- プロ野球選手一覧 > 山本一義
山本一義(やまもと かずよし)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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山本一義 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市 |
生年月日 | 1938年7月22日 |
没年月日 | 2016年9月17日 |
身長 体重 |
177cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1961年 |
引退 | 1975年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
広島商業高等学校に進学。2年時まで投手としてプレーしていたが、腰を痛めたことから野手に転向。県内トップクラスの強打者として鳴らし、県大会で13打席敬遠されたこともあった。3年時には春夏連続で甲子園大会に出場している。
卒業後は法政大学に進学。1年時よりレギュラーとして活躍し、4年時には4番打者かつ主将として12年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。在学4年間で2度ベストナインにも選出された。
この活躍から全球団から入団の誘いがあり、南海ホークスの鶴岡一人監督から目をかけられていたこともあり山本自身は南海に入団するつもりでいたが、カープ後援会名誉会長であり当時通産大臣を務めていた池田勇人からの説得される形で、1961年広島カープに入団。
初年度の開幕戦から出場機会を得たが、プロの壁に苦しみなかなか活躍できない時期が続いた。
3年目の1963年、レフトのレギュラーに定着すると中軸を任されるようになり、この年12本塁打を放った。
1964年、規定打席に初めて到達し、セ・リーグ9位の打率.290をマーク。
1966年、自身初の打率3割(.300、セ・リーグ8位)を記録し、ベストナインにも初選出された。
1967年、キャリアハイとなる打率.311(セ・リーグ4位)をマーク。
1968年からは4番打者として起用されるようになりチーム初のAクラス入りに貢献すると、1969年には打率.294に加え、自己最多の21本塁打を放ち、2度目のベストナインに選出された。
以降も広島のスターとして活躍したが、1973年頃から徐々に出場機会が減少。1974年からはコーチ兼任となる。
1975年、控えながら山本自身だけでなくチームにとっても初めてとなるリーグ優勝を経験。日本シリーズでは足立光宏から本塁打を放ったが、この日本シリーズを最後に現役を引退。
引退後は広島、近鉄バファローズでコーチを務めた後、1982年からはロッテオリオンズの監督に就任。若手の高沢秀昭、西村徳文らを辛抱強く起用し続け育成したが、1983年には球団史上初の最下位となってしまい2シーズンで解任された。ロッテ退団後は南海でコーチを務めた。
その後は解説者・評論家として活動しつつ、1991年からはカープアカデミーでコーチを務めた。
1994年には再び広島のコーチに就任し、1998年まで勤め上げた。
その後は主に評論家として活動していたほか、法政大学の臨時コーチや全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたっていた。
2016年9月17日、尿管癌のため死去。享年78歳。なおこの訃報は古巣・広島の25年ぶりのリーグ優勝に水を差さないよう、本人の意思で10月3日まで公表は控えられた。
人物・エピソード
低迷期の広島において、勝負強くコンパクトな打撃でチームを鼓舞し続けた中距離打者。膝を巧みに使った変化球打ちを得意としていた。
引退後は名コーチとして名を馳せ、高橋慶彦・山崎隆造・長嶋清幸・高沢秀昭・西村徳文・山本和範・金本知憲・木村拓哉といった名打者たちを育成した。特に左打者やスイッチヒッターの育成に長けていた。
同じ山本姓で出身も同じく広島県である山本浩二が憧れていた存在でもある。
通算成績
打撃成績
通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1594 | 5582 | 4846 | 569 | 1308 | 171 | 655 | 22 | 4 | 50 | 629 | 53 | 519 | 119 | .270 | .360 |
監督成績
通算:2年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 260 | 97 | 145 | 18 | .400 | Bクラス2回 |
獲得タイトル・記録
関連商品
関連項目
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