康が台頭し、国内を統一すると尾張へと攻め込んできた。が、1535年の守山崩れで清康は家臣に暗殺されてしまう。この混乱に乗じて信秀はカウンターをかけ、三河の安祥城を奪取し、庶長子の織田信広を城主とした。続いて松平を支援するべく出陣してきた今川義元と第一次小豆坂の戦いで争うが、これに勝利して三河での勢力を維持した。
すると今度は美濃で騒乱が起こり、守護土岐頼芸が斎藤道三によって追放されて尾張に亡命してきた。このため、越前の朝倉孝景らと組んで美濃へと出陣する・・・が、1544年の加納口の戦いで大敗してしまった。
ここまですこぶる順調な拡大を見せていた信秀だったが、このつまづきを見て反撃に出る勢力が続出する。甥の織田信清(犬山城主)の反乱や、大和守家当主・織田信友の攻撃を受け、美濃戦線の維持が難しくなってしまった。そこで道三とは和睦し、彼の娘・帰蝶(濃姫)を信長の妻とすることが決まった。土岐頼芸は美濃へ帰還したが、結局数年後に追放されている。かなしい。
同時期、松平広忠(清康の子)は息子・竹千代(のちの徳川家康)を今川への人質に送ろうとしていたが、信秀はその護衛を買収して竹千代の身柄を確保することに成功する。そのまま松平を併呑すべく1548年、第二次小豆坂の戦いが勃発した、が、今川の援軍である太原雪斎の前に敗北する。翌年には安祥城も陥落して信広が捕虜になってしまった。信広と竹千代の人質交換を求められた信秀は受諾。松平広忠が暗殺されていたこともあり、三河はほぼ今川の手に落ちた。
こうして美濃・三河への拡大は失敗に終わる。と同時に信秀は病に倒れ、2~3年の闘病ののちにこの世を去った。
その後・子孫
嫡男・織田信長が家督を継いだ。一方で三男・織田信勝も末森城を継承し、後に内紛を起こすことになった。当時としては勢力拡大のために弟や子供たちに所領を分けていく事自体は珍しくなく、たとえば信秀の弟の織田信光は守山城、織田信康(信清の父)は犬山城で分家を立てている。それを如何にまとめられるかが当主に求められる手腕であったし、そもそも弾正忠家自体がそうして生まれた分家から成り上がった家である。
信長を初め12人もの息子に恵まれ、ほか女子も多く、多数の婚姻や養子縁組が行われた。
- 嫡男・織田信長についてはあまりに有名なので割愛。詳しくは当人の項目参照。
- 庶長子・織田信広は一時信長に謀反を起こすが許され、長島一向一揆との戦いで討死。
- 三男・織田信勝は信長に謀反を起こした末に粛清される。
- 四男・織田信包は戦国時代を生き抜き、丹波柏原藩主となる。
- 五男・織田信治は志賀の陣で討死。
- 六男・織田信時は若くして家臣に殺害される。『信長公記』の記述や活動時期から推測すると、信長の庶兄(次男)である可能性もあり。
- 七男・織田信與は長島一向一揆との戦いで敗死。
- 八男・織田秀孝は信秀の弟・織田信次の家臣に誤殺されてしまう。
- 九男・織田秀成も長島一向一揆との戦いで討死。
- 十男・織田信照は不明な点が多く、のち中根姓を名乗り本多忠勝の家老となったとも。
- 十一男・織田長益は茶人「織田有楽斎」の名で知られる。
- 十二男・織田長利は本能寺の変の際、二条御所で討死。
信秀は戦国大名としての地位を確立しつつも、国内の序列としてはあくまで大和守家の家臣から脱却することはなかった。だが彼が作り上げた基盤は非常に大きなものとなり、この後信長によって大和守家・伊勢守家は滅亡し、斯波武衛家も追放されることで、弾正忠家は名実ともに尾張の国主となる。(信長も主家にあたる彼らに対しては様々な大義名分を得たことで攻め滅ぼしており、もしそういった機会があれば信秀も行動していたのかもしれない)
補足
覇王伝で信長誕生シナリオ(1534年)が初登場した事でデビュー。戦闘能力は流石の一言。知略政治は微妙な時期が長かったのだが、「創造」では津島掌握などが描かれて大幅に性能アップした。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 82 | 戦闘 | 90 | 智謀 | 62 | 政治 | 51 | 野望 | 97 | ||||
天翔記 | 戦才 | 180(A) | 智才 | 146(B) | 政才 | 150(B) | 魅力 | 84 | 野望 | 91 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 43 | 政治 | 52 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 83 | 智謀 | 41 | 政治 | 50 | 野望 | 94 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 78 | 知略 | 36 | 政治 | 46 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | 93 | 武勇 | 95 | 知略 | 53 | 政治 | 61 | ||||||
天道 | 統率 | 93 | 武勇 | 95 | 知略 | 53 | 政治 | 61 | ||||||
創造 | 統率 | 86 | 武勇 | 70 | 知略 | 87 | 政治 | 90 | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 86 | 武勇 | 70 | 知略 | 87 | 政治 | 90 |
2.織田信秀(信長六男)
幼名は大洞、通称は三吉郎。1571年ごろの誕生で、元服したのは本能寺の変の翌年、1583年の事であった。豊臣秀吉が天下人に上り詰めると、以後は織田家の人間として厚く遇され、侍従の官位と豊臣姓を与えられた。のちキリスト教に帰依する。
文禄・慶長年間(1590年代)にハンセン病のために没したとされるが晩年の詳細は不明瞭である。子孫についても伝わっていない。
関連項目
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